フロウの赤虎ートラー
山に入って少しの所で、マギーは難儀していた。
少女の前方には三匹の野犬の姿があった。低い姿勢を保ったまま唸り声をあげている。
「えー、まだ山の入口じゃん」
軽口のようにつぶやくその頬には、冷や汗が伝い落ちていた。三匹の野犬から激しく威嚇され、逃げようにも隙がない。
彼女はとても軽率に山へと分け入った。けれども本人にその自覚はない。
猟師がよく出入りする山だから大丈夫だと思っていた。
だが、猟師は十分に対策を立て、準備を整えて入るのだ。そして決して無理をしない。危ないと思えばすぐに引き返す。判断力に長け、いざというときの逃げ方もよく知っている。だから彼らは無事に帰ってこられるのだ。
猟師たちには道具があり、知識があり、心構えがある。それが彼ら自身の身を守るのだが、マギーはそれらを何ひとつとして備えていなかった。入口でつまずくのは当然である。
けれども彼女にはその自覚がない。
ジリジリと距離を縮めてくる野犬たちに気圧されて、少しずつ後ろへと後退する。だから気づかなかったのだ。すぐ後ろの地面に、木の根っこが顔を覗かせているなどと、予想もできなかった。
少女は右足の踵を引っかけて見事に尻餅をついてしまった。それを合図に野犬たちが一斉に襲いかかってくる。
マギーは反射的に両手で頭を抱えて目を閉じた。
襲いくるであろう痛みに身構える少女の前方に一陣の風が吹き過ぎる。それと同時に、犬の悲鳴が轟いた。
少女がそろりと瞼をあげると、地面に倒れ伏す野犬たちの姿が見えた。首元から血を流したまま、ぴくりとも動かない。
マギーの目の前には、野犬たちを見下ろす優美な獣が立っていた。神秘的な翡翠の瞳を持つ赤い虎毛の犬。
「きれい……」
呆然とつぶやくマギーの視線を捉えた赤毛の犬は、ため息のように息を吐きだした。
『備えもなく一人でこんな場所をうろついているとは、ずいぶんと軽率なことだ』
犬がしゃべったように聞こえた。だがそんなはずはない。少女は声の出所を探してキョロキョロと首を巡らせる。
『身軽すぎる格好を見るに、お主さては迷子だな』
謎の声はやはり目の前の犬から聞こえた。
虎毛の犬はまっすぐにこちらを見つめている。
マギーは首をかしげて、素直に尋ねた。
「あなたがしゃべってるの?」
『他に誰がいるというのだ』
「えー? だって犬は普通しゃべらないよ?」
『世の中の普通を私に押しつけるな。お主の道理が通用しない事象などいくらでもあろう』
そうきっぱりと言われてしまうと、世間知らずなマギーに反論の余地はなくなる。
「そっかー……しゃべる犬もいるんだねえ」
『ずいぶんあっさりと受け入れるものだな。まあ、面倒が減って良いことだが』
赤虎の犬は嘆息した。
「あなた、名前は何て言うの?」
『名乗る名など持ってはいない』
「えー、それじゃあ呼びづらいよ」
『なら好きに呼べばよかろう』
誰かに名を呼んでほしいなどとは思わない。面倒に感じ、赤虎はそう答えた。
「んー、じゃあねえ……」
少女は小首をかしげて考える。
「きれいな赤毛だから『赤ちゃん』にするね」
『却下だ』
「えー、好きに呼べって言ったくせに」
『赤子のように呼ばれて誰が喜ぶと思うのか。もう少しばかり、ない知恵を絞ってセンスある名を考えられんのか』
好きに呼べと言ったくせにセンスを要求するのか。少女は納得のいかない思いで赤毛の犬を見る。
「うーん。じゃあ、虎毛のトラちゃんにしよう」
『安直だが、先ほどよりは幾分ましか』
不満そうな様子で偉そうにうなずくトラ。気位の高いワンちゃんなのかな、と少女は心密かにつぶやいた。
『そんなことより、迷子であるなら集落まで送り届けてやろう』
この山の近くに小さな村がある。他に集落と呼べるものはなく、少女はその村の子供だろうとすぐに見当はついた。
しかし彼女は首を振る。
「迷子じゃないわ。この山の山頂に用があるの」
トラは眉をひそめた。
『ならば準備を整えてから出直してこい。その格好では死にに行くようなものだ』
