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番人の葬儀屋  作者: あじのこ
第6章 エコーズ・オブ・パスト
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閉ざされた奇跡

ヴァルは僧兵に言われるがまま身を隠した。頭の中は混乱しており、何が起きているのかを理解しようとする余裕がほとんどなかった。


騎士団とガルザックの私兵が王国からの命令でやって来た。彼らは無慈悲に教会を荒らし、壁を叩き、祭壇を蹂躙していったが、どうしてもヴァルを見つけることはできなかった。


やがて騎士団とガルザックの私兵たちは、雨に打たれながらその場を諦めるようにして立ち去っていった。湿った石畳を踏みしめる足音と、雨音だけが静かに響く中で、ヴァルの心臓は依然として速く打ち続けていた。何が正しくて、何が間違っているのか。その答えは、すぐには見つからなかった。


どれくらいの時間が経っただろうか。

ヴァルはその間ずっと身を縮めて隠れていたが、やがて僧兵が彼の元へやってきた。彼らは優しく、そして甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた。水を差し出し、衣服を乾かすための布を用意し、疲れきったヴァルを温かく迎えた。


どうしてそこまでするのかと尋ねると、僧兵の一人が穏やかな表情で答えた。


「教会の人間はみな、聖女様のことを敬い、大切に思っているのだ」


その言葉にヴァルが眉をひそめると、僧兵は続けて語った。


「聖女様が心を許す相手なら、オレたちも大事にしてやんなくちゃバチが当たるだろう」


その言葉は深い信仰と、純粋なアナスタシアへの忠誠心を込めた響きがあった。ヴァルはその意味をかみしめるように、静かにうなずいた。


「……ありがとう」

「聖女様のことを頼むぞ」

「ああ……」


返事をしたものの、ヴァルにはこれからどうするべきなのか分からずにいた。


もうガルザックの奴隷兵士のところには戻れないだろう。戻ることは死を意味していた。そうであれば、ここから離れなくてはならない。


離れる? アナスタシアを連れて? どこに? どうやって?


彼女にあてのない旅をさせるというのか? それが本当に幸せなのか?


幾つもの考えが頭の中で渦巻き、堂々巡りの思考が止まらなかった。


ヴァルは頭を抱え、疲れた表情で遠くの雨に打たれる教会の壁を見つめた。道は見えない。ただ逃げることしか考えられず、その先がどこに続いているのか、どんな運命が待ち受けているのか分からない。


心の中に迷いが増すにつれ、不安が彼の体を蝕んでいった。選択肢が多すぎて、その中から一つを選び取る勇気がどうしても出なかった。


ヴァルは心の声を呟くように、ぼんやりと雨の音を聞いた。その声に答えるものは何一つなく、ただ雨が静かに彼の周りを洗い流していた。


◇◆◇◆


初めてこの手から生まれたのは、幼いアナスタシアに懐いた小鳥であった。


“ねぇ、おばあちゃん。どうして小鳥が2羽いるの?”


その問いかけに、祖母は奇妙な顔をした。世話を焼いていた小鳥が、全く同じものがもう1羽存在していたのだ。


◇◆◇◆


祖母の家は小さな森の端にあり、どこか温かみのある、穏やかな日常が流れていた。木々の葉が揺れる音と小鳥のさえずりが、朝起きると最初に耳に届く。祖母の笑顔と焼きたてのパンの香りが、アナスタシアにとっては何よりの幸せだった。


小鳥が懐いてきたのは、その頃だった。小さな青い羽根を揺らしながら、アナスタシアの手から残ったパン屑をついばんだ。


「おばあちゃん、この子、懐いてるみたい!」


アナスタシアの目は輝いていた。

祖母は優しい目を向けて笑った。


「小鳥もきっとお前が優しいのを感じているんだよ」


そんな日常のある日、アナスタシアは何の気なしに小鳥を見ていた。すると、その小鳥がもう1羽現れたのだった。驚きのあまり、彼女は祖母に尋ねた。


“ねぇ、おばあちゃん。どうして小鳥が2羽いるの?”


その言葉に、祖母の顔が曇った。


「……何を言っているの?小鳥は1羽だけだよ」


アナスタシアは目を見開いた。


「でも、ここにいるのは2羽だよ?」


彼女の目の前には、確かにもう1羽の青い小鳥が立っていた。どうしてそんなことが起きたのか、祖母は説明できず、言葉が止まった。


その後、アナスタシアの能力はどんどん周囲の人間に気づかれ、噂となった。


奇跡を生み出す力。


その手に握られるとあらゆるものが増えていった。初めは小さな驚きや喜びだったが、それはやがて彼女を宮殿へと引き寄せることとなった。


ある日、突然宮殿の兵士たちが訪れた。祖母の家の扉を叩き、アナスタシアを連れ去るための使者だった。彼女がその奇跡の力を持っていることを知った者たちが、宮殿へと彼女を導く手はずを整えたのだ。


