泥に染まる雪
この章には回想中に戦争や自死表現を含むものが多々あります。お気をつけください。
また現代的な倫理観からは受け付けられない表現もございます。
夜の静寂のうちに降り積もった雪は、朝の光を浴びて白く輝いていた。だが、街の目覚めとともに、その無垢な白は早々に茶色に染まっていく。行き交う人々の足音、荷車の軋む音、店主たちの忙しない声。それらすべてが雪の上に痕跡を残し、混じり合った泥が小道を覆い始める。
馬車の車輪が湿った雪と泥を踏みしめ、鈍い音を立てながら通りを進む。その動きに合わせて、雪の塊が道端へと押しやられ、泥の跳ねる音が聞こえる。車輪が回転するたびに、わずかに揺れる車体。
その車内は薄暗く、わずかな隙間から冷たい空気が忍び込んでいた。窓には雪の名残が薄く貼り付き、外の景色を曇らせている。中に座る人物たちは揺れる車体に合わせて体を傾けつつも、静かな緊張感を漂わせていた。
馬車の窓越しに見える街の景色は、どこか胸の奥をざわつかせた。
雪が茶色い泥に汚されていく様子が、彼女にあの日の記憶を呼び起こしたからだ。
あの日も、こんな景色だった。
ただし、そこに広がっていたのは戦場だった。
白い雪は、剣と矢が交わる音とともに赤黒く染まり、足元には泥混じりの血が広がっていた。叫び声と命乞いが入り混じる喧騒は、街の賑わいとどこか似ていた。人々の営みが、誰かの生きるための闘争に見えるのは、彼女の心がまだ戦場に囚われているからだろうか。
馬車が揺れるたびに、リリアは膝の上の手を握りしめた。窓の外に広がる景色は、平和そのもののはずなのに、彼女の心にはあの日の戦場がこびりついて離れない。
◇◆◇◆
雪が止んだ後の静寂は、まるで世界が息を潜めたかのようだった。空は灰色に覆われ、冷たい光が地上を照らしている。雪原は一面の白、しかしその純白は完璧ではない。誰かが通った跡、車輪が刻んだ溝、そして泥の跳ねた痕が、雪の表面を汚している。戦争の痕跡は、こんな小さな場所にも残されていた。
リリアは足を止め、遠くに見える湖を見つめた。湖面は氷に覆われ、その透明な表面に周囲の風景が映り込んでいる。凍てついた湖は静かで、何もかもを拒絶するような冷たさを放っていた。
その湖を背にして、彼女の視線は修道院へと向かった。
かつて祈りと平穏の場であったはずの建物は、今や戦争の影に覆われている。壁には修復の跡があり、いくつかの窓は木材で塞がれていた。修道院の尖塔は空に向かってそびえ立っているが、その先端は欠けていた。戦争による破壊の爪痕が、建物全体に刻まれている。
修道女たちが祈りを捧げていた頃の修道院は、もっと温かく、もっと穏やかであっただろう。
今では戦時徴用され、武器庫や兵舎として使われていると聞く。祈りの声が響いていた場所に、今は命令の叫び声が響いているのだろう。
彼女は深く息を吸い込んだ。冷たい空気が肺を刺すように入り込み、思考を凍らせる。リリアは目を閉じ、頭の中に地形を叩き込ませた。
その時、足元で雪が軋む音が、静寂の中に響いた
「リリア団長様」
呼びかける声に振り向くと、髭の伸びた軍服姿の男が立っていた。トーマスだ。歳は40代といったところだろうか。これでも部隊の中では私の次に若いのだから、苦笑したくなる。
「トーマスか。どうした?」
「ここに来てからずっと外を見てばかりで、皆が心配しております。」
「心配、か。」
その言葉に、リリアの胸の奥で微かな痛みが走った。それは鋭い刃物のようなものではなく、柔らかな棘だった。じわじわと心臓を締め付け、逃れられない息苦しさをもたらす棘だ。
これで私が男だったら、彼らはこんな風に「心配」などしなかっただろう。
王家の盾として名高い家に生まれ、幼い頃から剣を振るい続けてきた。兄と共に鍛錬に励み、戦場で英雄としてその名を刻む日が来るのだと信じて疑わなかった。だが、軍に入ってからの現実は、想像していたものとは違っていた。
作戦会議では、指揮官としての意見を求められるものの、その目はどこか遠い。男たちの視線は、私の性別を曖昧に見ないふりをしているようでいて、見えている。あからさまに侮辱されるわけではない。それどころか、彼らはむしろ「気遣い」を見せてくる。
「団長は無理をなさらないでください。」
「こういうことは我々にお任せを。」
その「優しさ」が、柔らかな棘となって私の心臓を縛り上げるのだ。