トラが指摘するマギーの出で立ちは、小さなリュックがひとつに腰に下げた水袋がひとつ。それだけだ。おおよそ装備と呼べるものではなく、トラが無謀だと忠告するのは当然だった。十五、六歳と思われる少女の一人歩きでさえ危険だというのに。
しかしマギーは言うことをきかない。
「ちょっと行って戻ってくるだけだから大丈夫だよ」
『つい今さっき大丈夫じゃなかった奴がなにを言うか』
「心配性だなあトラちゃんは。私、昔から悪運が強いんだよ。だから大丈夫」
『悪運だと? 薄弱きわまる根拠だな。説得力の欠片もない』
押し問答していると、遠くから人の声が聞こえてきた。一人の少年がこちらへ駆け寄ってくるのが見える。
「よかった。間に合った」
息を切らせて、少年は安堵の息をもらす。
「どうしたの、マルコム。そんなに慌てて?」
少女の無自覚な問いかけに、少年は脱力して深く吐息した。
「どうもこうも、連れ戻しに来たに決まってるだろ」
気安げに話す年の近い少年少女のやりとりを見れば、二人が幼馴染みなのだと容易に想像はついた。
「一人で山に入るなんて無茶だ。おばさんが心配してたぞ。だから一緒に帰ろう」
「いやよ。緋炎草を見つけるまでは帰らない」
『緋炎草?』
「そう! どんな病も治してくれる緋炎草がこの山の山頂近くにあるって聞いたから」
「だから、その話は胡散臭いって言っただろ。そんな幻みたいな薬草が現実に存在するわけ――」
『緋炎草は実在するぞ』
「へ? マジで?」
マルコムは意表をつかれてキョトンとする。
マギーは嬉しそうに瞳を輝かせた。
『ただし、なんでも治せる万能薬というわけではない』
「そうなの?」
マギーが少しがっかりしたような面持ちで首をかしげる。
『強い魔力を帯び、その魔力がこの大陸に住む者たちの体質に合っているため薬効が高いとは言われているがな』
「それじゃあ、お祖母ちゃんの病気を治せる可能性もあるってことだよね。やっぱり取りに行かなくちゃ!」
「だからダメだって。一人で行くなんて危険だ!」
「なら、マルコムも一緒に来てよ」
「え?」
幼馴染みの無邪気な一言に、マルコムは大げさに眉を跳ねあげて驚いた。
「マルコムが一緒なら心強いし、来てくれると嬉しいんだけどなあ」
「いや。まあ……何かあれば、守ってやるつもりではいるけど……」
途端に少年がしどろもどろになって頬を染める。
なるほど惚れた弱味というやつか、とトラはひとり納得した。
『さっきも言ったはずだぞ。備えもないまま山に入るのは死にに行くようなものだと』
親切心を働かせて忠告を飛ばした直後、マルコムがクワッと目を見開いた。
「い、犬が、しゃべっ…!」
ずいぶんな時間差を置いて驚きを見せる少年の姿に、マギーとトラは間抜けに口を開いてぽかんとする。
先に立ち直ったのはトラだった。
『いや。今さらそこに気づいたのか』
「なにも言わないから、マルコムはしゃべる犬がいるって知ってるのかと思ってたんだけど、違うの?」
「イヤイヤイヤ。犬は普通しゃべらないだろ!」
「トラちゃんに普通を押しつけちゃダメなんだって」
「はあ!?」
目を白黒させて頭をかきむしる少年の姿は憐憫を誘う。テンポのよすぎるマギーとの会話に巻き込まれると、状況把握すら困難になるという見本がここにあった。
『少し落ちつけ。世の中には奇異のひとつふたつはあるものだ』
「そうだよ。素直に受け入れちゃえば不思議なことじゃなくなるよ」
「諦めれば楽になれる、みたいに言うな!」
大きく肩を揺らしながら息を吐くマルコムを、人語を解する犬は憐れむように、幼馴染みの少女は不思議そうに眺めやる。
「まあ、いいや。細かいことは……」
深く息を吐いて、少年は思考を放棄した。
「そんなことより、さっさと帰るぞ。おばさんにお前のことをお願いされてるんだ」
「緋炎草を見つけるまで帰らないもん」
マギーがぷいっと顔をそらせる。
「危険だからダメだって言ってるだろ」
