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番人の葬儀屋  作者: あじのこ
第6章 エコーズ・オブ・パスト
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悪魔の契約

馬の蹄の音が暗い地面を静かに打ち鳴らしていた。冷たい夜風がヴァルとアナスタシアを包み込んでいる。彼女を抱きかかえた腕は固く力が入り、もう何も失いたくないという気持ちが伝わってくるようだった。


やがて、森の奥にそれらしき場所が見えてきた。古びた、そして自然に溶け込んだ入り口――洞窟がそこにあった。


ヴァルの心臓が速く打つ。初めて過ごした場所。あの時間が、今では喪失の象徴のように彼を迎えた。


「アナスタシア……」


彼は囁くように彼女の名を呼んだ。


その馬を進め、洞窟の入り口へと到達する。入り口はひんやりとした空気に満ちていて、アナスタシアの亡骸が持つ冷たさと相まって、ヴァルの心の中の冷えた何かがさらに深まった。


彼女を宝物のように、厳重に抱きしめたまま、馬から降りる。


「ごめん……」


ヴァルの声は震えていた。その言葉が洞窟の闇に溶けていく。


ヴァルはアナスタシアを優しく抱きしめた。その姿勢からは、彼女を失った絶望や後悔、そして愛が込められていた。誰にも触れられたくないかのように、大切に――まるで最愛の者を失う痛みに抗うかのように――抱きしめる。


洞窟の中は静かで、ただ水滴が落ちる音と、風が岩肌を揺らす音だけが聞こえてきた。


ヴァルは息を整え、足を踏み出した。


「戻ってきたよ……アナスタシア。ここが、君との時間が始まった場所……君と過ごした思い出の場所……」


彼の声は自分自身に囁くような、あるいはアナスタシアに向けた言葉のようだった。


暗闇の中へ。ヴァルの足取りが続く。洞窟の闇が二人を包み、二人だけの時間が始まった。


ヴァルはアナスタシアを馬から降ろし、自分の着ていた布を敷くとその上に優しく眠らせた。彼女の顔には穏やかな眠りの表情が残っているが、ヴァルの胸の中には言葉にできない重苦しい感情が渦巻いていた。


本当にオレが君の力を奪い去ってしまったのか。力を失ったことで君をここまで追い詰めてしまったのか。オレがあの時君を連れて一緒に逃げていたらこんなことにはならなかったのか?


