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番人の葬儀屋  作者: あじのこ
第6章 エコーズ・オブ・パスト
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中庭の願い

あの異常な場所から一刻も早く逃げ出したかった。鼻にこびりつく血の匂い、死にゆくものの断末魔……すべてを暖かい記憶で上書きしたかった。


ヴァルの心臓は胸の中で激しく跳ね、足が地面を蹴るたびに痛みが走った。彼の手は汗ばんでいて、冷えた風が服の隙間から肌を刺した。


息を切らしながら、ヴァルは全速力で倉庫へと向かった。この時間ならまだ彼女がいるかもしれない……。

倉庫に到着し、息を整えながら扉を叩いたが、返事はなかった。


「倉庫番、ア……聖女様は?」


倉庫番の顔色は冴えず、重い口調で言った。


「今日は具合が悪くて来ていらっしゃらないんだ。」


顎から垂れる汗を拭い、ヴァルは何も言わず、馬を急いで引き寄せた。何かが引っかかっていた。何かを確かめるために。彼は教会へ向かう馬の背に飛び乗った。


教会に着くと、門前で待ち構えていた僧兵たちはヴァルの顔を見るや否や、鋭い視線を向けた。

その目には疑念と警戒が浮かび、すぐに剣の柄に手をかける者さえいた。ヴァルは一瞬、周囲に緊張が走ったことを感じた。

だがすぐに、顔見知りの僧兵の一人が冷静な口調で言った。


「聖女様の侍女が来るように……」


その言葉が終わると、扉へと案内される形となった。


扉の前に立ったヴァルは、深い不安を抱えていた。


「聖女様の様子がおかしくて……!先ほど宮殿からお戻りになってから、ずっとお部屋にいらっしゃるんです」


案内してくれた世話係の侍女が憂慮を滲ませた声で話した。

その声には、何かしらの不穏な空気が漂っており、ヴァルの胸の奥に冷たい不安が突き刺さる。


顔の覆いを静かに取り、深呼吸をした。

息を整えながら、ヴァルは扉に手をかけ、心を引き締めた。


「アナスタシア……オレだ」


声を落ち着けようとしたが、自分の心の中には疑念が渦巻いていた。


ヴァルが扉をそっと開けると、アナスタシアの姿は見当たらなかった。

一瞬、驚きが胸の奥で膨らみ、慌てて部屋を見回したが、何も見つからない。

そんな時、視線の端に中庭へ通じる扉がふと目に留まった。


心臓が早鐘を打ち、ヴァルの手が自然と扉を押し開ける。

中庭に足を踏み入れた瞬間、冷たい風が肌を撫でる。

雲に覆われた頼りない太陽の光が、緑の草木を薄ぼんやりと照らしていた。

その光はどこか儚く、曖昧な明るさで、庭全体を幻想的な影に染めていた。


その中に立っていたのはアナスタシアだった。

彼女の姿は、霧がかかったように光と影に浮かび上がり、どこか夢の中のようだった。

髪は風に揺れて、灰色がかった光をまとい、まるで時間の狭間に取り残されたかのような佇まいだった。

アナスタシアの視線は、遠く、雲に隠れた空の彼方を見つめているようだった。


ヴァルは足音を殺しながら近づき、少しずつアナスタシアの背後に歩み寄った。

その姿に気づかれないよう、呼吸を整える。

「アナスタシア……」と、そっと声をかけた。


彼女の肩が微かに揺れ、ヴァルの声に反応していることを感じたが、アナスタシアはそのまま動かなかった。

雲の影が風と共に中庭を覆い、光と影のコントラストが二人の間に重い沈黙を作り出す。


「オレだ……」


ヴァルがもう一度、控えめな声で呼びかけると、アナスタシアの肩が小さく揺れ、やがてゆっくりと顔を振り向けた。

その目には何かを探しているような、不安と迷いが浮かんでいた。


「……ヴァル」


彼女の声はか細く、風に乗って消えそうなほど小さかった。

その声がヴァルの胸の中で何かを締め付けるように響いた。

目の前にいるアナスタシアの表情は、疲れ切っていて、どこか遠く、物語に取り残された一人の少女のようにも見えた。


「何があったんだ?」


ヴァルが少し間を空けて尋ねる。

アナスタシアは再び空を見上げるようにして、答えず、冷たい風に髪を揺らされていた。


アナスタシアはいつも通りを装おうとしたが、微笑みはぎこちなく、声がわずかに震えていた。