「大丈夫だよ。私は悪運が強いんだから」
一歩も引く姿勢を見せない幼馴染みに先に根負けしたのはマルコムのほうだった。
「はあっ、まったく仕方ねえな……緋炎草を見つけたら、すぐ引き返すからな」
山の奥へと歩きだす幼馴染みを、マギーは嬉しそうに追いかける。
「ありがとー。だからマルコムって大好き」
「お、おう……」
顔を赤らめながら、少年は幼馴染みの手をとった。
「はぐれるなよ」
仲睦まじい少年少女の後ろ姿を、トラは諦観の眼差しで見送るのだった。
マギーとマルコムは山頂を目指して歩き続ける。その道中はとても順調といえるものではなかった。
足を踏み外して急斜面へと落ちかけたマギーを引っ張りあげる。頭上から降ってきた毛虫に驚いて飲みかけの水袋を放りだしてしまったマギーの代わりに水袋を探して草むらを掻き分ける。猟師の仕掛けた罠にうっかり嵌まったマギーを助けて傷の手当てをする。
等々、マギーが失敗をやらかす度にマルコムがそれをフォローする。
これまでの人生でも散々繰り返してきたことだ。
マギーがなにか失敗をしても、マルコムがその尻拭いをして事なきを得る。結果、少女は失敗を自覚せず、元々楽天的だった性格が増長され、反省することなく同じ過ちを繰り返す。それを少年がまた助け、悪循環の完成というわけだ。
マルコムにしても、好感を得るために彼女の失敗を無意識に期待している節がある。
この二人は最高の相性にして最悪の組み合わせというべきかもしれなかった。
これまで、そんな関係でお互いに満足できていた。
だがそれは、まだマルコムの手に負える範囲で収まっていたから幸運だったともいえる。
一度その範囲を越えてしまったとき、二人の命運はどうなるのか、それを想像できる者が周囲にはいなかった。それが最大の不幸であったと悔やむ日がこないことを祈るばかりだろう。
幼馴染みの手を引きながら、マルコムは時間の経過に気を配っていた。日が沈み始める前には引き返したい。運よく緋炎草を見つけられればいいが、見つからなかった場合は、さてどうやってマギーを説得するべきか……。
マルコムが頭を悩ませているところに、彼らは現れた。
申しわけ程度に存在する道の先から一人、左右の茂みからそれぞれ一人ずつ、背後の道から二人。合計五人の、体つきが良く柄の悪い男たちが、マギーとマルコムを取り囲んでいた。
どう見ても山賊の類いだ。五人は剣を手にしていて、下手に動けば斬り殺されることは明らかだった。
「痛い思いしたくなきゃ、おとなしくすることだ」
男の一人が剣の切っ先を二人に向けて脅しをかける。
マギーたちは言うことを聞くしかなかった。
「この辺りに山賊が巣くってるなんて聞いたこともないのに……」
マルコムが愚痴のように呟くと、男の一人がにやりとした笑みを浮かべた。
「俺たちは山賊じゃないし、ここに住み着いてるんでもないぜ。通りすがりのただの商人さ」
いかにも嘘くさい発言に少年は眉根を寄せる。しかし反論はしなかった。マルコムとマギーは後ろ手に縛られ、何かあっても碌な反撃は望めない状態だ。下手な刺激は危険すぎる。とにかく今は隙を見つけだすことが最優先だった。
おとなしく男たちに従った少年と少女は、山奥に佇む小屋へと連れてこられた。
使い古された木造の小屋に、寂れた印象はない。定期的に誰かが使っている場所のようだった。
「死にたくなけりゃおとなしくしとけよ。そうすりゃ、こっちも乱暴にはしない」
マギーたちを部屋の隅へと座らせて、二人の足を手と同様に縛り上げた自称商人の男は言う。
小屋の中には、マルコムたち以外に二人の男がいた。他の三人は仲間に少年たちを任せてどこかに行ってしまったようだった。
マギーたちと共に小屋に入った男の片方は、メンバーの中でも一際目を引く筋肉の持ち主で、いかにも力自慢といった風情だ。だがここまでの様子を見るに、一番の格下にも思えた。それを証明するように、もう片方の男の後ろに控えめに立っている。