……アナスタシアのいない世界でこれ以上生きる意味があるのか。


自分に残された選択肢は――。暗闇の中で、死が彼の心の中を横切る。


その瞬間、ふと何かの気配が背後から漂ってきた。


「……?」


ヴァルが顔を上げると、暗闇の中に、何かがいるような気がした。目を凝らせば、ソレがこちらを見ている――その感覚に、背中が冷たくなった。


そしてそれがはっきりと形を成した。

小さな黒いネズミだった。


「ネズミ、か……」


ヴァルが警戒心を解こうとした瞬間だった。


そのネズミは、目がない。いや、目がないように見えた。暗闇に溶けた影が、細く不気味に揺れているようだ。


「……?」


ヴァルの心臓が急激に早鐘を打つ。彼はさらに目を凝らした。その影は、無数に存在しているようだった。暗闇の中で、何匹もの「目のないネズミ」が、ゴソゴソと動いている。


その瞬間、ヴァルの体が強張った。


「何だこれ……?」


ゾッとする感覚が背中を這う。彼が剣を手に取り、周囲を警戒しながら振るう。


「いけ……消えろ!!」


しかし、どれだけ振っても、それらは切れない。目のないネズミたちは不気味に動き続けるばかりだ。剣の刃が虚しく空を切り裂く。


ヴァルが必死に振り払うが、まるで影が彼の動きをからかうかのように、しぶとく彼にまとわりつく。


「離れろ!離れろ!!」


彼の声が、暗闇に響く。その時、影のネズミたちがアナスタシアの体に向かってゴゾゴゾと這い寄っていることに気づく。


「おいやめろ……!」


ヴァルの手が剣を振るい、恐怖と絶望に突き動かされるように、ネズミ達を斬りかかる。しかし、何も切れない。剣は空を空しく切り裂くばかりだ。


「なんだ……何なんだこれ……!」


彼の顔には汗が浮かび、目は焦りに揺れていた。その姿は、絶望する者のようで、強がる者のようでもある――みっともなく、必死で、何より情けない。


ネズミはアナスタシアの横に取り憑こうとしている。彼女の穏やかな顔が、暗い影の動きに照らされるように揺れている。


「やめてくれ……頼む……!」


ヴァルは剣を振り続けた。みじめに、そして無力に。必死に影たちを振り払うが、どれだけ振り回しても追い払えない。


「くっ……くそっ!」


彼の息は荒く、声が裏返る。剣を何度も振り続けながら、全身から力が抜けていくようだった。


影はアナスタシアの体を取り巻き、その姿がヴァルの目には何より恐ろしいものとして映る。


「……やめろ、やめろやめろやめろ……!」


絶望に支配されながらも、彼は剣を振り、影たちがアナスタシアに触れるのを必死に阻止しようとした。だが、影たちはただ笑うかのように、存在そのものが動き続ける。


「うわああああっ……!」


ヴァルの叫びが、暗闇に響き渡った。

剣が空を切る。手が震える。影が揺れる。

この夜の闇の中で、ヴァルの心と体は、絶望と恐怖の波に完全に飲み込まれようとしていた。


その時、暗闇の奥深くから不穏な響きが耳に届いた。その声は何とも言えない抑揚を含み、空気そのものを歪ませるようだった。


『騒がしいな……』


その低い呟きは、静寂を切り裂くようにして響き、洞窟の壁が微かに揺れた。


『人間か……1人は死んでいるな。可哀想に。番が死んでしまったのか。』


その一言が、ヴァルの胸の内に重く落ちた。心が冷たく締め付けられたような感覚に襲われた。


『どれ、助けてやろう……』


その声が発せられると同時に、空気が一瞬揺れ、ヴァルの周囲にひんやりとした風が巻き起こる。その風は穏やかで、まるで母親が子供を優しく包み込むような、安らぎの感触さえあった。


その吐息のような風が流れ込むと、アナスタシアの肉体の周囲に集まっていた不気味な異形のネズミたちが、まるで何かの魔法にかけられたかのように、次々と塵となって消えていった。ゴゾゴゾと不気味な動きを見せていた影たちが、まるで煙のように姿を失い、闇に溶けていく。


ヴァルは息を呑んだ。何が起きたのか理解できずに呆然とした。


『これは一時的なモノだ。すぐにまた戻ってくる……それにしても神明の臭いがするな……ひどい、鼻がもげそうだ』


その言葉が出ると、影のような存在がじわじわと動き出した。最初はただの闇の揺れのように見えたが、その動きは確かな意思を持っていることに気づいた。影は人間の姿を保ちながら、その輪郭は歪み、どこか別の次元から這い出てきたような、不安定な形をしていた。


『その女は自ら命を絶ったのか。ああ、なるほど。霊魂がなくなってしまっている。だから、ケガレが狙ってくるのだ』

「ケガレ……?」

『ケガレを知らないのか。人の子よ。お前のような生き物の感情や生への執着が集まって、ああいうものが生まれてくるのだ。』


人間のような手、無表情な顔、しかし目は暗く、深い闇に閉ざされたように光を失っている。口元には、笑みのようなものが浮かんでいたが、それは温かさも希望もなく、ただ冷徹な威圧感と嘲笑の色を含んでいた。


『ああ……可哀想に。神明なんかに愛されたが故にその女の肉体にやがて穢れたモノが入り込む。死して休まることはなく、女の体は犯されるだろう』


それを聞いたヴァルは即座にアナスタシアの体を抱き寄せて抱えようとした。ここから早く逃げ出さなくてはいけない。


『ここから逃げても無駄だ。人間には見えないだけで、どこにいても其処彼処にケガレたやつはいるのだ。朽ちる前に女の肉体を焼くか?いやいや、それはもっと悪いことになる……魂を失った肉体のまま焼けば、女の霊魂は永遠に彷徨うだろう』


