冷たさと温もりの狭間で
桶の水面に映る自分の顔が歪んで見えた。折檻の余波で顔には新たな傷ができていた。赤く滲んだ血が、水面の揺れと共に薄く広がり、その傷口が鈍く痛んだ。
ガルザックの怒りが、今なお胸の中でひどく響いている。心臓が締め付けられるような感覚があり、呼吸が乱れた。
顔にかかる水が冷たく、傷口の痛みを一層際立たせる。涙なのか、水なのか、その区別もつかない感覚が目の端を伝った。
アナスタシアの送迎がある。この傷を隠し、いつものように平然と振る舞わなければならない。その一瞬一瞬が、奴隷としての自分を改めて痛感させる。
水面から顔を上げる。傷を受けた顔が、そこにはもう一度映っていた。
◇◆◇◆
アナスタシアの送迎に向かうと、彼女は訝しむような表情を浮かべてこちらを見てきた。
その視線には明らかな疑念が込められているようだった。他の奴隷兵士たちも周囲で働きながら、何かを感じ取ったようにこちらを見ている。ヴァルはその視線に気づかないふりをして、できる限り冷静を装った。
心臓が早鐘を打ち、傷口の痛みが再び浮かび上がる気がした。だが、表情に出してはならない。仕事を進めることで、少しでも気配を消し、疑念を遠ざけるしかないのだ。
他の兵士たちがそれぞれの持ち場に戻る瞬間、突如として強い力がヴァルの腕を掴んだ。
(……っ!?)
気がつくと、ヴァルは倉庫の暗がりへと引き摺り込まれていた。目の前にはアナスタシアが立っており、その小さな瞳が不安げに揺れている。
「(あなた、またケガしているでしょ!?)」
小さな唇が静かに動き、アナスタシアの言葉がヴァルの心の中に届く。声はなるべく出さず、恐る恐るヴァルに呼びかけているようだった。その仕草に、ヴァルは自然と笑みを浮かべた。
「ふっ……」
彼女の表情には心配と優しさが入り交じり、その必死な様子がどこか微笑ましくも感じられた。だが、状況は依然として緊迫しており、笑っている場合ではない。
アナスタシアの小さな手が、ヴァルの頬に触れた。その暖かさが触れた箇所を伝い、ヴァルの皮膚をじんわりと包み込んだ。思わず反応が遅れたが、咄嗟に手を掴んだ。アナスタシアの手首を強く握ると、その動きが止まった。
「それはやめろ。」
冷たく響く声がアナスタシアの耳に届く。
ヴァルの中には、あの日のことが甦った。アナスタシアが疲労困憊しながら、自分の手をかざして、彼の腕の怪我を治そうとしていたあの日の姿。彼女の努力は優しかったが、ヴァルの心には重く響いた。傷を治すために無理をしている姿を見た時、彼の中で何かが揺らいだ。
アナスタシアは一瞬戸惑った表情を浮かべた。
「えっ……?」
ヴァルの視線が鋭く彼女を見つめる。
「お前の手で治そうとするな。いいか……?」
その冷徹な口調に、アナスタシアは何かを言いかけたが、言葉が詰まった。彼女は小さく頷く。
「わかった……」
頬を撫でるような暖かい感触が、少しずつ過ぎ去り、空気が張り詰める。アナスタシアの手首が彼の手の中から解放されると、二人の間に微妙な沈黙が生まれた。
ヴァルの表情は相変わらず冷たく、遠く何かを見つめるような眼差しのままだった。
「大丈夫だ」
小さな声で、そう告げる。
アナスタシアの表情が少し和らいだ気がした。
すると今度はアナスタシアは貝殻で出来た薬入れを取り出すと、指にとってヴァルの目元のアザに塗った。
「……これ、私のおばあちゃんから教わった怪我によく効く薬なの」
ヴァルはアナスタシアの優しさと不器用さに、言葉を失った。薬の冷たさが目元のアザに触れると、じんわりと染みて痛みが和らいだ。
「持ってきておいて良かった……効いてくれたら嬉しいわ」
アナスタシアの小さな手が優しく塗布するたび、ヴァルの心は静かに揺れた。彼女の気遣いに触れて、何かしらの重い感情が心の奥に浮かんだが、言葉にはできなかった。
「ありがとう……」
低い声でヴァルが呟いた。アナスタシアは恥ずかしそうに頬をかいた。
「ううん、いいのよ。早く治ってほしいから」
小さな笑顔が彼女の顔に浮かんだ。
彼女の存在は、ヴァルにとって見えない優しさのようなものだった。