絶望の果て
「なぜだ……なぜ……!」
その問いが、ヴァルの心の奥底に深く根付く。そして、答えがないことに気づくたび、彼の心はさらに荒れていった。
ヴァルは拳を窓枠に叩きつけた。痛みが走るが、それもまた気にならなかった。内側から何かが吹き出し、抑えきれない感情が支配する。力を込めすぎたせいで、指先がじんじんとしびれ、窓枠に深く食い込んでいた。それすらも気がつことはなかった。
やがて目がギラギラと狂気に染まる。憎しみ、後悔、絶望が、すべてが渦となって彼を支配した。やがて思考が狂い始める。
宮殿の光景が頭に浮かんだ。
アナスタシアの死の原因、その根源である彼ら――王族たち、永遠の秘薬を生み出し、力を振るう者たちに対する怒りが爆発する。
その瞬間、ヴァルの心に一つの決意が固まった。
ヴァルはその時、初めて、自分のための自分の人生の選択をした。全てを終わらせなくてはならない。少なくともアナスタシアを追い詰めたものを全てを。
宮殿で笑う貴族共、王族、あの狂人。……そして、それを終えれば自分自身の命も。
狂気が彼を突き動かした。冷静さは完全に失われ、怒りと復讐の念だけが彼の中で膨れ上がっていく。
ヴァルは足を踏み出した。アナスタシアの死が彼に与えた絶望は、復讐へと姿を変え、もう二度と止まることのない暴力の渦となる。
宮殿に向かうその歩みは、哀しみを超えた怒りと、絶望から生まれた狂気そのものだった。
ヴァルの目は雨に濡れ、狂気の色を宿しながら前を見据えた。
◇◆◇◆
夜の宮殿は深い静寂に包まれていた。白亜の大理石でできた廊下が月明かりに照らされ、どこか異様なほどの静けさが漂っている。ガルザックとロイス殿下は、宮殿の一室で慎重に船の交渉を行っていた。
この場所は王家の権力の象徴とも言える場所であり、贅を尽くした絢爛豪華な調度品が並んだ厳かな空間だった。ガルザックは、ロイス殿下に対して特に礼儀を示すべく、細心の態度を取っていた。
「ロイス殿下、夜分にお越しいただき誠にありがとうございます。宮殿の静寂を妨げるような時間にお手数をおかけしてしまい、心よりお詫び申し上げます。」
ガルザックは、しっかりと腰を折り、控えめな笑みを浮かべながら言った。
ロイス殿下は厳しい表情でその言葉を受け止めた。
「ガルザック。君と僕の仲だ。気にしないでくれ。ただ……船の契約が遅れているという報告を受けた故だ。何故このような遅れが生じたのか、明確な説明を願おう。」
ガルザックの表情がわずかに引き締まる。冷静さを保ちつつ、彼は言葉を選んだ。
「それは……王家の依頼事項に合わせる船体の品質を確保するための一時的な遅れでございます。ただいま、全力で手続きを進めておりますので、間違いなく船は手配できるはずでございます。」
その言葉が終わりかけた時、廊下の向こうから不自然な物音が響いた。二人は息を止め、互いに顔を見合わせる。
「……何か?」
ロイス殿下が警戒しながら立ち上がる。
ガルザックもまた、動揺を表に出さないよう努めながら耳を澄ませた。
その時、扉がゆっくりと開かれた。
月明かりが差し込む扉の向こうに、影が現れた。
血に濡れ、衣服が暗い赤に染まった男が立っていた。その姿は、ひどく疲れているようにも見えた。
「……?」
ロイスとガルザックは、何か言葉を発する間もなく、その姿に圧倒される。
「……血が……」
ヴァルの姿が、闇の中からゆっくりと近づいてくる。彼の目には、痛みと狂気が滲んでおり、今にも崩れそうな姿だった。扉が全て開くと外を警護していたはずの兵士がどさりと倒れ込んできた。
「……なんだお前は……?」
ロイス殿下が声を震わせる。
ヴァルは、ただ一言も発せず、血に濡れた姿のまま室内へと一歩ずつ近づいてくる。
その目は何を求めているのか、何を祈っているのか、誰にも分からない。