対して、商人を自称する男のほうはメンバー内で一番小柄だが、その態度は誰よりでかい。
単純に力自慢だけで上下関係が成立しているわけでもないらしい。
態度のでかい自称商人は、軽口のように言葉を続けた。
「痛めつけすぎると商品としての価値が下がるからな。俺らとしてもそれは避けたいわけだ」
「奴隷商人だったのか……」
マルコムは納得した。
少年少女を商品として売り飛ばす闇の商売があることは知っている。合法ではないものの、国が黙認しているため、公然と取引を行っている輩も多いと聞く。倫理観の欠けた人間にとってはおいしい商売であるらしい。
「正確には、奴隷商に売り渡す商品を仕入れるのが俺らの仕事さ」
「つまり、下っぱってこと?」
小首をかしげるマギーの無邪気な問いに、マルコムはぎょっとする。彼らの怒りを買いそうな発言はマイナスにしかならない。
「ああん?」
案の定、男は不機嫌顔でドスの利いた声をだす。
「すいません。彼女、世間知らずなもので、言葉選びを間違えることがあるんすよ」
マルコムは慌てて弁解した。
「えっと、つまり、奴隷商人は取引相手で、あんたたちは商品を産みだす下請け……正確に言うと生産者ってことっすよね」
苦しいながらも幼馴染みの発言をフォローすると、男は機嫌をとり直したように下卑た笑みを浮かべる。
「生産者ね。確かにそういう言い方もできる。農家が畑に種を植えるように、俺たちは種を蒔いて獲物が引っかかるのを待つ。罠にかけるって意味では、猟師のほうが近いかもしれんがな。狩る獲物が人間ってだけのことだ」
自慢げに語る男の話に、聞き流せない言葉があった。
「罠?」
「そう。罠だ」
マルコムのつぶやきに気分を良くした男は、歌うように声を弾ませた。
「ここの小屋を利用してる猟師にちょいと脅しをかけたら、親切に教えてくれたぜ。病気のお祖母ちゃんを心配する心優しい少女がいるってな」
「じゃあ、はじめからマギー目当てで待ち伏せしてたのか……」
やはり緋炎草の話はデタラメだったのだ。そう予想できていたのに、のこのことここまで来てしまった。何がなんでも彼女を止めるべきだったのに……。
悔しさで歯噛みするマルコムを男は楽しそうに見下ろした。
「緋炎草の噂をばら蒔いたら、狙い通りに嬢ちゃんが罠にかかってくれた。明るくて純真素直ないい子って話は本当だったな」
男の言葉にマルコムはかちんとくる。マギーの性格をあげつらった男は言いたいのだ。バカ単純で扱いやすい都合のいい子供だと。
幼馴染みをバカにされたのはもちろんのこと、そんな理由でマギーが狙われたという事実にも腹が立った。
「悔しそうだな、坊主。だが人の世ってのは、汚いことを平気でやれる人間こそが、楽に生きられるようにできてんだよ」
「そんなの嘘だよ」
反論したのはマギーだった。
「悪いことしたら必ず天罰がくだるんだから。あなたたちは決して幸せになんかなれないよ」
自分たちを拉致している相手に歯向かうなんて危険きわまりない。どうしていつも無邪気に危険へと飛び込んでしまうのか、とはらはらしながら心臓を縮めるマルコムの予想に反して、男は楽しげに口角をつりあげた。
「生憎と、嬢ちゃんが感じる幸せと俺らが考える幸せは違うんだよ。世の中が、てめえの理だけで動いてるとは思わないほうがいいぜ」
マギーは口を嗣ぐんだ。赤い虎毛の犬、トラに言われた『お主の普通を押しつけるな』という言葉を思いだしたからだ。自分の世間知らずを指摘されているような気分になって、反論の言葉は水泡のように消えてしまった。
その様子にひとまずほっとしながらも、マルコムは幼馴染みに倣って口を閉ざした。下手に話を続けて余計な薮蛇になることを恐れたのである。
「ちょいと一服してくるわ。お前はしっかりとこいつら見張っとけよ」
少年少女が押し黙ったせいで興が削がれた様子の男は、もう一人の男に子守りを押しつけて小屋を出ていった。
