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番人の葬儀屋  作者: あじのこ
第6章 エコーズ・オブ・パスト
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激情

宮殿の一番奥、静寂が支配する重厚な廊下を抜けた先に、その邪悪な場所は存在していた。


古い扉は、年月を経たことで木肌が黒ずみ、縁には錆びた金具が鈍い光を反射している。扉を開くと、そこは異界のような空間だった。石造りの床は湿気を孕み、冷たく、そして陰鬱な空気が漂っていた。その空気は、何か不吉な魔力を孕んでいるかのように感じられた。


部屋の中央には、古びた木製の書棚が整然と並び、その背後には数十冊もの禁断の書物が並べられている。それらの書は、複雑な魔法の記述や古代の儀式、そして過去の禁断の知識を記したものばかりで、どれも手に取ることがためらわれるほど暗く、不気味なオーラを放っていた。


研究机の上には、数えきれないほどの薬品の瓶や奇妙な器具が並び、その中には光る結晶や、不気味に泡立つ液体が揺れている。赤や青、時には黄といった異様な色が混ざり合い、その存在が何を意味するのかを考えただけで胸の奥が締め付けられる。


その部屋の主人は、背後を向けており、長い金髪を一つに結び肩越しに垂れ下がっている。その姿勢からは、何かしらの研究に集中していることが分かる。彼の手元には古代の書物が広げられ、その上には魔法陣が細かく書き込まれた紙片が敷かれている。手には細い筆を持ち、文字を慎重に書き込んでいる。


彼の顔には焦りや疲れの色はなく、ただ淡々と研究を続ける姿勢があるのみだ。その瞳は、かすかに青白く光る書物の光に照らされ、何か恐ろしい目的を追い求めるような冷淡さを漂わせている。


この部屋は、永遠や不老、そして禁断の力を追い求めるための場所。


永遠などという甘美でありながら危険な妄想を追い求め、すでに何度も過ちを重ねてきた研究の果て。その場所に漂う空気は、科学と呪術、魔力と絶望が混ざり合った、忌まわしい陰りに満ちていた。


それが、彼が追い求める「永遠の研究」だった。


部屋の主人がふっと顔を上げると、暗闇の中からひそやかな足音が響いた。


何かが近づいてくる――その存在を認識すると、センペルは顔に冷ややかな笑みを浮かべた。彼の瞳は、月明かりに照らされる古びた書物の青白い光の中で、鋭く光を放っている。その笑みはまるで、待ちわびた者を迎えるかのように不敵で、そして冷徹だった。


「思ったよりも早かったじゃないか」


彼の声は、冷たく滑らかに空間を割って響いた。

その口調には不満や苛立ちは一切なく、あたかも友人に向けるような軽い調子に聞こえた。しかし、その裏には明らかな計算と冷酷さが隠れている。


暗闇から現れた影が、ゆっくりと姿を明らかにする。その影は、疲れた面持ちと血に濡れた服をまとい、今まさに狂気と絶望を背負っているかのようだった。センペルの笑みがますます深まり、彼は手にしていた魔法陣の書を閉じると、余裕の表情で問いかける。


「やぁ、遅かったじゃないか。誰から殺したのかな? 父王? それともロイス兄上?」


その言葉には疑問も憎しみもなく、ただ他人事のような軽さが漂っていた。


「まぁ、誰からでもよいかぁ。」


センペルは続ける。


「……いい瞳になった。奴隷兵士のまま、なにも選択できず、ただ流されるままに生きていた時よりずっといいよ。」


その言葉に、ヴァルは一瞬息を詰めた。センペルの口調には、心を見透かすような鋭さがある。何かを選び、何かを奪い、何かを殺し、そして今、ヴァルの目には「選択」という自由があった。


センペルの瞳がヴァルをじっと見つめ、彼の表情を観察する。


「お前はもう、ただの『道具』じゃない。『選択』ができる力を持った。」

「……そうだな。だからこうして来た」


ヴァルは剣を握りしめ、冷たくセンペルを睨んだ。その瞳には迷いがなく、ただ殺意だけが宿っていた。


「ふふ。言葉だけではないところを見せてもらおうじゃないか!」


センペルの冷笑が暗闇に響き、月明かりがその異様な笑みを照らした。彼の言葉が終わるや否や、影が動き、石畳を踏みしめる重い足音が次第に近づいてきた。


月明かりが薄暗い広間に差し込み、静寂が場を支配していた。ヴァルは剣を構え、鋭い視線を前方に向けていた。そこには一人の兵士が立っていた。


兵士は、鉄格子のような兜で顔を完全に覆い隠し、全身を堅牢な鎧で覆っている。その重量感をものともしない威圧的な佇まいが、空気を張り詰めさせた。


「ふしゅー……ふしゅー……」


兵士の吐息は荒く、鉄兜の隙間から漏れ出すその音が、闇の中で異様に響いている。人間味のないその呼吸は、まるで機械のようで、兵士が生きているのか、それともただ動く道具なのかを疑わせるほどだった。


ヴァルはじりじりと間合いを詰めたが、兵士は一切の言葉も声も発せず、ただ巨大な鉈を肩に担ぎながら静かに構えている。


「……来い」


ヴァルが低く言葉を発した瞬間、兵士は反応した。


鋼鉄の鎧が重く地を打つ音を立て、兵士が前方に踏み出す。同時に、巨大な鉈を振り下ろした。


ゴンッ――!


