夜に祈りて
シュヴァイツァーは葬礼教団からの帰り道、静かな街並みを歩きながら、ふと時計を確認した。時間がだいぶ経っていることに気づき、急ぎ足で喫茶店の前に辿り着くと、すでにエラとキランが待っていた。
エラは喫茶店の入り口に寄りかかるように立ち、腕を組んで周囲を見つめていた。まるでなにかを警戒するかのように。彼女の表情はどこか醒めていて、少し距離を置いたような雰囲気が漂っている。
キランは少しエラと間を開けた場所で立っており、足元の小石を気にしていたがシュヴァイツァーに気づくと、にっこりと笑って手を振った。
シュヴァイツァーは二人の姿を見て、少し遅れて歩み寄った。
「すまない、友人の話を聞いていたら長くなってしまった。」と、シュヴァイツァーは軽く頭を下げた。
「いえ、大事なお時間を頂戴させてもらって感謝するわ。それと……キランには話したんだけど」
シュヴァイツァーはどきりと心臓が高鳴った。言葉が脳裏に響き渡る。その瞬間、自分が避けたかったことを思い出した。
……ああ、この言葉が聞きたくなくて、自分はこの場に来るのを遅らせていたのだと、ようやく気がついた。
エラの視線が鋭く、まるで彼の反応を伺うように静かに言った。
「私の方でキランを、引き取りたい。貴方も知っていると思うけど、この子には魔女の才があるわ。それもとびきりの。」
シュヴァイツァーはその言葉に一瞬、言葉を失った。キランが持つ魔女の才、しかも「とびきりの」という言葉が、彼にとっては重く響いた。それはすでに、彼が避けてきた現実そのものだった。
「……気がついたのか。」
シュヴァイツァーはようやく声を絞り出した。その声には、わずかな驚きと共に、どこか諦めが滲んでいた。
エラは冷静に頷き、淡々と答える。
「当たり前だわ。これでも魔女よ。ただ……喉の傷が詠唱を必要とする魔術を使えなくしている」
その言葉に、シュヴァイツァーは深く息をついた。キランが持つ才能は確かに素晴らしいが、それを使うためには克服しなければならない障害がある。喉の傷――それが詠唱を阻害しているのだ。
沈黙がしばらく続いた後、エラが再び口を開く。
「……傷を治す心当たりがあるわ。」
その言葉に、シュヴァイツァーの心臓が再び跳ね上がった。思わず彼の目が見開かれ、言葉を失った。
「……!」
エラの言葉の裏にあるものが、シュヴァイツァーには感じ取れた。それは単なる提案というよりも、どこか深い計算と確信が滲み出ていた。彼女の冷徹な態度には、ただの好意や思いやりではなく、何か別の意図が隠されているような気がした。
それはまるで、シュヴァイツァーに選択を迫るための巧妙な罠のようにも思えた。
シュヴァイツァーはその言葉を飲み込みながら、心の中で何度も疑念を抱いた。
エラが言う「傷を治す心当たり」が本当にあるのか。それを信じていいのか。
急に現れた叔母がキランの才能を引き取ることにどんな目的があるのか、そしてそれが自分にとってキランにとって本当に最善の選択なのか、シュヴァイツァーには確信が持てなかった。
シュヴァイツァーはキランの手を握りしめ、少しだけ視線をそらした。
「少し、2人で考える時間をくれないか。」
その言葉は、決して答えを出す準備ができていないことを示すものだった。心の中でまだ迷いが渦巻いており、彼はその答えを出すには時間が必要だと感じていた。
キランは一瞬驚いた様子でシュヴァイツァーを見たが、すぐに静かに頷いた。エラはそのやり取りをじっと見守り、何も言わなかった。彼女の目には、シュヴァイツァーがどんな決断を下すのかを見守る冷徹な意志が宿っているようだった。
「わかったわ。私は暫くこの街にいるつもりよ。答えが出たら連絡を頂戴」
シュヴァイツァーはその言葉を満足に聞かず、足早にその場を離れた。エラの言葉の背後にあるものを、今すぐにでも理解しなければならないと感じながらも、答えを急ぐことはできなかった。
キランの未来、そして自分の選ぶべき道――その全てが、シュヴァイツァーの胸に重くのしかかっていた。
◇◆◇◆
シュヴァイツァーは宿屋の小さな部屋に一人、静かに座っていた。
薄暗い部屋の中、唯一の光源は窓の外から差し込む月明かりと、机の上に置かれたランプの温かな灯りだけだった。彼の手には、古びたウィスキーの瓶が握られている。瓶の口を開けると、香ばしいアルコールの匂いが立ち上り、シュヴァイツァーはそれをゆっくりとグラスに注いだ。
グラスの中で揺れる琥珀色の液体を見つめながら、シュヴァイツァーは深く息をついた。隣の部屋からは、キランの寝息が微かに聞こえてくる。彼女は長い一日を過ごし、ようやく眠りについた。
シュヴァイツァーはその寝顔を見て、胸が締め付けられるような思いを抱えていた。彼女の存在がどれほど大切で、守らなければならないものか、改めて実感していた。
だが今、彼にはどうしても選択しなくてはならなかった。エラの言葉が、頭の中で何度も繰り返し響いていた。あの言葉の裏に隠された意図を、どうしても見抜けない。エラが言う通り、キランには魔術の才能がある。だがそれをどう扱うべきか、シュヴァイツァーは迷っていた。
グラスを手に取ると、シュヴァイツァーはゆっくりと一口飲み干した。アルコールが喉を通ると、温かな感覚が広がり、少しだけ気持ちが落ち着くようだった。しかし、心の中の不安や疑念は消えることなく、むしろ深まるばかりだった。
エラが言うように、キランを渡すべきなのだろうか。それとも、このまま自分が彼女を守り続けるべきなのか。
どちらを選んでも、何かを失うような気がして、シュヴァイツァーはその決断を下すことができずにいた。
エラの「傷を治す心当たりがある」という言葉にも、何か裏があるように感じていた。その具体的な方法も、あの女は最後までなにも話さなかった。彼女が本当にキランを引き取ることが最善なのか、それとも自分が彼女を守りながら、彼女の成長を見守るべきなのか。
シュヴァイツァーは再びグラスを手に取ると、今度は少しだけ多めに注いだ。手がわずかに震えていることに気づき、彼はそれを気にしながらも、再び一口飲み干した。
キランの未来をどう切り開くべきか、その答えは自分の中に見つからなかった。自分の元にいては魔術の才能を伸ばしてやることは叶わない。
「オレがキランの、本当の父親だったらなぁ……」
シュヴァイツァーは小さく呟いた。その声は、空虚な部屋に響くだけで、何の答えも返ってこなかった。
ウィスキーを一気に飲み干すと、彼は深いため息をつき、グラスをテーブルに置いた。
窓の外を見上げると、月明かりが静かに街を照らしていた。夜の冷たい空気が、彼の心をさらに重くしていくように感じられた。選ばなければならない道は、どれも簡単ではない。だが、キランを守るために、どんな選択をしても後悔しないようにしなければならない。
「……神明様。久しぶりにアンタに祈るぞ。オレのことはいいから、キランには幸せな道を用意してやってくれよ。頼む、オレにできることは何もないが、せめて、せめて――」
シュヴァイツァーは祈りの手を組んで静かに呟き、目を閉じた。