残された筋肉太りの男は、面白くもなさそうにマギーたちの見張りを続ける。立っていることに疲れたのか、途中から椅子に座り卓に片手で頬杖をついて、少年たちに鬱々とした視線を向けていた。
変化が起きたのはそれから程なくのことだった。見張り役の筋肉男がうつらうつらと船をこぎ始めたのである。
会話もないまま手足を縛られた子供を見張り続けるのは、緊張感が刺激されない退屈な作業であるようだった。
少しうとうとしてから、はっと気を引きしめ直す。最初のうちは頑張っていたそれも、徐々にうとうとする時間が長くなっていく。
チャンスだ、とマルコムは思った。
眠そうに目をこする男の様子を盗み見ながら、慎重に行動を開始する。ズボンのポケットに忍ばせておいた小型のナイフを取りだして、自分の手を縛る縄の切断にとりかかった。
ナイフがあるとはいっても、後ろ手に縛られている状態では、縄を切るのも簡単ではない。手元が見えないから手探りでやるしかなく、何回か自分の腕を切りつけてしまった。
「……っつ!」
縄を完全に断ち切った瞬間、反動のついたナイフが暴れて、皮膚に深い傷をつくった。思わず声がもれてしまい、ひやりとして見張りの男を見るが、幸いにもすっかり眠りこけていて、気づかれることはなかった。
ふうっ、と安堵の息をつく。
「大丈夫?」
さすがにマギーも状況が分かっているらしく、小声で心配してくれた。
「ああ、大丈夫だ。お前の縄も切るから、じっとしてろ」
じわりと血のにじむ腕に痛みを覚えながらも、マルコムは幼馴染みの縄を外す作業を優先する。
二人分の手足を解放したあと、腰に下げた小さなポーチから、薬草と細長い布きれをとりだした。マギーのリュックは奴らに取りあげてられてしまったが、これは小さすぎて見逃されたのが幸いだった。
傷口に薬草を塗りつけ細長の布きれで剥がれ落ちないように縛る。
「マルコムってやっぱりすごいね」
感心した様子でマギーが褒めるが、喜ぶ気にはなれなかった。
元々ポーチはうっかりの多いマギーがいつ怪我をしても大丈夫なようにと持ち歩いていたものだし、ナイフをポケットに入れていたのもたまたまでしかない。
それも運よく男たちが見落としてくれたから使えただけだ。そうでなければ打つ手もなく、ただ売られる時を待つだけだったろう。
それを想像して、マルコムはぞっとする。
無事に帰ることができたら、今度こそ幼馴染みにきつく言い含めなければ、と決意して立ち上がる。
「逃げるぞ」
とにかく今は男たちの手から逃れるのが先だ。
マギーに手を伸ばすと、彼女も神妙にうなずいてその手をとった。
卓に突っ伏して寝息をたてる男を起こさないように足を忍ばせて、二人は小屋の入口へと移動する。
小屋から出る前に、扉のすぐ横にある窓から、マルコムはそっと外の様子を窺った。
そこから見る限りでは、周囲に誰の姿もないようだった。
扉に手をかけ慎重に押し開ける。
「お出掛けかい?」
声は扉を半ばまで開けたところで聞こえてきた。
扉のすぐ横にある窓の下。一服しにいくと出ていったはずの男が、壁に背を預けてこちらを見ていた。小屋の内部から窓を覗いても見ることができない死角に、自称商人の男は悠然と座っていたのである。
マルコムたちが驚いて動きを停止させた瞬間、木々の間から他の男たちも姿を現した。
まずい、と思うと同時に、マルコムは少女の手を引っ張って走りだしていた。
「走れ!」
足をもつれさせるマギーに指示を飛ばしながら、右方向へと駆ける。
自称商人の男がいるのとは逆の方向。加えてマギーたちをとり囲むように三方から出てきた男たちは互いに離れた位置にいる。完全に包囲される前に駆け抜ければ、男の一人をかわすだけで逃げられるかもしれない。
瞬時に下した判断は的確なものだったろう。すぐさま実行に移す決断力と勇気も大したものだ。だがそれも、男をかわせるだけの身体能力があってのものだった。
マルコムは男に接触する寸前で、右手に握ったナイフを振るう。それで男を牽制して怯んだ隙にその横を通り抜けられれば、と願った。だが願いはむなしく打ち砕かれる。