ヴァルの心臓が早鐘を打ち、暗闇の中の声に必死で抗う。身体は硬直し、息がかすかにしか出ない。影の声は彼の心に深く突き刺さり、逃げ場のない暗い絶望を描き出している。


「お、教えてくれ!どうすればいいんだ!?」


影の存在は、すっとヴァルに向かって近づいてくる。その動きは滑らかで、音もなく、物理的な存在というよりも、気配そのものが物理を歪ませているようだった。


『どうもならんさ』


その言葉は冷酷に、単調に返ってきた。ヴァルの手がぎゅっと握られた。涙がにじんだ視界の中で、何か希望を探そうとしている。


だが、その後、影が言葉を変えた。態度がひややかなだけに、余計に不気味だった。


『いや、待てよ。……一つ方法を教えてやろう』


その声は甘く、しかし暗闇そのもののように冷たかった。影はヴァルの心に触れるかのように言葉を紡いだ。


『女を救う方法を教えてやろう』


その言葉がヴァルの心の奥を刺激した。ヴァルの心の中の迷いが顔を覗かせる。


『ケガレが近づかないように女の肉体を私が凍らせてやろう。そうすれば悪いものは女の肉体に入ることはない。その間にお前は女の彷徨う霊魂を探しに行けばいい』


影の声は、どこか楽しそうに、そして強引にヴァルを引き込もうとする力を帯びていた。影が近づくたび、ヴァルの身体は自然と緊張した。


『しかし……そうするためにはお前の協力が必要だ。いや、なに大したことではない。すこーしばかり……お前の魂を私によこして欲しい』

「……魂、だと?」

「契約には代償が必要だ。お前のような粗末な人間が魂以外に、なにが差し出せる?」


影の存在がその笑みを強調するように、より一層近づいてくる。その気配は、暗闇そのものが意志を持ち、人間の理性を試そうとしているようだった。


『さあ、どうする?』


影の姿が、洞窟の冷たい空気をまとい、闇そのものの姿となってヴァルを取り囲んだ。心が迷い、冷や汗が背中を伝う。契約か、それとも拒絶か……選択を迫られる瞬間にヴァルは即答した。


「いくらでも差し出そう……アナスタシアを救えるのなら」


その言葉が口をついて出ると、ヴァルの足元に突然、黒く歪んだ魔法陣が現れた。魔法陣は古びた紋様を刻んだ邪悪な儀式の印のように、赤く光を発している。その光は不気味に揺れ、洞窟の暗闇に反射してまるで無限に深く広がる闇の入り口のようだった。


魔法陣が展開された瞬間、洞窟全体が低い呻き声のような音を立てる。ヴァルは足元を見つめ、何かが起きていることを肌で感じる。


すると、影がさらに近づき、その存在が明確に形を取る。姿は壮大で、威圧的な影の魔物となっている。悪魔そのもののように、影は鋭く、邪悪なオーラを放っている。その姿には影の衣服のような黒い霧が渦巻き、爪のように鋭利な手が現れている。

ヴァルはこの時になって、自分の選択が過ちを犯したのではないかと疑念を持ったが……全ては遅すぎた。


体が熱い。背中を伝う冷や汗が、石壁に滴となって落ちる。心臓の鼓動が速まり、息がかすれている。契約の力が、まるで自分の肉体を焼き尽くすかのような激しい苦痛を与えていた。


