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番人の葬儀屋  作者: あじのこ
第6章 エコーズ・オブ・パスト
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素顔

陽が昇ると、淡い朝焼けが街路を染め始めた。

ヴァルとアナスタシアは、静かに街路へと足を踏み入れた。

その先には、無残にも壊れた馬車が横たわり、無数の死体が無惨にも転がっていた。その周りには騎士団が緊張の面持ちで取り囲んでいた。

周囲には荒れた足跡が残り、何が起きたのかを物語っているようだった。


ヴァルが姿を現すと、瞬く間に騎士団が一斉に剣を構えた。緊迫した空気が街路を支配し、周囲に緊張の波が走る。


アナスタシアは素早くその間に割って入ると、冷静な口調で事の顛末を語り始めた。


騎士団の剣の動きが止まり、アナスタシアの言葉に耳を傾ける一瞬の間が訪れた。


話を聞いた騎士団長の顔には、明らかに信じられないという表情が浮かんでいた。

しかし相手は国の宝と称される「聖女」。その存在の話を簡単に無視することはできない。

結局、話は一旦、騎士団長から上官へと報告されることとなった。


アナスタシアは、僧兵たちに囲まれながら教会へと戻った。彼女を守る僧兵たちは、無言で整然とした動きを見せ、周囲の緊張を漂わせていた。その姿は、彼女がただの「聖女」ではなく、国家の宝であることを如実に物語っているかのようだった。


一方、ヴァルは兵舎へ向かい、薄暗く湿った空間に押し込められた。その場所には外の空気を遮るような重苦しい静寂が広がっていたが、壁越しには兵士たちの低い話し声や鎧の擦れる音が微かに聞こえてきた。光は乏しく、埃と汗の混じった匂いが鼻を突く。待機という名の「軟禁」。それが今のヴァルの現実だった。


だが、ヴァルは気にしていなかった。

もはやどうでも良かったのだ。自分の命には、そもそも惜しいと思えるほどの価値などない。奴隷兵士として地位を築いた今でさえ、死の境界線に立ち続ける日々に変わりはなかったのだから。


それでも、ふとした瞬間に思い出すことがある。洞窟で聞いた、アナスタシアの幼少期の話だ。確かに覚えている。無邪気でありながら、どこか哀しさを宿したあの声。その話が、なぜか心に刺さったまま抜けないのだ。彼女の言葉の中に潜む孤独が、ヴァル自身のものと重なったのかもしれない。


それに……ヴァルは頭の中で戦った暴徒たちの動きを思い出していた。


人間とは思えない動き。素手で、人間だけでなく、馬の首を切り落とすほどの力。その眼には、何かが壊れたかのような、獣のような獣性が滲んでいた。そして、その目に浮かぶのは、玉虫色を潰したような不気味な血の色。


ヴァルはそこで考えることをやめた。

考えることは彼の仕事ではない。

自分は、ただの奴隷兵士なのだ。


ただ命令にのみ従えばよいのだ……。

殺せと言われれば殺すし、死ねと言われれば死ぬしかないのだ。ヴァルの人生に選択が許されたことは一度もなかった。


しかしながら思ったよりも早く、ヴァルは解放された。それも、生きてまた太陽の日を浴びることができた。


あれほど厳しい目を向けられたにもかかわらず、お咎めなしで元の業務――アナスタシアの護衛に戻ることが許されたのだ。

その知らせを受けた瞬間も、ヴァルは微動だにせず表情を変えなかった。もともと何かを期待することも、抗うこともない生き方を選んできたからだ。


だが、周囲の反応はそうはいかなかった。

同じ兵舎に押し込められていた奴隷兵士たちは、規則により言葉を発することを禁じられている。彼らは無言のまま、冷たい視線をヴァルに向けるだけだった。その目には、羨望とも軽蔑ともつかない、得体の知れない感情が揺れているように思えた。


一方、騎士団やあるいは一部の教会の僧兵たちは違った。


「あの聖女様を手懐けるなんて、どんな手を使ったんだ?」


低く湿った嘲笑が、兵舎の出口で待ち構えていた僧兵の口から漏れた。

その言葉に他の僧兵たちも薄く笑いを浮かべ、目を細めてヴァルを値踏みするように見た。


ヴァルは足を止めず、その声をまるで耳に入っていないかのように無視して通り過ぎた。

心の奥で何かが揺れることもなければ、怒りを覚えることもなかった。ただ、自分がそこにいないかのように振る舞い、ガルザックに言われるがまま淡々とアナスタシアの待つ場所へと向かうだけであった。


倉庫の中は、薄暗い中にもどこか温かさが漂っていた。光の届かない空間に並ぶ小麦の袋は、静けさの中に淡い香ばしさを漂わせている。その中心で、アナスタシアはぽつんと1人、木箱の上に腰を掛けていた。


とても「聖女」とは思えない。

その姿は、むしろどこかの村の娘のような素朴さと安らぎを感じさせるものだった。

ヴァルが倉庫の扉を開けて入ってくると、アナスタシアは顔を上げた。その目は、陽光のような柔らかさをたたえている。


「……おかえりなさい!」


言葉とともに浮かんだ微笑みは、聖女としての威厳よりも、ひたむきな優しさが宿るものだった。


ヴァルはその笑顔を見て一瞬、歩を止めた。だが、すぐに無言のまま彼女の前まで進む。

聖女としての彼女と、この素朴な笑顔を持つ彼女。どちらが本当なのか、それともどちらも彼女なのか――ヴァルには分からなかった。

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