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番人の葬儀屋  作者: あじのこ
第8章 ノヴァリス・ビスタの雪
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雪に刻む足音

「……手負いの人間相手では力の証明にならないのではないか?センペル」


アナスタシアの顔をした女は、まるでその場の空気を支配するかのように後ろを振り返った。彼女の目線がセンペルに向けられると、周囲の空気が一瞬で張り詰める。その姿は、まるで命令を待つ獣のようだった。


センペルは、そんな彼女の視線を受けて、わずかに肩をすくめて答えた。


「まあ、肩慣らしみたいなものですから」と、センペルは軽く微笑みながら言った。その言葉にはどこか軽薄な響きがあった。


「しかし……あれは彼の肺の病を増幅させたということなんでしょうかね?いやあ、恐ろしいなぁ」


センペルは、まるで興味本位で尋ねるように言った。しかしその口調はどこか計算高く、真実を求めているわけではないことが伝わってくる。彼の言葉には皮肉と冷徹さが込められていた。


女はその言葉に反応せず、代わりに冷徹な眼差しをセンペルに向け、静かに言った。


「つまらんな。余はもっと楽しいことがしたい。街の人間を皆殺しにするのはどうだろうか?神明が泣き叫んで苦しむようなことを……」


女の口元には、冷ややかな微笑みが浮かび、その目はただの人間の感情を超越しているかのように、どこか無機質で冷たい。


彼女の手がゆっくりと伸び、優雅に空気を切るように動いた。その動きは美しく、しかしその背後に隠された破壊的な力を感じさせた。


だが、突然、女の手が震えた。

ほんの一瞬のことだった。


まるでその腕に何かが引き戻す力が働いたかのように、彼女は自分の手をぎゅっと握りしめ、無意識のうちにその力を強くした。


その瞬間、女の顔に一瞬の苦悶の表情が浮かんだ。


自分の内側で何かが引き裂かれそうになった。だが、それはすぐに別の意識に支配され、力強く自分の腕を握りしめるだけに留まった。


その手のひらに残る震えを感じながら、女は無表情にセンペルを見つめた。自分の中で生じたその微かな反応を無視するかのように、残忍な笑みを浮かべる。


「小賢しい、肉の記憶め……!」


その間にも女は自分の腕をぎゅうううっと握りしめていた。内側で何かが引き裂かれるような感覚が走り、それを無理に抑え込もうとするが、手のひらが震えるのを止められなかった。


「はは、可哀想に。最期の抵抗のように見えますねぇ。」


まぁ、いま街の人間を皆殺しにされるのは困りますから、とセンペルは嘲笑うように嗤った。


するとその笑い声とは正反対に、倒れたシュヴァイツァーの元へ小さな足音が駆け寄った。キランであった。血まみれのシュヴァイツァーを見て、少女の表情が一瞬で変わる。


キランは声を上げ、膝をついて彼の顔を覗き込んだ。震える手でその顔を触れ、彼の息を確かめるように目を閉じた。


「……センペル……!?」


すぐそばでは貸家魔女のエラがその場に立ち尽くしていた。


◇◆◇◆


不意に、空気が重くなり、周囲の静けさが一層深まった。風がぴたりと止まり、まるで世界が息を潜めたかのような瞬間が訪れる。その時、空から一片の白いものがふわりと舞い降りてきた。


それは雪だった。


最初の一片が地面に触れると、それを合図にするかのように次々と雪が降り始めた。冷たい白い結晶が闇の中を漂いながら、まるで世界を包み込むように舞い落ちる。


「やあやあ、貸家魔女エラ。奇遇ですねぇ。こんなところでお会いするなんて。」


センペルはわざとらしく言った。その声に含まれる皮肉と冷笑が、周囲の空気を一層凍らせた。


エラは地面に倒れたままのシュヴァイツァーに視線を向けながら、これが偶然ではないことを理解した。彼女の目がシュヴァイツァーの苦しげな姿を捉え、瞬時に状況を把握した。


「なんなんだい……!?もう私に構わないでおくれ!」


エラは叫び、手を広げて遠ざけようとした。焦りと怒りが入り混じったその声は、無力感を隠しきれなかった。


「まあまあ。」


センペルは宥めるように言いながら、軽く手を振った。彼の目はどこか楽しげで、エラの必死な様子をからかうように見つめている。


「幼い子がいるのですから。」


センペルは倒れたシュヴァイツァーに縋る少女をチラリと見た。その目には冷ややかな観察の光が宿っている。


「貴女もなんだかんだで私に用があったのでしょう?」


センペルはその問いをエラに投げかけると、さらに楽しげに口元を歪めた。エラは自分の考えが完全に読まれていたことを悟った。


キランの喉の傷を、もしかしたらセンペルが癒せるのではないかと、心の中で期待していた。しかし、その期待はもしかしたら甘い考えだったのかもしれない。センペルの言葉の裏に潜む冷徹さを、今更ながらに感じ取っていた。


