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番人の葬儀屋  作者: あじのこ
第8章 ノヴァリス・ビスタの雪
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死を携える指

キランは朝食の席につくと、テーブルの上に一枚のメモ用紙を置いた。そこには短く、こう書かれていた。


「エラさんのところに行きます」


シュヴァイツァーはそのメモをじっと見つめ、深いため息をついた。しばらく黙ったまま、何かを飲み込むようにしてから、静かに言った。


「そうか。」


その一言には、疑問も反論も、感情さえも感じられなかった。ただ、彼の口から自然に零れ落ちた言葉だった。


キランはシュヴァイツァーの反応に、胸の奥が少しだけ痛んだ。しかし、自分の決断に迷いはない。もう立ち止まることはできない。


――エラの下で学び、シュヴァイツァーを救う方法を見つけるために。


シュヴァイツァーはそれ以上、何も言わなかった。ただ静かに食事を続ける。その姿に、キランは彼が自分の選択を尊重してくれているのだと感じた。そして同時に、シュヴァイツァー自身もこの別れを予感していたのだろうと思った。


その日の午後、エラからの連絡が届いた。

迎えの馬車が来るという知らせだ。


キランは静かに荷物をまとめ、出発の準備を進めた。最後の確認をしていると、背後からシュヴァイツァーの声が聞こえた。


「……行ってくるんだな。」


その声は、遠くから響くようでいて、深く静かな感情が滲んでいた。


キランは振り返り、ただ一度、うなずいた。それ以上、言葉を紡ぐことはできなかった。シュヴァイツァーがどれほど自分にとって大きな存在だったか――その思いを言葉にするには、今はまだ早すぎる。


迎えが来ると、キランは最後にシュヴァイツァーを振り返った。シュヴァイツァーはキランの目を見ようとはせず、遠くを見つめている。その視線には、喜びでも悲しみでもない、ただ静かな理解が込められているように見えた。


キランは一歩、前に踏み出した。


シュヴァイツァーの元を離れ、エラへと向かう――それが自分の選んだ道だからだ。


2人の旅の終わりは、音もなく、確かに訪れた。


◇◆◇◆


宿屋の部屋に籠り、手元の酒瓶を揺らすのにも飽きた頃、シュヴァイツァーは重い足取りで外へ出た。とはいえ、部屋の酒瓶を全て飲み尽くし追加の酒を買うためでもあった。


夜の街は静かで、昼間の喧騒が嘘のように冷え込んでいる。石畳を踏みしめる音だけが、彼の周りに小さな波紋のように響いた。


――キランは、もうここにはいない。


彼のコートの内ポケットには、あの時キランが見せた紙が折りたたまれている。


“エラさんのところに行きます”


これで良かったのだ。何の縁も所縁もないオレなんかのそばにいるよりかは肉親のそばにいる方がずっと良いはずだ。


思考がぐるぐるとする中で酒屋を探しているうちにふと足が止まった。


目の前に広がるのは、女性向けの洋品店。薄暗い街灯に照らされたショーウィンドウには、様々な衣服が並んでいる。その中に――


一着だけ、真っ白なドレスが目に入った。

それは、間違いなくウェディングドレスだ。


「……いつか、あいつも、誰かに祝福される日が来るのだろうか。」


シュヴァイツァーの呟きは、誰にも届かないほど小さな声だった。彼が思い浮かべたのは、養子として育てたキランの成長した姿――ただ、幸せそうに笑っている姿だった。


だが、すぐに彼は首を振る。自分が思いを馳せることなど、何の意味もない。キランはもう、自分の力で未来を掴もうとしているのだから。


「……神明の梯子はここにいたか。」


その言葉が耳に入った瞬間、シュヴァイツァーの背筋がぞくりとした。「神明の梯子」とは、彼が葬儀屋として神明から賜った力の総称だ。それを知っている者がいることに、思わず息を呑んだ。


すぐさま背後を振り返ると、女が立っていた。いや、正確には、背の低い男と、異常に長い腕を持つ大柄な男が両脇にいた。しかし、その女の存在感があまりにも強烈で、他の二人の姿が視界に入るのは一瞬遅れた。


