残雪
足元に広がる白い雪。その純白の上に、静かに赤い血がぽたぽたと落ちる。
血の色が雪の上に鮮烈に広がり、その白さに対して異様なほどに目立つ。まるで雪の中に無数の小さな記憶が埋め込まれているような、静かな証拠のように。あれが夢でも幻でもなく、現実であることの証であった。
ヴァルはその光景に引き寄せられるように足を止め、目を離せなくなった。
彼の足元から血が広がり、雪が染まっていく。その冷たさを感じながらも、心の中では何かがひっそりと燃え続けているのを感じる。耳に届くのは、遠くから聞こえる煙の匂い。煙が冷たい空気に混じり、鼻をつく。その匂いは、かつての記憶を呼び覚ますようで、ヴァルは一瞬目を閉じた。
その先に、燃え盛る館がある。
赤く揺れる炎が、夜の闇を照らし、空を赤く染めている。煙が黒く立ち昇り、どこか遠くからはその音も聞こえてくるような気がする。館の炎が揺れるたびに、ヴァルの胸の中でも何かが揺れる。
まるであの時の、宮殿の時のようだと思った。
全てが終わった日でありながら、全ての始まりの日であった。
焼けるような熱さが、目の前の冷たい景色に反響し、心の奥深くにまで届く。
冷たい風が吹き抜け、その熱を運んできた。ヴァルはその風に顔を向け、何も言わずにただ立ち尽くしていた。血が雪に染み込み、館の炎がますます強く燃え上がる中、彼の心はどこか遠くに置き去りにされているような感覚を覚える。
何もできない自分に、ただ無力さを感じるだけだった。
目の前の光景が、まるで他人のように遠く感じられる。血の色が雪に染み込み、炎がその先で燃え続ける中、ヴァルはそのすべてをただ受け入れるしかなかった。
その場に立ち尽くし、冷たい風に身を任せる。何も言わず、ただその余韻の中で、自分を見つめるだけだった。
そのとき、足音が近づいてきた。ヴァルは少し顔を上げ、雪に染まった血を見つめながら、音の主を感じ取る。足音は確実に近づき、やがてその姿が現れた。
リリアだった。
冷たい風が彼女の髪を揺らし、白い雪の中に立つその姿は、まるでこの場所に不釣り合いなほどに強い存在感を放っていた。彼女の目がヴァルに向けられ、その瞳に鋭さが宿る。
「……ヴァル。」
彼女の声は静かでありながら、その中には抑えきれない怒りがにじみ出ていた。ヴァルは無言で彼女を見つめ、血の跡が広がる雪の中に立ち尽くしていた。リリアは一歩、また一歩とヴァルに近づき、その視線が彼に突き刺さる。
「私が頼んだのは、館を燃やすことではないぞ……!?センペルの悪事を暴くために、確実な証拠を手に入れることだ。」
リリアの声は震えていたが、その怒りの色は隠せなかった。彼女の目はヴァルを見据え、その瞳の奥には冷徹な光が宿っている。
「館が燃えたことで、私たちが積み上げてきたすべてが消えた。証拠も……計画も……全てが無駄になったんだ!」
リリアは拳を握りしめ、唇を噛み締めた。その怒りが、次第に冷徹な計算へと変わる。彼女の目は燃えさかる館の方に向けられ、言葉が続く。
「燃やされた館。あれは、センペルが隠したい何かがあったからだ。あの館には、私たちが探していた証拠がすべて詰まっていたはずなのに。」
ヴァルは黙ってその言葉を受け止める。血の匂いと煙の匂いが混じり、燃え続ける館の炎が遠くに見える中で、リリアの怒りは静かに、しかし確実に広がっていった。
「証拠が焼けたことで、あの男がどれほど恐れていたのかがわかる。だが、私たちが追っていた真実が……今や完全に消え去った。」
リリアは静かに息を吐き、冷静さを取り戻しつつあった。だがその冷静さの裏には、計画が破綻したことへの深い失望と怒りが潜んでいた。
リリアは一瞬、ヴァルの方を見た後、冷静に命じた。
「……トーマス。手当てしてやれ。」
その言葉が、冷たく響いた。部下の一人がすぐさまヴァルに駆け寄り、怪我の手当てを始める。
リリアはその動きを一瞥し、目を背けることなく、再び燃え盛る館に視線を戻した。炎が夜空を照らし、煙が濃く立ち上る中、彼女の表情には怒りも焦りも見えない。ただ、次への一手を思案していた。
ヴァルの怪我に対する関心が薄いわけではない。しかし、今はそれにかまっている時間がないことを彼女自身がよく理解していた。
