母の夢
エゾフは意識を失い、暗闇の中に沈んでいた。
目を開けると、そこはどこか見覚えのある場所だった。夜の森、月明かりが薄く差し込むその場所で、エゾフは母親の姿を見つけた。
黒い毛皮に覆われた大きな体が、静かに立っている。母親の背中が、いつもよりもどこか重たく感じられる。彼女の目は遠くを見つめ、虚ろに輝いていた。その視線の先には何もないように見えたが、エゾフにはそれが何か深い意味を持つもののように感じられた。
母親は動かない。
まるで時が止まったかのように、彼女はただ立ち続けていた。しかし、その背中に漂うものは、エゾフが今まで感じたことのないものだった。強さの中に、どこか儚さが混じっている。彼女の体は大きく力強いが、その瞳には深い痛みが隠れているようだった。
エゾフはその背中を見つめていると、ふとその震えに気づいた。小さな震え、まるで冷たい風が吹いたかのように。彼はその震えに胸が締め付けられる思いがした。それは、母親が何かを抱え込んでいるからだと、直感的に理解した。
「かか様……」
声をかけようとしたが、声は出なかった。声は夢の中で消えていき、代わりにその震えが強くなる。母親の背中は、失ったものへの後悔と、守れなかったものへの罪の意識で満たされているようだった。エゾフはその感情を、言葉ではなく、身体で感じ取った。
母親は振り返らない。
彼女の瞳は、過去を見つめ、何かを悔いているようだった。エゾフはその痛みを理解しようとしたが、夢の中でそれを言葉にすることはできなかった。ただ、彼の胸の中でその感情が膨れ上がり、彼の心を圧迫した。
その時、エゾフは気づいた。母親が背負っているもの、それはただの後悔ではない。失われたもの、守れなかったものが彼女の中で大きな影を落としている。
エゾフは母親の背中を見つめながら、その震えが徐々に強くなるのを感じていた。彼女の痛み、後悔、そして守れなかったものへの罪の意識が、暗闇の中でひしひしと伝わってきた。そのすべてが、エゾフの胸を締めつけ、言葉では表せない感情を呼び起こしていた。
やがて、母親がゆっくりとその場を離れようとした。足音はない。ただ、彼女の体が静かに動き、少しずつ闇の中へと消えていく。その後ろ姿に、エゾフは思わず声を上げた。
「待って!かか様!そっちに行かないで!」
その声は、夢の中で消えていった。エゾフは必死に母親を呼び止めようとしたが、母は振り返ることなく、ただ静かに歩き続けた。
その時、空に黒い鳥が集まり始めた。
数羽、数十羽、いや、もっと多くの黒い鳥が、母親の周りを取り巻くように飛び交う。羽音が耳に響き、風が急に冷たく感じられた。
その黒い鳥たちは、不吉な存在のように、母親の周りを旋回し、まるで彼女を導くかのように動いていた。エゾフはその光景を目の当たりにし、胸の奥に恐怖が広がっていくのを感じた。
「かか様、待って!」
エゾフは再び叫んだが、その声は夢の中で虚しく響くばかり。母親は振り返らず、ただその闇の中へと歩みを進め、黒い鳥たちも彼女を追いかけるように飛び立った。
その瞬間、エゾフの体が急に引き戻される感覚を覚えた。
暗闇が一気に引き裂かれ、目の前に明るい光が差し込む。エゾフは目を開けると、そこには見慣れた馬面があった。
「トロント……?」
ぼんやりとした視界の中で、エゾフはトロントの顔を見上げた。老馬の顔が心配そうに覗き込んでいる。エゾフは深く息を吐き、ようやく現実に戻ったことを実感した。
「おい、大丈夫か?」ヴァルの声が低く響く。
エゾフは少し顔をしかめ、夢の余韻を振り払おうとした。
「ああ……大丈夫だ。ちょっと、変な夢を見ていただけだ。」
その言葉を口にしながら、エゾフは夢の中で見た母親の姿が、まだ心の中に残っているのを感じていた。彼女の背負っていたもの、そして彼女が去ろうとした時に集まった黒い鳥たちの不吉な光景が、どこか胸に引っかかって離れなかった。
エゾフは周囲を見渡すと、崩れた岩の破片が散らばり、坑道の壁が崩れた場所から土と石が滑り落ちている。上を見上げると、わずかに夜空が覗いていた。星々がほのかに煌めき、その光が坑道の薄暗い空間にかすかに反射している。
エゾフは周囲を見渡し、再び呟いた。
「あんな高さから落ちたのか……よく生きていたな。」
ヴァルは肩をすくめ、冷静に答えた。
「ああ、偶然なのかどうかは分からないがな。」
エゾフは自分の体を確認しながら、落ちた場所を思い返した。あの瞬間、確かに運命に導かれるような感覚があった。落下の途中で、彼は何か柔らかいものに突っ込んだような感覚を覚えた。目を閉じていたが、体が急にふわりと軽くなる感覚がした。その後、強い衝撃が走り、地面に叩きつけられた。
しかし、体に感じた痛みは予想よりも少なかった。エゾフは周囲を見渡すと、落ちた先に広がっていたのは、枯れた植物や枯れ葉が積もった柔らかい地面だった。
長年積もった植物の層が、まるでクッションのように衝撃を吸収してくれていたのだ。岩の隙間から覗く枯れた草や葉が、衝撃を和らげ、落下の勢いを分散させたのだろう。
「……奇跡、か。」
エゾフはあの時の巨大な咆哮をあげた母親の姿を思い出しながら、ふと呟いた。
「そういえばあの小僧はどこだ?」
ヴァルはしばらく沈黙し、顔をしかめながら答えた。
「……バッシュだけが、離れ離れになったようだ。」
その言葉にエゾフは一瞬、驚きの表情を浮かべたが、すぐにその意味を理解した。ヴァルの顔に浮かぶ鎮痛な表情から、事態が簡単ではないことを感じ取った。
「あいつ1人で無事でいられるか?」
エゾフは心配そうに尋ねた。
ヴァルは深いため息をつき、目を閉じた。
「……わからない。だが、バッシュは強い。どんな状況でも生き抜く力を持っているはずだ。」
バッシュの無事を祈りながら、とにかく今は先に進むしかない。ヴァルは自分を納得させるようにそう言うと、トロントの手綱を握って暗闇の方へと足を向けた。