「大丈夫……何も心配いらないわ」


だがその瞳には、雲の影が揺れて涙が浮かんでいた。


言葉が詰まり、彼女の顔から涙が静かに流れ始めた。小さな一滴が頬を伝い、止まらずに流れ続ける。


「ごめんなさい……」


その声はかすれており、彼女の肩が小さく震えていた。


「いいんだ。何があったのか……話してくれ」


ヴァルはゆっくりと手を差し出し、静かに言った。


「わ、わたし最近上手く食料を増やすことができなくて……今日、宮殿に呼び出されたの。そこで……い、言われたわ」


アナスタシアは迷うように息を整えた。


ヴァルは優しくアナスタシアの背中を撫でた。彼女が話すたび、小さな背中が微かに揺れている。


「誰かが言ったわ……『増やせないのなら、腕の皮を剥いで面積を増やせばいい。そうすればより多くたくさんの食糧を増やせるだろう』って……」


アナスタシアの声がかすれて、耳に届く。


「わ、私は……」


その言葉が途切れた瞬間、心の中に浮かんだ疑念。


「私は家畜なの?」


その思いがアナスタシアを苛んだ。

だが、ヴァルは迷いなくアナスタシアを抱きしめた。彼女の身体がヴァルの胸の中で小さく震えた。先程まで対峙していたセンペルを思い出していた。そんな残虐な言葉を平気で言うような人間は奴しか思いつかなかった。


「……そんなふうに言うな。落ち着けばきっと元に戻る。少し休もう」


アナスタシアの心に、深い闇が静かに蠢いた。アナスタシアの心の中で囁くその声は優しく、どこか危険な響きがあり、ヴァルを見上げる彼女の瞳には揺らぎが浮かんだ。


「……ヴァル。私と一緒に逃げましょう?」


それは、甘い誘惑だった。

アナスタシアの声が彼の耳に届くと、まるで彼の理性をゆっくりと侵食していくようだった。


「私、おばあちゃんから薬草のこと、たくさんおそわったわ。他にも色んなものが作れる。私、手先は器用なの。王国からずーっと遠く離れた場所に逃げて……二人でお店を開きましょう?」


アナスタシアの声は、まるで優しい音色を奏でるメロディのように、ヴァルの心の奥に届いた。彼女の言葉には、確かな未来の夢と、どこか逃避行の匂いが漂っている。


「薬草で作る軟膏や香料、治療薬。畑もしましょう。私たちなら、心地よく、穏やかな日常を作れるわ。自由で、新しい暮らし……二人だけの世界で。夫婦になろう?家族を作りましょう。」


だが、ヴァルの胸の奥にはひそかに揺れる影があった。彼女の言葉が、自分の心の中の遠く儚い願望を呼び起こす。もしも自分が、そのような幸せな未来を提供できたら――家族を作ってやることができたら――


だがそれはただの夢想だった。彼の過去や、抱えている秘密が、それを許さない。


(……家族を作ってやるなんて、できるわけない……)


ヴァルは小さく呟いた。その言葉は、彼自身の心の中で静かに揺れていた。彼が思い描いた穏やかな未来の像は、決して現実にはならない。彼はその想像に、苦笑混じりに目をそらした。


「もう全部忘れて、二人で新しい未来を作りましょう?」


その言葉には、魔法のような誘惑が込められていた。


自由。新たな生活。過去の束縛から解き放たれた、二人だけの未来。家族。


アナスタシアの言葉が、ヴァルの心の迷いをすり抜け、ゆっくりと彼の理性を揺さぶる。しかし……。


「オイ、そこの奴隷兵さんよ!騎士団とそれに、奴隷商人がすぐそこまで来ているぞ!」


突如、僧兵の声が中庭に響き渡った。夢見心地な時間が、無情にも終わりを告げた。


「いまなら……いまなら匿ってやれる!早くこちらへ!」


その声に急かされ、ヴァルはアナスタシアに背中を向けた。ポツリと雨が地面を濡らした。


「行かないで。ねぇ一緒に……」


アナスタシアの声が切実で、彼の心を揺さぶる。しかし、彼は迷わず言った。


「……体が冷たい。中に入ろう」

「お願い……一緒に……」


彼女の声は小さく、かすれていた。


だが、ヴァルは答えなかった。彼は中庭を離れ、扉へと向かう足を速めた。

アナスタシアが何かを言う前に、教会外で響く荒々しい物音が二人を引き裂いた。

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