ヴァルは、手に生首をしっかりと握りしめたまま、静かに部屋の扉を押し開けた。冷たく血の滴るその首を、何の躊躇もなく床に叩きつける。
首は鈍い音を立てて転がり、血が広がる。ヴァルは一瞬もその首に目を向けることなく、無表情のまま部屋の中央へと歩みを進めた。目の前に広がる光景を一瞥もせず、彼の手からはただ無造作に打ち捨てられた死体の一部だけが、ひどく不自然に転がっていた。部屋に響くのは、ただ冷たい静寂と、血の滴る音だけだった。
ガルザックは冷静を保ちながらも、心の中で確信していた。
『コイツは狂い始めている……』
ヴァルの姿がゆっくりと室内へと進んでいく。彼の目は、焦点が合わず、ただ虚ろに宙を見つめていた。その姿は死神そのもののように、暗闇に浮かび上がる。
ロイスが短剣を構えたその瞬間、あたりの空気が歪むように淀んだ。ヴァルの冷徹な眼光が、ロイスを貫くように鋭く照準を合わせる。
「下賤の身で勝手に宮殿を歩くなど、どうなるか分かっているのだろうな?」
その言葉がロイスの口から吐き出されたが、すぐさまその威圧的な声は、ヴァルの無慈悲な眼差しに押し潰された。
ヴァルの動きは、ただ速かった。
ロイスが驚きと恐怖で身を引こうとしたが、その予測は無意味だった。
「殿下、お下がりを……!」
声をかける暇もなく、ヴァルの刃が真っ直ぐにロイスの腹部を貫いた。
「ぐっ……!」
ロイスの短剣が地に落ち、彼の息がかすかに揺れた。腹部から赤い血が勢いよく流れ、床を赤く染める。
ヴァルの顔には、何の表情も浮かんでいなかった。その動きは機械的で、ただ無慈悲に、ただ目的だけを追っているようだった。
ロイスの体が床に倒れ込む。そのすぐ近くで、ガルザックが恐怖を抱えながらヴァルを睨んだ。
「お、お前……何をしてたのか分かっているのか……!」
ガルザックの声が震えた。彼は武器を手に取ろうとしたが、ヴァルの姿の鋭さが彼の意志を挫く。
ヴァルの無表情のまま、刃先がガルザックへと向かう。
ガルザックは冷や汗をかきながら、必死に武器を握る。しかし、その手に力はなく、すでに絶望が漂っている。腰が抜け、震える足で必死に逃げ道を探すが、視線はヴァルに釘付けだ。
「待て、待てッ!ヴァル、お前のことを許す……!何が欲しい!?金なら、命なら……何でも……!」
「ガルザック……お前には感謝している。お前が教えてくれたことは多い。剣を、命を、躊躇わずに奪うことを……。」
ヴァルは無言でその間を縫うように、歩を進める。静かな足音が響き、ガルザックの恐怖をさらに煽る。
ガルザックの顔に浮かぶのは、言葉では言い表せないほどの恐怖。声は震え、言葉にならない。
「頼む……、殺さないでくれ……!」
だが、その必死の祈りは、冷徹なヴァルの耳に届くことはなかった。彼の刃が、まるで何の迷いもなく、冷ややかに突き進んだ。
ガルザックの眼前に迫る鋭い刃が、彼の言葉をかき消すように一閃した。
「ひっ……!」
ガルザックが身を縮め、反射的に両手で顔を覆うが、もう何をしても避ける術はなかった。
ヴァルの剣がガルザックの首筋を貫く。その瞬間、赤い血が鮮やかに噴き出し、ガルザックの顔や衣服を染めた。
「お、おま、え……!」
ガルザックの叫び声が届くことなく、ヴァルの手によってその運命は強制的に終わりを迎えた。
ガルザックの目はまだ震え、恐怖が凍りつくように瞳の中に揺れていた。だが、それはもうどうすることもできない。
ヴァルは息を荒くしながら、血脂で使えなくなった剣を捨て、死んだロイスの傍に転がる剣を手に取った。
「次はお前たちの番だ……」
その言葉が、暗闇の中で不気味に響く。
ヴァルの目には、もはやかつての理性や躊躇は存在しなかった。
ガルザックの倒れた体から、ゆっくりと血が流れ、宮殿の大理石の床に広がっていく。
この夜、宮殿はその血の色に染まっていく――。