目の前で倒れたシュヴァイツァーから、口から溢れ出る血が雪に染み出していくのを、エラはただ見つめるしかなかった。


彼を助けるために何もできない自分が、無力で情けなく思えた。雪は静かに降り続け、血の赤が白い大地に広がりながら、ゆっくりと染み込んでいく。

まるで、シュヴァイツァーの命が雪に吸い込まれていくように、その赤い痕跡が静かに広がっていった。エラの胸に込み上げる痛みと後悔は、雪と血が交じり合うその瞬間に、ますます深くなっていった。


センペルとエラの会話を黙って聞いていた女は、次第に苛立ちを隠せなくなり、その表情に微かな変化が現れる。目の奥に鋭い光を宿し、彼女は無言でセンペルに向かって言った。


「おい、センペル、いつまで余を待たせておく気な……?」


その言葉が終わるや否や、どこからともなく笛の音が聞こえてきた。


最初は遠く、ぼんやりとした音だったが、次第にその音ははっきりと耳に届くようになり、女の表情は歪んだ。


笛の音が強く響くにつれて、女は苦しげに体をよじらせ、悶え始めた。その動きはまるで何かに引き寄せられるように、そしてそれが彼女にとって耐えがたいものだと示していた。


突然、彼女の口から低い呻きが漏れ、その後、響き渡るような叫び声が空気を震わせた。


「うああああああああ!!」


その叫び声は、まるで肉体の限界を超えて叫んでいるかのように、痛々しく響き渡った。女はその声を上げながら、笛の音に引き寄せられるようにさらに体を縮め、苦しさに耐えようと必死に堪えていた。


「おや……これは」


センペルがこの時ばかりは予想外と言った顔をした。だが、いたわる素振りは微塵も見せずに「ブルート、彼女のそばにいてあげなさい」と、近くにいる従者に命令した。


「センペル……あれは、あれはなんだ?」


エラの声は震えていた。


“あれ”


自分の考えが正しければ、目の前にいたものはただの人間ではない、恐ろしい存在だと確信していた。


「知りたいですか?」と、センペルは不敵に笑った。その笑みは冷徹で、エラの不安をさらに煽る。


エラはその問いに答えることなく、視線を外した。目の前の現実を直視したくないという気持ちが、彼女の胸を締め付けていた。


「貸家魔女エラ、どうでしょう?提案があるのですが。」センペルの声が響く。


「お前の提案など……聞きたくない。」


エラは拒絶するように後退り、しっかりと地面を踏みしめた。


「お互いの利益に沿った提案だと思ったのですがねぇ……」


センペルはそのまま、満足げに笑った。エラの反応を楽しむように。


「私なら貴女の願いを叶えてあげられるかもしれませんよ?その少女の……声を取り戻すことができるとすれば、貴女はどうします?」


その言葉にエラは凍りついた。少女――キランのことだ。しかし、センペルの言葉には裏がある。彼女はそれを知っていた。


エラは深く息を吸い、目を閉じた。内心で何度も自問した。センペルの提案を受け入れることで、何を失い、何を得るのか。だが、キランを助けるために、彼女はもう一度決断を下さなければならなかった。


苦悶の表情を浮かべながらも、エラは覚悟を決めた。彼女の瞳に一瞬、冷徹な光が宿る。


エラはシュヴァイツァーに縋るキランの肩を抱き寄せ、魔法の言葉を呟いた。その言葉は低く、力強く、そして呪文のように響いた。


キランの体が一瞬で緩み、彼女の目がゆっくりと閉じていった。眠りに落ちるその瞬間、エラは無言で彼女を抱きしめた。少女の小さな体が、エラの腕の中で静かに休んでいる。


センペルはその様子を静かに見守っていたが、満足げに口元を歪めた。


「さあ、エラ。貴女の選択は、間違っていなかったようですね。」


エラはキランを優しく抱きしめたまま、センペルの方を見上げた。その目には、もう迷いはなかった。


センペルはふと顔を上げ、遠くから響いてくる足音に耳を傾けた。その足音が近づくにつれ、彼の唇には薄い笑みが浮かぶ。


「やれやれ……招いていない客人がお越しのようだ」


彼はわざとらしく肩をすくめると、目を細めて足音の方向をじっと見つめた。その視線の先には、荒い息遣いと共に影が動いている。


まだ遠くにあるその姿は、輪郭がぼやけ、光の加減で揺れて見えるが、センペルの目には十分な情報だった。


雪が静かに降り始め、空気をひんやりと冷たく包み込んでいた。細かな雪片が、まだ地面に積もることなく、空中で舞いながら彼の肩や髪に触れ、瞬く間に消えていった。雪の降る音はほとんどなく、ただその冷たさだけが静かに広がっていた。

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