中庭の歓談
バッシュは人の行き交う談話室の端でなるべく目立たないようにしていた。
ーーヴァルはどこに行ったのだろう?
辺境伯の館に入った頃から自分の雇い主であるヴァルの姿が見えなかった。
こういう場所が得意のようにも見えなかったので、どこかで喪明けの宴会が終わるのを待っているのかもしれない。
なんだか落ち着かない。
体がムズムズした。服がダメなのだ。用意してもらって文句を言うのは気が引けるがサイズは少し小さいように感じるし、バッシュは今まで着たことのない肌触りの良すぎる生地だった。
「おや、馬子にも衣装だねー」
顔を向けるとあの手腕家の司祭が目を細めてニコニコしながら声を掛けてきた。
「おまえ…誰のせいで…」
「まあまあ。こんな経験滅多に無いんだから」
アーク司祭にはバッシュを宥めるように両手を広げた。
「まぁいいや。ところでヴァルのやつ知らないか?」
「ヴァルさんですか?」
そういえば見ませんねーとアーク司祭は呑気に答えた。
給仕係が持ってきた食前酒に手をかけ上品な仕草でグラスを傾ける。司祭が酒を飲んでもいいのか?と、バッシュが聞くと「わたくしが飲むことで神明に献杯を捧げているんですよ。いやぁ本当は飲みたくないのですがね」と言った。都合のいいやつだ。
バッシュはうんざりして談話室から離れようとテラスに繋がる出入り口の方へ向かった。司祭は追加のグラスを手に持ちながら背を向けるバッシュに「あなたの出番は喪明けの儀が終わってからですからね〜」と念押しされた。
ーーー
バッシュは梟のレリーフの施された笛を持ちながらどこか練習のできる場所はないかときょろきょろした。どこも丁寧に管理が行き届いていたが、薔薇の季節の終わり始めた庭は寂しそうだった。
談話室の喧騒から離れると少し気持ちが落ち着いた。ここなら練習が出来そうだ、と笛の用意をし始めるとーー誰かいる。
『バッシュくん、バッシュくんなーにしてるの?』と、顔の周りを光が瞬いた。リヒトだ。
木立の間からぬっと黒衣のヴァルが現れてあやうく大きな声が出るところだった。
「練習」
短く答えるとバッシュはそっぽを向いて笛に唇を押し当てた。低い音、高い音交互に出して確かめた。演奏は大丈夫そうだった。
『私が休んでる間によく分かんない人と知り合っててびっくり。あの司祭なんなの?』
なんなのかはバッシュも知りたかった。
それにヴァルのことも。
ちらりとヴァルの様子を伺ったが、どこ吹く風といった様子でバッシュのことを見守っていた。
「喪明けの儀が執り行われるまであと少しだからね」
「喪明けの儀って具体的にはなにするんだ?」
「テンプル教会の習わしに従うと思うよ。12時を過ぎたら司祭が領民に向かって喪明けの宣言を行う。それと同時に宴会が始まって、太陽が出る頃に終わるはず」
「ふーん…本当にただのお祭り騒ぎだな」
「そう見えるけど、大事なことだよ」
喪に伏す期間が終わる。
今まで1年間亡くなった故人を悼んで悲しんでいたが、時計の針が今日を終えたらそれもおしまいにしなくてはならない。
強制的に前を向かされるこの行事の意味合いが若いバッシュにはイマイチ分からなかった。いま分かることはとにかく金の為に宴会中の娯楽の一部として笛を吹くだけだ、とバッシュは練習を始めた。
笛の音に釣られるように庭先に埋められた石畳みに聞いたことのある音が鳴った。人の足音とそれに杖をつく音。
少し離れたところで夢中に練習をしているバッシュとそれにくっつくリヒトは気が付かなかった。ヴァルが振り返ると豊かなヒゲの辺境伯がにこりと笑った。
「さきほど司祭様からお話を伺いました。
番人の葬儀屋さん」
辺境伯は老体ですので失礼します、と声を掛けてから近くのベンチに腰を下ろした。
「妻の喪明けの儀式のために関所ではご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」
「いえ…このような儀式に参加させていただけて光栄に思います」
「領民たちが寝る間を惜しんで一生懸命準備してくれていましたから。私は幸せな領主です」
辺境伯はバッシュの方に視線を向けた。
「ああ…確かに司祭様が仰っていたように彼の演奏はなにか心に感じるところがありますな」
「…そうですね」
「お身内の方に音楽士の方がいらっしゃるのでしょうか」
ヴァルとバッシュに血縁関係が無いことをすぐに悟っていた辺境伯は思わずというように口から言葉が溢れた。込み入った話を聞きましたと、辺境伯はすぐに謝罪したが私もつい先日知り合ったばかりなのですとヴァルも正直に答えた。
バッシュの演奏を聴いていた辺境伯が昔の話をしてもよろしいですか?と、ヴァルに尋ねた。
バッシュを見るとまだ練習に夢中のようだったのでどうぞ、と答えた。辺境伯はヴァルへ隣に座るよう促した。
数度促されてヴァルはようやく辺境伯の隣に腰を下ろした。あの時アーク司祭の肩越しに見ていた辺境伯は威厳に満ち溢れていた。
今は年相応の、愛する人を失った悲しみに暮れるただの老人だった。