リリアは目を閉じ、胸に湧き上がる感情に蓋をした。今はそんなことを考えている場合ではない。
「ありがとう、トーマス。だが、私は大丈夫だ。」
「……そうですか。」
トーマスは一歩下がりかけたが、ふと足を止め、気後れしたように小さく息をついた。
「あの……ずっと思っていたことを御耳に入れても宜しいでしょうか?」
リリアは少し意外そうに眉を上げたが、すぐに頷いた。トーマスがこういうことを言うのは初めてだった。
「構わない。言ってみろ。」
トーマスは帽子を取って手に握りしめると、どこかぎこちない動きで言葉を紡いだ。
「主を失った我々を率いてくださって……ありがとうございます。」
リリアは一瞬、言葉を失った。
この部隊は元々、私の部隊ではない。他の主――かつての指揮官を失い、行き場をなくした者たちだ。戦場で生き残ることができたのは、彼らが無能だったからではない。むしろ、戦死した主を支え、最後の最後まで戦い抜いた結果だった。
だからこそ、彼らの言葉は重かった。
「私たちがここにいるのは、団長様のおかげです。どうか……ご自分を責めないでください。」
トーマスの声は、どこか震えていた。それは彼自身の感情から来るものか、それとも自分たちを導く彼女の重荷を思ってのものか、リリアにはわからなかった。
リリアは一瞬、何かを言おうとしたが、喉の奥に詰まった感情を押し殺し、短く頷いた。
「……いや、私の方こそ礼を言う。勇猛果敢と誉高き301部隊を率いれて私は幸運だ」
トーマスは驚いたように目を見開いたが、すぐに敬礼し直した。その敬礼は、先ほどのものよりもわずかに力強い。
「……ありがとうございます、団長様。」
トーマスは再び敬礼をして去っていった。彼の背中を見送りながら、リリアは再び凍りついた湖に目を戻した。
雪が止んだ後の薄曇りの空の下、泥に汚れた雪が広がっている。凍りついた湖が遠くに見え、その向こうには修道院が立っている。戦時徴用されたその建物は、静かに彼女たちを見守るように佇んでいた。
◇◆◇◆
リリアは修道院の扉を押し開け、中へと足を踏み入れた。薄暗い廊下に染みついた血と薬品の匂いが、彼女の鼻をついた。修道院としての神聖な静けさはすっかり失われ、代わりに苦痛と疲労の呻き声が響いていた。
廊下の両側には簡易的なベッドが並べられ、その上には包帯で巻かれた兵士たちが横たわっている。顔をしかめて呻く者、うわ言を呟く者、あるいは静かに天井を見つめる者――それぞれが戦場の爪痕を抱えていた。
リリアが足音を立てて進むたび、兵士たちの目が彼女に向けられた。だが、その視線には敬意も期待もなく、ただ無関心か、あるいはわずかな警戒心が浮かんでいるだけだった。
「……誰だ?」
ベッドに横たわる一人が低い声で呟く。
「新しい隊の者か?」
「いや、偉そうな格好だが、ここには関係ないだろう。こんなところ……」
ひそひそと交わされる言葉が耳に届いたが、リリアは表情を変えずに歩き続けた。彼らが自分を知らないことは当然だった。この修道院にいるのは、もともと別の部隊に所属していた兵士たちだ。彼らの指揮官は数日前に戦死し、今はこの修道院が臨時の野戦病院として機能している。
「ああ、あああ……」
通りすがりの若い兵士が、包帯だらけの手を使って敬礼をしようとしたが、痛みで顔を歪めた。リリアはその動きを制し、わずかに頷いた。
「無理をするな。休め。」
兵士は安堵の表情を浮かべ、再びベッドに沈み込んだが、彼女の言葉を聞いていた周囲の兵士たちが小声で囁き始めた。
「団長様だと?どこの団だ?」
「知らないな……でも、妙に堂々としてる。」
リリアはそれらの声を聞き流しながら奥へと進んだ。修道院の壁には、戦場から運び込まれた血まみれの軍旗が掛けられている。その下では、看護兵たちが忙しなく動き回り、負傷者たちに手当てを施していた。
「そこのオマエ、誰だ?」
声の主は、薄汚れた白衣を纏った若い男だった。
顔には疲労の色が見えるが、瞳には鋭い光が宿っている。年齢はリリアとそう変わらないように見えたが、その背筋は張り詰め、まるで彼の若さを覆い隠すかのようだった。
「シュヴァイツァー医官か。」
リリアは彼の前で立ち止まり、軽く頭を下げた。
「視察のために派遣されたリリア・ルクレティアだ。大隊長への挨拶に参ったが……数日前に戦死されたと聞いている。」
シュヴァイツァーはリリアを一瞥し、冷静な声で答えた。