鉈が床を砕き、粉塵が宙に舞う。その威力にヴァルは舌打ちしつつ、間一髪で横に飛び退いてかわした。


兵士は間髪を入れずに次の一撃を繰り出した。荒い吐息と共に鉈を横に薙ぎ払う。ヴァルはそれを剣で受け止めたが、衝撃のあまり後方に大きく跳ね飛ばされた。


「……化け物か……!」


ヴァルは体勢を立て直しながらつぶやく。その動き、力――人間離れしている。


兵士は再び無言でヴァルに迫る。荒い吐息だけが響き、全身鎧の隙間からはわずかに血の匂いが漂う。


ヴァルは冷静に兵士の動きを見極め、彼の攻撃の軌道を見切った。そして次の一撃が振り下ろされる瞬間、鋭いステップで懐に飛び込む。


「遅い……!」


ヴァルの剣が兵士の脇腹を狙い、鋼の隙間を正確に突いた。しかし、鎧が衝撃を吸収し、刃はわずかに食い込むのみだった。


兵士は動じることなく、力強い蹴りを繰り出してきた。ヴァルはそれをかわし、距離を取る。


「ふしゅー……ふしゅー……」


呼吸音が再び場を支配する。だが、ヴァルの目には勝機が見えていた。


鉈を振るうたびに、兵士の動きがわずかに鈍っている。


ヴァルは次の一撃を誘うべく、敢えて間合いを詰めた。兵士が鉈を振り上げる――その瞬間、ヴァルは地面を蹴り、真横に跳んだ。


「ここだ……!」


剣を大きく振り上げ、鎧の継ぎ目を正確に狙って突き刺す。刃が肉を貫き、兵士が一瞬動きを止めた。

荒い吐息が途切れ、兵士の巨大な体がゆっくりと崩れ落ちる。鎧が地面にぶつかる音が鈍く響き、静寂が戻った。


「ああ……!ヴァル=キュリア!君はなんて素晴らしいんだ。君こそボクが求めていた逸材。その堅牢な精神と肉体があれば実験は間違いなく成功する!

君はボクと同じ、狂っている側の人間だ!」


センペルの笑みは、月明かりに照らされ、歪んだ狂気のように浮かび上がった。彼の声は、甘美な音色を帯びており、まるで真実を語るかのように、しかし鋭い刃のような冷たさを滲ませていた。


書物を閉じた手は、まだ薬品に浸された錆びた試験管を掴んでおり、その青い煙が穏やかに揺れていた。実験の匂い、生命と死の境界を曖昧にする術式が、部屋全体を支配している。


「君はもはや普通の存在じゃない。君は破壊者であり、選択する者だ。その能力が、ボクが追い求めていた『永遠』を具現化する鍵になるんだ」


センペルの声は低く、冷静だったが、その中に漂う興奮が紛れもない真実を物語っていた。彼は手にした試験管をじっと眺め、その内容が深淵な魔術を秘めていることを理解しているかのようだった。


「君の過去、君の選択、そして君の怒り――すべてがこの『永遠』を完成させるために必要な要素なんだよ。君はボクと共に、新しい未来を築き上げることができる。君も分かっているだろう?」


彼の言葉は、ヴァルに向けた優しい誘いか、あるいは命令かのようだった。


暗闇が支配する部屋の中で、センペルの瞳が妖しく光を宿し、その笑みがさらに不吉な色を帯びる。実験室に漂う異様な静けさが、まるで嵐の前の凪のように二人の間を支配していた。薬品や錆びた鉄の匂いが重たく空気を包み、どこか歪んだ世界に引きずり込まれたかのような錯覚を覚える。