アナスタシアは戸惑った。何故、自分がこんなにも特別視されるのか。祖母との穏やかな日々が、突然終わりを迎えた。


その日から、アナスタシアの日常は一変した。宮殿では華やかで厳粛な日々が続き、毎日が緊張の連続だった。


「お前には特別な力がある。お前を使えば、国がより良くなるのだ」


その言葉が、彼女の日常を縛った。何も知らないまま、この道を歩み続けるしかなかった。


奇跡を生み出す力は、彼女にとって自由でもあり、牢獄の鍵でもあった。


「どうして……?どうしてこうなっちゃったんだろう……?」


アナスタシアはその問いに答えを見つけられぬまま、毎日同じように過ごした。


この繰り返しの日常。自由を奪われ、力を試され、恐怖や不安が次第に心を蝕んでいった。彼女が真に望んだこと、それは何だったのか――。


雨音が途切れることなく響く中、アナスタシアは窓辺に腰を下ろしていた。濡れた髪が背中に貼り付き、肩がわずかに震えている。冷えた手でネックレスを握りしめるたびに、中の液体が小さく波打った。祖母の優しい声が、遥か昔の記憶から蘇る。


『この世のすべてが憎くなったら、これを飲みなさい……』


祖母の顔は曇っていた。それでも、その言葉に込められた真意を、幼い頃のアナスタシアは深く考えなかった。ただ、祖母の言葉を信じ、守り続けてきた――それだけだった。


だが今、その真意が痛いほど胸に突き刺さる。

薬師の祖母にはアナスタシアの力を権力者がどう使い、そして後ろ盾のない単なる村娘に用がなくなればどうするのかを醒めた知性で見極めていた。

奇跡の力と呼ばれたものが、多くの人々に恐怖と欲望を植え付け、愛する者たちを遠ざけた。そして、今度は彼女自身をも押し潰してきた。


「……もう限界」


掠れた声が静かにこぼれる。

アナスタシアはゆっくりと目を閉じた。


奇跡と呼び称賛されながらもその実態は顔の知らぬ隣人を殺すために生み出していく食料。

貴族を喜ばせるだけに生み出す金銀宝石。

そして。祖母以外に唯一心を許した人は。


神の沈黙に苛まれ続けた年月が、脳裏を駆け巡る。問いかけても応えは返らず、祈りも届かない。ならば――。


「天に召します神明様……。

私はこれ以上、傷つけ傷つけられたくありません。奪い奪われたくありません。私の肉が私のものであるうちにこの命をお返し致します。

どうか、この罪深い命をお赦しください……」


声を震わせながら、アナスタシアは天を仰いだ。涙と雨が頬を伝い、静かに床へと落ちる。


ネックレスのチェーンを指で絡め取り、胸元へ引き寄せた。過去の記憶とともに、祖母やヴァルの顔が浮かぶ。二人の優しさと、その笑顔――。


「おばあちゃん……教会のみんな……ヴァル……。愛しているわ――」


最後の言葉を搾り出すと、アナスタシアは目を伏せた。窓の外では雨が音を立て、灰色の空に雷が一筋走った。全ての音が消えたように感じる静寂の中、彼女はそっと液体を口に含んだ。



◇◆◇◆


「……?」


ヴァルは顔を上げた。教会の鐘の音が聞こえたような気がしたのだ。こんな夜更けに鐘が鳴るはずがない。眠れない時間過ごしながら思考が混濁して幻聴が聞こえたのだ。


気のせいか、と思った矢先につんざくような女の悲鳴が聞こえた。ヴァルは心臓がゾワっと浮き上がるような不快感さに、思わず声のする方へ駆け出した。声はアナスタシアの寝室の方からだ。嫌な予感がする。やめてくれ。お願いだ。


ヴァルが息を切らしながらアナスタシアの寝室の扉を押し開けると、目の前に広がるのは惨劇のような光景だった。


侍女が震えた様子で倒れ込んでいる。その顔は血の気が失われ、目は何かを恐れたように大きく見開かれていた。


「アナスタシア様が……アナスタシア様が……聖女様が……!」


その言葉がヴァルの胸を貫いた。心が急に重たくなり、何かが喉の奥でひっかかった。


彼の足は震えながら前に進んだ。寝室の扉を押し開けると、すぐに目に飛び込んできたのは窓辺に座るアナスタシアの姿だった。


冷たい雨が窓ガラスを濡らし、灰色の光が部屋を照らしている。窓枠に背を預け、髪は濡れたままで、か細く揺れている。


ヴァルは息を止め、足が止まる。彼の胸の中で何かが砕けた。


「アナスタシア……」


ヴァルの声が小さく揺れた。近づくと、アナスタシアの顔は死んだように無表情だった。


腕は垂れ下がり、呼吸の気配が感じられない。青白い肌が、薄い光に照らされ、息をしていることを完全にやめているかのようだった。


ヴァルが思わず手を伸ばすと、その手がアナスタシアの肩に触れた。


「……アナスタシア……?」


彼が力を込めると、アナスタシアの体は冷たく、無反応だった。その肌は氷のようにひんやりとしており、かつての温かみや生命の気配は、もうどこにも存在していなかった。


窓から入り込んだ冷たい風が、彼女の髪を揺らした。その一瞬の動きが、かすかに生きていることを示唆するかのように見えたが、すぐにそれはただの風だと悟った。


ヴァルはその姿を見て、頭の中が真っ白になった。何かを叫びたかったが、声が出ない。


アナスタシアの唇は無表情で、何の感情も表していない。ただ、雨の音と共に、何か遠く、深い絶望が広がっているかのようだった。


彼の腕が、震えながらアナスタシアを抱き上げる。


その体は細く、柔らかく、しかしもうすっかり冷たくなっていた。


「……何故……どうして……」


その問いかけが、ヴァルの心の中で絶望と共に渦巻く。答えは出ない。

ただ、彼が抱きしめるその小さな体が、過ぎ去った命の重みを静かに伝えてきた。

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