「そうだ。今はオレがここを預かっている。と言うか、士官クラスはもうオレしかいない。みんな死んじまったからな」
視察に来たリリアの前で、若い医官が顔を歪めて言った。
「様子を見に来るより、麻酔なり包帯一個でも持ってこい!アンタらはいつもいつも遅いんだよ……!」
その声は、疲れ切った医師の切羽詰まった叫びだった。リリアは一瞬、目を細めてその言葉を受け止めたが、顔に浮かぶのは変わらぬ平静さ。
彼女はゆっくりと荷物を下ろし、そしてそれを開けた。中から出てきたのは、慰問品でも食料でもない。
麻酔薬、包帯、消毒液――。医薬品がぎっしりと詰め込まれていた。
その場にいた全員が、言葉を失った。医官も、周囲の衛生兵も、ただ黙ってその光景を見つめるしかなかった。
リリアは、何も言わずに手を伸ばし、ひとつひとつを渡していく。まるでそれが当然のことのように。
「少しでも、助けになることを願う。」
リリアの声は静かで、けれどその奥に確かな意志が宿っていた。
シュヴァイツァーの目に浮かんだ後悔の色を、リリアは見逃さなかった。
だが、それを責める気にはなれなかった。
その通りである。
何もかもが遅かった。
「冬の時期に山脈を越える可能性は考慮しなくて良いのでしょうか?。」
会議の席で、リリアがそのように進言したとき、誰も真剣に受け止めなかった。彼女の言葉に、ただ一瞬の沈黙が流れた後、誰もが「不可能だ」と思い込んでいたのだ。
その後、誰もが自分の意見に固執し、リリアの警告を無視した。なぜなら、山脈を越えるなど、常識的に考えてあり得ないことだと思われていたからだ。だが、彼女は知っていた。常識を超えることが、戦争ではしばしば起こるということを。
そして今、その予測が現実となり、彼女の警告はただの無力な声となって響いていた。
こうして現在へと至る。
ご覧の有り様であった。
己の思い描いた地獄を目の当たりにして、リリアは、心の奥底に鈍く重い何かが沈み込むのを感じていた。かつては騒がしく燃えていた怒りや悔しさすら、今では静かに灰となり、何もかもが遠く、ぼんやりと霞んで見える。
目の前に広がる光景は、ただの色と形の羅列に過ぎなかった。凍りついた湖も、血の染みた雪も、負傷兵の呻き声も、彼女の中に何の波紋も起こさなかった。感情が枯れ果てたというより、感情というもの自体が自分の中から消え去ったかのようだった。
それでも、表面だけは整っていた。王家の血筋として育ったリリアは、沈んでいく自分を誰にも悟られないよう、冷静さを装う術を幼い時から知っていた。だが、胸の内では、空虚な闇がゆっくりと広がり続けているのを自覚していた。
「何も感じない」ということが、こんなにも重く、苦しいものだとは思わなかった。
あの時、自分の発言を無視された瞬間、自分の役割が終わったのだと悟った。
誰も自分の言葉になど耳を傾けず、リリアの存在を必要としなかった。王家の血筋として背負ってきた誇りも、民草を守るという義務も、その場ではただの装飾に過ぎなかったのだ。
それでも、リリアはその義務を放棄することを許さなかった。
たとえ声が届かずとも、たとえ結果が報われなくとも、王家の名を冠する者は最後まで戦場に立つべきだ――そう信じていた。だからこそ、戦場で命を落とすことこそが、自分にとって最もふさわしい終わり方だと思った。
それは誰かのためではなく、ただ己が己であるための選択だった。
そんな時、孤立した野戦病院で傷病兵たちが苦しんでいるという報告が入った。リリアの心の中で、何かが動いた。自分が今、死に場所を求めているならば、ここで死ぬのが最もふさわしいのではないか。これ以上の無駄な生き方はないだろう。死を迎える場所として、これほど相応しいものはないと思った。
リリアは名乗りをあげた。
孤立した野戦病院からの脱出作戦に、自らの命を賭けることを決意した。それは、傷病兵を救うなどという尊い志のためではなく、死を求める自分にとって、ただ最も自然な選択肢だった。
リリアは自死願望を鎖で留め、飼い慣らしていた。それはただの抑圧ではない。彼女はその感情を計画的に整え、見繕い、冷静に扱っていた。自分の心の中で、何度も何度も死を望みながらも、それを無駄にすることなく、必要な時に引き出せるようにしていた。
死に場所を探し続けていた彼女が、救うのではなく、死を迎えるために。
それが彼女を動かす力となった。