「選択を恐れず、君の力を解き放て。」


センペルの声は柔らかく、どこか甘美ですらあった。だが、その響きには底知れぬ冷たさと執着が潜んでいる。


「ボクの夢に付き合う覚悟はあるか?あると言ってくれ……!一緒に終わらない永遠を楽しもう!」


言葉が空間を切り裂くように響くと、部屋の温度がさらに一段下がったように感じられた。しかし、その問いにヴァルの表情は一切揺るがない。


静かに剣を持つ手が動き、センペルに向けて冷たく鋭い刃が突きつけられる。刃先が微かに光を反射し、月明かりのように鋭い冷光を放つ。


「興味がない。」


ヴァルの低く冷たい声が、まるで石を投げつけるように響いた。


「お前のその大層な研究にも、お前自身にも興味がない。」


センペルの笑みが一瞬凍りついた。

次の瞬間には再び口角が引き上げられたが、その裏に隠れた苛立ちが微かに滲み出ている。それでも、彼の目はまるで愉快な玩具を手にした子供のようにヴァルを見つめ続けた。


ヴァルは剣をさらに一歩前に突き出し、センペルの喉元を狙うかのように構え直した。その目には冷酷な決意と迷いのない鋭さだけが宿っている。


「オレはお前を殺すことにしか興味がない。」


その一言は、容赦なく張り詰めた空気を切り裂いた。まるで剣そのものが言葉を持ち、センペルを貫こうとしているかのような凄まじい気迫が込められていた。


センペルはわずかに肩をすくめ、静かに息を吸い込む。狂気の笑みを浮かべながら、彼は小さく囁いた。


「やはり、君は実に素晴らしい……!」


ヴァルが剣を振りかぶり、一瞬の迷いもなく刃を振り下ろすと、センペルの胸元を袈裟斬りに裂いた。鈍い音とともに、鋼が肉を割る感触が手に伝わる。

次の瞬間、鮮やかな赤い血が勢いよく噴き出し、暗闇の中に飛び散った。月明かりに照らされたその液体は、奇妙なほどに鮮烈だった。


――こいつの血は、人間と同じように赤いんだな。


ヴァルはぼんやりと思った。それが安堵を生むものでも、警戒を解くものでもない。ただ、その事実を冷たく頭の中に刻み込むだけだった。


ヴァルの剣がセンペルを袈裟斬りにした瞬間、センペルの体はその場に崩れ落ちた。後ろにのけぞるように倒れたセンペルの腕が、背後のテーブルにぶつかり、そこに並べられた薬品の瓶やランタンが派手な音を立てて床に散らばった。


薬品の瓶が大きな音を立てて砕け散り、中身が石造りの地面に流れ出す。床を転がったランタンが不気味な軋みを上げながら転がり、倒れた拍子にガラスが割れて炎が漏れ出した。まるで引火するのを待っていたかのように、飛び散った液体が炎を吸い上げ、燃え広がり始める。


火は勢いよくテーブルクロスへと移り、次いでカーテンを巻き込んでいった。布地は瞬く間に赤い炎に包まれ、明るい光が暗い実験室全体を照らし出す。燃え上がる炎は壁の影を揺らし、まるで踊る悪魔のように不気味な光景を作り出す。


薬品の特有の匂いが炎によって蒸発し、空気に有毒な煙を混ぜ込み始めた。燃え広がる火の音が静寂を打ち破り、焦げる臭いが鼻をつく。


ヴァルは燃え盛る光景を冷静に見つめた。センペルは血を流しながら動かない。その足元で火はさらに勢いを増し、部屋全体を呑み込む寸前だ。燻る煙が部屋を満たし、熱気が肌を刺すような感覚を生む。


しかし、ヴァルは剣を握り直しながら一瞬たりとも視線を逸らさなかった。ただ、すぐにこの場所を離れなければならないことを冷徹に理解していた。それでも、心に浮かぶのはただ一言――。


「これで終わりだな、センペル。」


ヴァルは剣を握ったまま、足元に落ちる血のしずくを見つめた。驚きも感慨もない。ただ、目の前で繰り広げられる現実を淡々と受け入れていた。


センペルは苦悶の声も上げずに後ずさりし、胸元を押さえながらかすかに笑みを浮かべた。その赤い液体が彼の指の隙間から溢れ出し、白い衣服を赤黒く染め上げていく。だが、その目には怯えも絶望もなく、むしろどこか満足げな光が宿っていた。


「……美しい一撃だ。」


センペルの声はかすれ、血で潤んだ喉から絞り出されるようだった。それでも彼の狂気は消えていない。


ヴァルは剣を鞘に納め、燃え盛る炎を背に悠然と歩き出した。背後から、まるで執念のように響くセンペルの声が部屋の喧騒と共鳴する。


「楽しいなぁ……!ヴァル=キュリア。ボクの人生でここまで興奮したことはない!」


その声には、死を間近にしてなお狂気を宿した熱があった。しかし、ヴァルは振り返らない。センペルの歓喜も、燃え上がる炎も、彼にとってはもうどうでもよいものだった。


部屋は炎が埋め尽くし、熱波と煙がすさまじい勢いで押し寄せる。やがてセンペルの声も炎に呑まれ、途絶えた。その静寂は、すべてが終わった証のように感じられた。


ヴァルは廊下を歩きながら、外に続く扉を開く。冷たい夜風が熱くなった肌をなでるように吹き抜けた。空を見上げると、いつの間にか雨が上がり、雲の切れ間から星が顔を覗かせているのが見えた。


彼の目に映るのは、ただの夜空ではない。アナスタシア――彼が守るべき存在――のことが思い浮かぶ。あの穏やかな中庭に静かに佇む彼女の面影が、胸の奥を揺らした。


「帰らなくては――アナスタシアの元へ。」


そう思いながら、ヴァルは燃え残った宮殿を後にし、静かに歩き出した。その足取りは確かで、彼の中に宿る決意を物語っていた。燃え盛る炎の光が背後に揺れ、遠ざかっていく彼の影を大きく映し出していた。

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