なけなしのチョコレート
「なんだ……!?」
バッシュは男の叫び声が響いた後、山道の向こうから何かが走ってくるのを見つけた。暗闇の中でその輪郭が徐々に形を現し、近づくにつれて鮮明になっていく。
星明かりの下、顔までは見えないが、どうやら2人の男のようだ。1人は台車を引いており、その上には長方形の荷物が乗っている。台車の揺れる音と男たちの足音が迫ってきた。
男たちがすぐ横を通り過ぎると、バッシュは荷台に目を凝らした。直感的に、それがアナスタシアの棺だと悟る。暗闇の中で棺の輪郭がかすかに浮かび上がり、まるでアナスタシアがヴァルを呼んでいるような、不思議な引力すら感じた。
ヴァルはバッシュよりも早くそれに気づいたのか、山道の方へと駆け出していった。
その時――
大きな黒い風が目の前を通り過ぎた。
風はあらゆるものを薙ぎ倒すような獰猛さで駆け抜け、空気を一変させた。それが狼だと気づくのに時間はかからなかった。目の前の獲物を狙う肉食の獣のような凶暴さを滲ませながら、闇の中で狼の体が一瞬、歪むように揺らめいた。
風が過ぎ去ると、鼻を突く腐敗のにおいが漂ってきた。
先頭を走っていた男が転倒する音が響き、その直後に熊のような咆哮が轟いた。1人の男が狼に突進していったが、その攻撃は虚しくかわされる。狼は台車のそばで腰を抜かしたように座り込む男の方へ、じりじりと牙を向けながら迫っていった。
その時――
「かか様!」
エゾフの声が暗闇に響き渡った。その一言に、黒い風はピタリと動きを止めた。
「なぜ、かか様が人間を襲っているの……!」
狼の形をした影は振り返るように動き、その一瞬、再び歪むように揺らめいた。
「なんだ……おめえらはなんなんだ!?なにがどうなっていやがる……!」
台車近くの男は呟きながら、荷物に手を当てた。台車の上で長方形の箱がカタカタと音を立てているように見える。
「お前たちは……うっ、なんだ!?その酷い匂いは……」と、エゾフが言い終わる前に、大きな狼が低く唸り声を上げた。その声は次第に膨れ上がり、一瞬で轟音へと変わる。
咆哮が空気を震わせ、山全体が応えるように揺れた。地面の下から鈍い音が響き、岩肌にひび割れが走る。
「まさか……!」
ヴァルが声を上げたその瞬間、足元が大きく崩れ始めた。
◇◆◇◆
バッシュは自分が生きていることに驚いた。
ぽっかりと空いた天井には、崩れ落ちた地面の先に星が瞬いている。
あの高さから落ちたのか――そう思うと、全身がずきりと痛んだ。
痛む体を押さえて周囲を見回す。だが、目に映るのは暗闇だけだった。湿った土と岩の匂いが鼻をつき、冷たい空気が肌を刺す。
崩れたのは上層部だけのように見えた。
おそらく、その山の坑道自体は深く広がっていて、まだ通れる道が残っているに違いない。バッシュは、上を見上げて崩落した高さを目測し、這い上がるのは不可能だと冷静に判断した。自分の体力や状況を考慮すれば、無理に登って体力を消耗するよりも、坑道の奥へ進む方が賢明かもしれない。
いや、もはやなにが正解かは分からなかった。
「ここ……どこなんだ?」
バッシュの呟きは虚しく反響し、闇の中に吸い込まれるように消えていった。
辺りは静まり返り、耳を澄ませば自分の呼吸音と、どこか遠くで滴り落ちる水音が微かに聞こえるだけだ。
バッシュは拳を握りしめ、体の痛みに顔をしかめながら立ち上がった。瓦礫に覆われた足元を一瞥し、落下した高さを思い出す。よく生きていたものだ、と呆れるように肩をすくめた。
……ヴァル、それにトロントとエゾフはどうしているだろうか?