「なんだ……?アンタ、なにを言ってるんだ?」


シュヴァイツァーは、心の中で警戒を強めながらも、表面上は冷静を装って問いかけた。


女は冷ややかな笑みを浮かべ、じっとシュヴァイツァーを見つめた。


「誤魔化そうとするな。人間。」


その言葉に、シュヴァイツァーは自分の心臓が一瞬止まったかのように感じた。彼の体は反射的に緊張し、息を呑んだ。


「いや、会話をしたくてきたわけじゃない。お前に……お願いがあってきたのだ。」


女は冷徹な眼差しをシュヴァイツァーに向けながら、ゆっくりと手袋を外し始めた。その動作は無駄な力を感じさせず、まるで何かを決定的に切り離すような、冷徹な儀式のようだった。


手袋が外れ、細い指先が空気に触れるその瞬間、女の唇が動いた。


「お前の命を、私にくれないか?」


その言葉にシュヴァイツァーの体が微かに震え、無意識のうちに手が動いた。


シュヴァイツァーの背後で、神明の梯子が輝きを放ち、虹色の光が渦を巻く。その光が一瞬にしてシュヴァイツァーの腕に集まり、彼の手のひらからナイフが現れた。


ナイフはその刃先から虹色の光を放ち、まるで闇を切り裂くかのように輝いていた。神明の加護を宿したその刃は、シュヴァイツァーの手の中で震えるように反応し、まるで自らの意思を持っているかのようだった。


だが、女の姿を見た瞬間、シュヴァイツァーの体が硬直した。彼はすぐに背後を振り返り、女の目をじっと見つめた。


「お前、なんだ?人間、なのか……!?」


シュヴァイツァーは驚きと警戒心を込めて声を上げた。その声には、確かな不安と共に、すでに女が人間ではないことを直感的に感じ取ったことが滲み出ていた。


女は冷ややかな笑みを浮かべ、動じることなく立ち続けた。


その目はまるでシュヴァイツァーを見透かすかのように冷徹で、まるで人間のものではないかのようだった。


「ほう……余が解る人間がいるとはな。」


女の声は低く、冷たく響く。


シュヴァイツァーはその言葉を聞き、さらに警戒心を強めた。彼はナイフをしっかりと握りしめ、再度構えを取る。


「お前、何者だ?」


女は一歩も動かず、シュヴァイツァーの問いには答えずに、ただ静かに立ち尽くしている。その周囲の空気が、徐々に重く、異様な雰囲気を漂わせ始めた。


シュヴァイツァーは再度ナイフを振るい、神明の梯子の力が備わった虹色の光が女に向かって放たれる。しかし、女はその光をまるで予測していたかのように、瞬時に身体をよじって避けた。光の刃が空を切り裂く音を立てて、女の背後の壁に突き刺さって消えた。


(……避けるンのかよ!?)


シュヴァイツァーは驚きと共にその姿を見つめた。女はまるでその攻撃を予見していたかのように、余裕を持って動いていた。


「私を傷つけられると思っているようだが……」


女は冷ややかな笑みを浮かべ、手をひらりと振った。シュヴァイツァーのナイフがその動きに合わせて、再び空を切ったが、女はそのまま避け、まるで遊ぶかのように距離を取った。


シュヴァイツァーは再度ナイフを構え直し、もう一度力を込めて振りかぶった。だが、女はそれを見て、まるでその刃を避けるために動くことすらも、面倒そうに思えているかのように、軽く一歩後ろに下がった。


「無駄だ。」


女はそのまま静かに言い放ち、シュヴァイツァーの攻撃を避ける度に、彼の力を完全に無力化していた。


シュヴァイツァーは、女の動きを何度も見逃し、ついにその異常な速度と力に圧倒され始めていた。彼のナイフは虹色に輝き、何度も放たれたが、女はそれを簡単に避け、まるでシュヴァイツァーの攻撃を遊んでいるかのように見えた。