「くっ……!」


手が震え、足が動かない。魂が引き裂かれる感覚が襲いかかる。その痛みは終わりがなく、ヴァルの精神が徐々に闇に引き込まれていく。


意識は薄れ、体の中で何かが動き出すのを感じる。その瞬間、頭の中に無数のビジョンが流れ込んできた。強烈な苦痛と共に、ヴァルの脳裏にさまざまな「記憶」が押し寄せる。


それは人間ではない、違う存在の記憶。暗闇に生きる、冷酷で狡猾な存在の歴史だった。


「――血と裏切りの記憶……」

「――無数の犠牲が積み重なった、この暗黒の歴史……」

「――全てが欲望と渇望に満ちた美しいものだ……」


記憶の断片が次々と頭の中で再生される。その中には殺戮や暗闇の儀式、無数の生者が苦しんでいる様子、そして狂った笑いが含まれていた。

ある者は涙を流し、ある者は叫び、ある者はすがりつき、ある者は苦しみながら命を奪われる――。


「これ…は…何だ……?」


ヴァルの思考が途切れ、耳の奥で何かが囁く。


『私はお前が気に入った。私の過去、私の記憶、私の渇望――すべてを知るがいい』


その声は低く、不吉で、ヴァルの心を抉るかのように響いた。

体が揺れ、呼吸が荒くなる。悪魔の記憶が彼の心に侵食し、ヴァルの意識を蝕んでいく。心が壊れていくのを感じた。

影の低い声が、深い闇の中から響く。


『契約しよう。ヴァル=キュリアよ……限りある命を、我と共に楽しもうではないか!』


その言葉が口から吐き出されると同時に、影の手が魔法陣の中心に向かって伸びる。手が触れると、魔法陣がさらに強い赤い光を放ち、洞窟全体が一瞬にして赤く染められた。


◇◆◇◆


洞窟の暗闇の中、ヴァルは身震いしながら徐々に消えていく魔法陣を見つめていた。その異様な光景に心が疲弊していた。


どれほどの時間が経ったのか分からなくなっていた。もはや今が朝なのか、夜なのかさえも。ヴァルの中から時間という概念が完全に消え失せてしまっていた。意識がぼんやりとしていると、突然、不意に背後から声がかかった。


「ん……なんだい……これは?」


人の声がしてヴァルが思わず振り返ると、そこには杖を手にした老婆が立っていた。彼女は見た目こそ年齢を重ねているものの、身のこなしは矍鑠としている。だが、時折、老いの忍び寄りが見て取れ、腰はわずかに曲がっている。杖を支えにしながら、不安げな表情を浮かべている。


「やれやれ……神明様の鐘の音が聞こえたからやっとこさ来てみたら、なんて事になっているんだい……!」


老婆の声は驚きと憤りを含んでおり、洞窟の中に響き渡った。その声は悲鳴のようにも聞こえ、ヴァルの心の底に恐怖を掻き立てた。


「そこの、若いの!アンタだよ。アンタ……悪魔と契約しちまったのかい?」


ヴァルは思わず目を見開き、狼狽した。何を言われているのかよく分からず、言葉が出ない。頭の中は混乱していた。


「とんでもないのと契約しちまったね……!」


老婆は杖を指さし、その指先が示す方向には、巨大な氷の柱の中で眠るアナスタシアがいた。その氷の中の彼女の姿は、どこか美しく、しかし異様で不気味なオーラをまとっている。


その瞬間、ヴァルの心にひとつの真実が突き刺さった。


――自分はとんでもないことをしてしまったのだ、と。


◇◆◇◆


視界がぼやけ、思考の中で過去と現在が交錯する。


だが次の瞬間、冷たい風が吹き、ヴァルは現実に引き戻された。足元の感触が硬い石畳に戻ると、目の前にはロッソとバッシュがいた。


やがて三人は重苦しい沈黙の中、互いに距離を保ちながら洞窟の奥へと向かって歩いていた。扉はすぐそこだ。アナスタシアの肉体が眠る、あの忌まわしい場所への入り口。


ロッソが口を開く。


「あの〜ずっと黙ったままだがどうするつもりなんだ、ヴァル?」


ヴァルの喉が引きつる。彼の中で、二つの選択肢が苛烈な光を放つ。

選択肢はどちらも過酷だった。


ひとつは、霊魂の戻らないアナスタシアの肉体を焼き尽くし、ケガレに憑依される前に葬ること。

もうひとつは――。


「……もう一度、悪魔と契約する」


その言葉が頭をよぎると同時に、ヴァルの体は震えた。契約を結べば、アナスタシアの肉体は再び凍らせられる。だが、彼にはすでに半分の魂しか残っていない。


「もし残りの魂を差し出せば……オレは……」


言葉を飲み込んだ。

それでも心の中で、アナスタシアの微笑みが浮かんでくる。


『おかえりなさい』と彼女が言った、あの瞬間が。


ロッソが冷静な声で続けた。


「よ〜〜く考えろ、ヴァル。悪魔と再び契約すれば、今度こそお前は――」


「分かってる!」


ヴァルが叫び、拳を握りしめる。


目の前にあるのは、絶望の先にあるほんのわずかな希望か、それとも彼自身の終わりか。選択の重みが、彼の全身にのしかかっていた。

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