あの崩落で全員が無事とは思えない。
だが、ヴァルのことだ。あいつはしぶとい。いつも冷静沈着で、どんな状況でも生き延びる手を考える男だ。今回もきっとどこかで無事だろう。
トロントのことも頭をよぎる。老馬のあいつは体力こそ衰えているが、その分経験がある。危険を察知する勘は若い馬より鋭い。あの崩落だって、きっと上手く避けているはずだ。
エゾフ――あの生意気な犬耳の少女。
「……あいつも大丈夫だよな」
バッシュは小さく呟いた。あの耳と尻尾のついた軽やかな体は、どんなに危険な状況でも素早く逃げられるはずだ。しかも、あの妙に賢い目と、芯の強い性格を思い出すと、どこかでうまく切り抜けている気がしてならない。
「まぁ、あいつらなら大丈夫だろう」
自分にそう言い聞かせるように呟き、バッシュはゆっくりと坑道の方へ体を向けた。
だが、それでも胸の奥に残る不安は完全には拭い去れない。
「……とにかく、ここから出るしかねぇな」
手探りで岩壁を辿りながら、一歩、また一歩と奥へ足を進めた。鉱山の中は思った以上に暗く、足元が不安定だ。しかし、目を凝らすと、かすかな光が奥の方から漏れ出しているのが見えるように思えた。あれが唯一の希望だ。
「……行くしかないか。」
そう呟いて、バッシュは坑道へと足を踏み入れた。背後で、崩れた岩の音が微かに響き、まるで山自体が息をついているようだった。
その時、坑道を進むバッシュの耳に、低い声が響いた。
「お、お前……あの時のコソ泥!」
振り返ると、暗闇の中から姿を現したのは、長身の男と小柄な男。二人の目がギラリと光る。
「まぁあたオレたちから何か盗もうってのか? そうはいかねぇ!このニズルとブルート狩人商会からなにも盗ませやしなねぇ!!」
ニズルが口元を歪めて笑う。
「なんでよりによってこんなところにお前らが……!」
バッシュは舌打ちしながら身構えた。
「覚えててもらえるとは光栄だなぁ!ガキ!」
ニズルが不気味に笑う。
「当たり前だろ……母さんの形見を壊されたんだ。忘れるわけねえ。」バッシュのその言葉に、狩人兄弟の表情が一瞬歪んだ。
「形見だぁ? 知るかよ! 盗人には罰が必要だって、教えてやっただけだ!」
ニズルが声を荒げながら、じりじりと距離を詰めてくる。
「さて、今度は何を代償にするか、楽しみだな。」
ニズルの声が低く響く中、坑道の緊張感が一気に高まった。
「ブルート!やっちまえ!」ニズルが怒鳴り声を上げた。
だがブルートは動かなかった。背中に担いだ棺を見下ろし、困ったように眉をひそめる。
「……デも……デモ……これ、壊れてる……かつく、おろす。なかみでる……ダメ!」
ブルートがポツリと呟いた。
ブルートは棺の一部が崩れ、中身が露出している箇所を指さした。崩落の際に傷ついたのだろう。
「んなもんどうでもいい!今はコイツだ!置いてそいつをやれってんだ!」
「置く……?でも、これ……壊れてる……もっと、壊れる……だめ?」
ブルートはおずおずと棺を支え直し、まるで壊れたおもちゃを扱う子供のように、慎重すぎる動きで背負い直した。
「いいから置けって言ってんだろ!」
「でも、置いたら……ニズル、怒る……?」
ブルートは目を泳がせ、棺とニズル、そしてバッシュを交互に見つめる。
「怒らねぇから早くやれ!」
「ほんと……怒らない?」
「……怒るけど今は置け!」
その言葉にブルートはますます困惑し、頭を抱えてうろうろと足踏みを始めた。
「ブルート、わかんない……どっちもだめ……!」
その場で巨大な体を揺らしながら、あたふたするブルートを見て、バッシュは思わず鼻で笑った。
「おいおい、なんだよこれ……本当にやる気あんのか?」
敵同士の間抜けなやり取りに、バッシュは呆れを隠せない。
「ブルート!もういいからやれ!」
ニズルの苛立ちが声に滲む。しかし、その命令に対するブルートの反応は予想外だった。
「でも……これ、壊れてる……もっと壊れる……ブルート、こわい……!」
ブルートはその巨体を縮こまらせるようにしゃがみ込み、棺を抱えたまま大きな手で顔を覆った。その仕草はまるで幼い子供そのものだ。肩を震わせながら泣き声を上げる様子に、ニズルは頭を抱えた。
一方でバッシュは、目の前の状況をどう理解していいのか分からず、しばし呆然と立ち尽くしていた。しかし、ブルートの泣き声が徐々に響き渡る中、彼はため息をつき、頭を掻きながら荷物に手を伸ばした。
「ほらよ、これで泣き止め。」
そう言うと、バッシュはなけなしのチョコレートを少しだけ割り、ブルートの口元に押し込んだ。
「んむ……?」
ブルートは泣き声を止め、目を丸くして口の中の甘さに戸惑ったようだった。次の瞬間、涙で濡れた顔に笑みが浮かぶ。
「……あまい!ブルート、すき!」
その反応に、バッシュは心の中で「なんだこれ」と呟きつつも、状況を少しだけ打開できたことに安堵した。ニズルは呆れたように舌打ちをしながらも、ブルートが機嫌を直したことで、苛立ちを抑えるしかなかった。
「ったく、なんなんだよお前ら……」
バッシュは小さく呟きながら、目を細めた。