「くっ……」


シュヴァイツァーは息を呑み、目を細めた。攻撃がまるで通用しない。相手はただの人間ではない、いや、人間ですらない。心は焦り、身体は自然と力を込める。


だが、シュヴァイツァーの胸ポケットに手を伸ばすと、指先が冷たく光る懐中時計に触れた。その感触が、彼に一瞬の安堵をもたらす。彼の手は震えていたが、すぐにその震えを押さえ込む。


(これしかない……か)


シュヴァイツァーは呟いた。


懐中時計は、先祖伝来受け継いだ時間を操る力だった。だが、それには代償が伴う。時間を止めることで、周囲のすべての動きが止まる。しかし、シュヴァイツァーだけが動くことができた。


そして、時間を止めた後にはその影響が必ず戻ってくる。


シュヴァイツァーは深呼吸をし、決意を固めた。もしこれを使わなければ、この戦いに勝てない。女の正体がわからない以上、今のままではどうにもならない。


(時間よ、止まれ。)


シュヴァイツァーは静かに願った。その願いの言葉と共に、懐中時計を強く握りしめる。


瞬間、世界が静止した。


音も、風も、すべてが止まり、時間の流れが完全に遮断された。シュヴァイツァーの周囲の空気も、まるで凍りついたかのように静まり返った。彼はその瞬間、完全に自由になった。目の前の女の動きも、止まっている。


シュヴァイツァーはゆっくりと一歩踏み出し、懐中時計を握りしめたまま、目の前の女に近づいていく。時間が止まったこの瞬間、彼はすべてを支配しているかのように感じた。彼のナイフは再び虹色に輝き、そしてその刃を女に向けて突き刺す準備をした。


だが、シュヴァイツァーはふと足を止めた。女の顔を見つめると、彼は一瞬、違和感を覚えた。目の前の女は、まるで時間が止まっても動じないかのように、静かに立っていた。まるで、この静止した時間の中でも、彼女だけが動いているかのように感じた。


「……あ?」


シュヴァイツァーは思わずつぶやいた。だが、その言葉が響くことはない。彼の声すらも、時間の停止の中では無意味だった。


シュヴァイツァーは再びナイフを握りしめ、女に近づこうと努力した。しかし、女の目が、まるでシュヴァイツァーを見透かすように、じっと見つめている。


その瞬間、シュヴァイツァーは背筋を寒く感じた。


時間停止の力を使っても、女の唇がゆっくりと動いた。


「愚かだ……実に愚かな人間よ。お前たちの時間の概念が、余に通じると思うのか?」


シュヴァイツァーは目の前の女が時間停止の中でも動き続けていることに気づき、冷や汗が背中を流れる。彼が必死に後退しようとするその瞬間、女の手が優しく、しかし確実に彼の胸に触れた。


トン。


その一瞬、シュヴァイツァーはまるで時間そのものが彼に圧し掛かるような感覚に襲われた。まるで世界の重みが一つになり、彼の胸に集まったかのようだった。


次の瞬間、口から吐血し、肺が圧迫される。


息を吸おうとしても、空気は入らず、苦しみが全身を駆け巡る。彼は思わず膝をつき、胸を押さえながら、冷や汗を流し続けた。


「どうした、神明の梯子よ。」


女の声は、冷たく響いた。優しい手のひらに隠された冷徹さが、彼に突き刺さる。


「お前の力も、時間停止も、私には効かない。」


シュヴァイツァーはその言葉を受けながらも、必死に立ち上がろうとした。だが、体は言うことをきかず、足元がふらつき、目の前の世界が歪んでいく。彼は苦しみながらも、懐中時計に手を伸ばす。だが、その動きすらも鈍く、女の手のひらの下で無力に感じるばかりだった。


「命を渡してくれないか?」


女の声は、まるで囁くように続けられた。


「お前の命が、今、私のものになる。」


シュヴァイツァーはその言葉に恐怖を感じながらも、意識を集中させ、最後の力を振り絞ろうとした。だが、女の手のひらの温もりが、彼の胸にしっかりと残り、これ以上心臓が動くことを許さなかった。

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