狼の少女
バッシュは目の前に現れた耳と尻尾の生えた裸の女を見て、指を指して口をぱくぱくとさせた。後ろには犬がいたと思ったのに、突然裸の女が現れたのだから、頭が混乱するのも無理はないかった。
「な、な、な、なんだ!?お前、いったい何者だ!?どこにエゾフをやったんだ!!」
バッシュが叫ぶと、その声に反応してヴァルが早足で駆けつけた。現場を見て、ヴァルはまったく動じることなく、冷静に言った。
「ああ……なんだ。エゾフか。」
バッシュはその冷静すぎる反応に驚き、再び女を見つめながら叫んだ。
「このヘンタイがエゾフなわけないだろー!?ヴァル。なに言ってんの?ずっと頭がおかしいと思っていたが、この前のことでいよいよおかしくなったのか!?」
「な!ヘンタイだと!?エゾフ、ヘンタイじゃない!狼だー!」
「いーや!ヘンタイだ!それも、そ、そそんな格好でただ事じゃないだろう!?エゾフをどこにやった!!」
「だーかーらー!」
ヴァルはため息をつき、まるで何事もないかのように、エゾフだと名乗るその女の方へ歩み寄った。バッシュはその様子を見守りながら、再び指を指して叫んだ。
「おい!ヘンタイ!エゾフを返せ!!」
ヴァルは冷静にエゾフだと名乗る女に近づき、後ろから指先で彼女の耳を軽くつまんだ。
その瞬間、女は「ヒィッ!」と小さく声を上げ、硬直して動かなくなった。まるで神経が急に過敏になったかのようだ。
「エゾフはここにちょっとした噛み傷の痕があるんだ。……バッシュ」
バッシュはその言葉を聞いて、目を見開き、驚愕の表情を浮かべた。ヴァルが自分の名前を呼んでくれたことに気を取られ、心の中で感無量になった。涙がじわりとにじみ出る。
「ヴァル……?お前、オレのこと覚えてるのか……?」
バッシュは涙をぬぐいながら、ようやくヴァルが自分のことを思い出してくれたのだと実感し、ほっと胸をなでおろした。エゾフが、あの耳と尻尾が、すべてを物語っていた。
ヴァルはバッシュの反応を見て、少し首をかしげた。
「……?」
その不思議そうなヴァルの顔に、バッシュは一瞬、胸が詰まって言葉を失った。再び固まったまま、動けなかった。
その時、老馬トロントがゆっくりと歩いてきた。トロントだけがこの場を俯瞰して見ており、静かに尾を揺らしながら、3人のやりとりを笑うように軽いため息をついた。
◇◆◇◆
全員が冷静になるために、この場で早めの野営をすることになった。
流石に裸のままでいるのは困るため、バッシュはロッソからもらった外套と自分の荷物から、アーク司祭に頼まれて笛を吹いた時に館の侍女からもらった一張羅をエゾフに渡した。
思えばロッソが急に外套を渡してきたのは、なにかしら気がついていたのかもしれない。なぜ教えてくれなかったのか、あとでとっちめないといけない。
エゾフはそれを受け取ると、人間の服なんて窮屈だ、肌触りが嫌だと散々文句を言いながらも、それを着ることにした。
「おまえ……なんで急に、人間になったんだよ」
「急じゃないし。お前たちが村で狼がどうこう言うから、この姿は人間に合わせてやったんだよ」
バッシュはエゾフが着替え終わるまで終始俯いていた。世話をしていた犬が人間になるなんて。
いや、そもそもあいつ牝だったのか?いや、そもそもそもそも今は人間の姿だから女なのか!?
バッシュが悶々としていると、ヴァルが目の前の焚き火に枯れ枝をくべながら言った。
「……山の聖域に入った影響だろう」
「そう!人間たちが言うセイイキのおかげだ!」
着替え終わったエゾフはフリフリと尻尾を振りながら、犬のように嬉しそうに跳ねた。
「かか様はもっとすごいんだ!こんなに大きくて……」と、無邪気に言いながら、耳をぴょこんと立てて周囲を見回した。
「それで、オレたちに何か用があるのか?」
着いてきたのには理由があるのだろう?と、ヴァルは焚き火を棒で突きながら言った。珍しくヴァルが苛立っているように見えて、バッシュは少しどきりとした。
「お、お願いがあってアンタ達に着いて行ったんだ!」
「お願い?」
バッシュはようやく顔を上げた。エゾフをよく観察すると、見たところでは自分と同じくらいの年齢の少女に見えてきたが、その目の輝きや耳の動き、尻尾を振る仕草に、どこか狼や犬のような野生的な一面が感じられた。
「ヴァル=キュリア、アンタに頼があって……」
「……悪いが今は旅を急いでいる」
ヴァルはエゾフの顔を見ることなく少しの躊躇いもなく断った。
「頼む!お願いだ!アンタにしか頼めないんだ!」
エゾフの必死の様子にバッシュが間を取り持つように言った。
「話くらい聞いてやれよ。色々助けてくれることもあったし。……エゾフがネックレス拾わなければ、ここまで辿り着けたかもわからないだろ」
そう言われるのと同時にヴァルのそばに明るい光が灯った。それは揺めきながら漂うと、ヴァルを諭すように肩に触れた。バッシュはそれを見て思わずつぶやいた。
「……リヒト」
ヴァルは少しだけ俯くとやがて観念したように「どんな頼みなんだ?」と、エゾフに尋ねた。
ヴァルが「どんな頼みなんだ?」と尋ねると、エゾフの顔が一瞬にして明るく変わった。暗い雲が晴れるように、表情がぱっと輝き、目を大きく見開いて嬉しさを隠しきれない様子だった。
尾を軽く振りながら、足元で軽く跳ねるように動き、まるで子供のように喜びを全身で表現していた。