炎の向こうに隠された真実、そして今後の動きに集中しなければならない。リリアは静かに息を吐き、冷静に次の手を考えながら、周囲の状況を見守っていた。
燃え盛る館を背にして、リリアの目は次第に鋭さを増していった。その眼差しは、どこか遠くを見つめるようでありながら、全てを計算に入れているかのようだった。周囲の喧騒や混乱を一切気にせず、彼女の姿勢はまるで動じることがない。
次に取るべき手を見極めるだけだ。リリア・ルクレティア……己のすべきことを考えろ。
騎士団長としての責任が、彼女の体にしっかりと根付いているのだ。どんな障害も、彼女にとってはただの通過点に過ぎない。目の前に広がる困難さえも、冷徹に切り抜けるべきものとして捉えている。その強い意志が、彼女の表情に深く刻まれていた。
◇◆◇◆
背中に冷たい感触が走り、ニズルはハッと目を覚ました。すぐに周囲を見渡すと、燃え盛るセンペルの館が視界に飛び込んできた。炎が夜空を赤く染め、建物が崩れ落ちる音が響いている。だが、その光景よりも、ニズルの目に最初に飛び込んできたのは、燃える彼方に立つあのコソドロ小僧の姿だった。
その少年は、炎の向こうを凝視している。ニズルは息を呑んだ。少年の視線の先には、血を流して倒れるあの男女の姿があった。
男女は、どう見てもヤバそうな傷を負っていたがニズルにはそんなことはどうでも良かった。
そして、次に彼の視界に飛び込んできたのは、女だった。
王国直属の騎士団――その礼服に身を包んだ姿は、まるで王国の象徴そのものであり、周囲の者たちを圧倒していた。
ニズルの背筋に再び冷たい感覚が走る。リリアの冷徹な視線が、どこかで彼を見つけるのではないかと、恐怖に駆られるような気配を感じた。彼はそっと息を呑み、できるだけ目立たないように、静かにその場から逃げ出す算段を整え始める。
「まずは、気配を消して……」と、心の中で呟きながら、足音を忍ばせて後退する。
その時、背後から鋭い声が響いた。
「おい。そこの醜男。」
ニズルは思わず息を呑み、背筋が凍るような感覚を覚えた。振り返ると、騎士団の礼服に身を包んだ女――リリアが立っていた。その眼差しは冷徹で、まるで何もかも見透かしているかのようだ。
「ヒィッ!」
ニズルは反射的に後ろに一歩退いた。リリアの声が冷たく響き、その威圧感に思わず足がすくむ。
「お前が館に頻繁に出入りしていたことは突き止めている。」
リリアは一歩、また一歩とニズルに近づき、その言葉を続けた。
「館のことを……あの男。センペルのしていたことを話してもらおうか。」
その言葉と共に、リリアは腰に下げた剣の柄に手を触れた。剣の金属音が、静寂の中で鋭く響き渡る。
ニズルはその冷たい視線に晒され、心臓が激しく鼓動を打つのを感じた。逃げることができるだろうか?いや、逃げられないだろう。リリアの眼差しがすべてを見透かし、逃げ道を塞いでいるかのようだった。
「ま、待ってくれ!オレは金で雇われただけで……おい、ブルート……?」
その言葉が口をついて出た瞬間、ニズルはハッとした。ブルートがいない。
「ブルートは?オレの弟はどこだ……?」
その問いかけが空気を引き裂くように響く。雪がしんしんと降り積もる中、ニズルの声は震え、耳に届くのはただの冷たい風だけだった。周囲の世界が止まったかのように感じられ、息を呑む暇もなく、彼は再び叫んだ。
「ブルート!?ブルート!おい!どこだ!!?」
その声は、痛みと恐怖に満ち、まるで命をかけて叫んでいるかのようだった。だが、返事はない。どこにも、弟の姿は見当たらない。雪だけが降り積もり、無情に冷たく静まり返った世界に、ニズルの声だけが響き渡った。
「ブルート!ブルート!!」
その叫びは、次第に狂気を帯びていった。ニズルの目は見開かれ、呼吸が荒くなる。心臓が胸を突き破りそうなほどに早鐘を打ち、頭の中がぐらつく。彼の中で何かが壊れかけていた。弟を失う恐怖、そしてその無力感。
目の前の燃える館の光が、まるで彼の心を映し出すように、次第に大きく、そして暗くなっていく。燃え盛る炎の中に、彼は何もかもを失ったような気がした。