目の前の男は怯むどころか逆に一歩踏みだして、素早くマルコムの右手首を捕まえた。そのまま手首を捻りあげ、少年の悲鳴が上がる。
右手からナイフがこぼれ落ち、同時にマギーの手も放してしまった。
「マルコムっ!」
叫んで幼馴染みに駆け寄ろうとした少女を、別の男が後ろから捕まえる。
少年たちは再び小屋へと戻されてしまった。
「起きろ! 見張りもまともにできないのか、お前は!」
男の一人が小屋に入るなり居眠り中の男を叩き起こす。仲間に怒られて首をすくめる筋肉太りの男は、誰よりも大きな体を縮めて項垂れた。
その様子を後目に、商人を自称する男がマルコムに笑いかける。
「ダメだな、坊主。人の目を盗むなら、もっと周囲には気を配らねえとなあ。縄脱け作業が窓からバッチリ見えてたぜ」
マルコムは驚愕すると同時に己の迂闊さを呪った。あの時、見張りの男にばかり気をとられて、窓から覗かれる可能性は考えてもいなかった。
そもそもマルコムたちを窓から見える位置に座らせたこと自体、仕組まれたものだったのかもしれない。
だがそうであるならば、わざと監視の目を緩めた意味はなんだろうか。彼らに何のメリットがあるというのか。
少年が瞳に浮かべる疑惑の色を愉快そうに眺めながら、男は鼻をならした。
「反抗的な商品は価値がさがる。奴隷ってのはもっと従順で受動的じゃなきゃ高くは売れない。この意味が分かるか、坊主?」
「希望を奪って諦めさせるために、わざと泳がせたのか……」
「ご名答だ。状況が揃っても逃げようとしない腰抜けならそれでよし。逃げだそうとする反抗心が残ってるなら、無駄な努力と分からせる。それで大抵のやつはおとなしくなる」
今になっても強気に男を睨みつけるマルコムの姿に、なぜか笑みを深くして自称商人は言葉を続けた。
「だが、お前はまだくじけてねえ。しかも、そこそこに頭が回りやがる。そういうヤツは商品に向かない。なら残った利用法はひとつだけだ」
ずいぶんと饒舌だな、と訝るマルコムに男は背を向けて、マギーのほうを見る。
少年と少女はそれぞれ男の一人に後ろから体をがっちり抑えられた状態で向かい合わせに立たされていた。
「嬢ちゃんの目にもまだ輝きがあるな。坊主がなんとかしてくれるって希望を捨てきれてない目だ」
もちろんマギーもまだ諦めていない。マルコムが一緒なら大丈夫だと、経験則による信頼があるからだ。
男が含み笑う。
「なら、この坊主が死んだらどうなるかな?」
マルコムとマギーは揃って愕然と目を見開いた。
「何する気?」
「何って、嬢ちゃんが想像している通りのことだよ」
マルコムから奪ったナイフを見せびらかすように持ち上げ、そのままピタリと少年の首筋に押し当てる。
「やめて……」
マギーは震える声で懇願した。
「おとなしくする……言われた通りにするから、やめて……」
男はほくそ笑んだ。
「まだ、希望の光が消えてねえな」
言うが早いか、ナイフを持つ手を翻す。
マルコムの首筋から血飛沫がとんだ。
マギーの息を詰める気配が伝わってくる。驚愕する顔には恐怖心とともに傷ついたような色が浮かんでいた。男が舌の回転力をあげたのはこれが狙いだったのだと悟った。
マルコムの存在がマギーの安心に繋がっている、というマギーの依存性を指摘しつつ、視点をそこに固定した上で、マルコムを殺して見せる。それによってマギーの罪悪感を刺激し、希望とともに反抗心を削りとる。
商人を自称するだけあって、思った以上に狡猾な男だ。そうと気づいたときには、マルコムの意識は混濁していた。
霞む視界のなかでマギーに向かって手を伸ばそうとするが、体が思う通りに動いているのかも、もう分からない。
「マ…ギ……」
逃げてくれ――その願いを最後に、少年の思考は停止した。
「……っ……っ……!」
浅い呼吸が繰り返される。
マギーの目の前で幼馴染みの体がゆっくりと傾いていき、ごとりと床に倒れ伏した。首から流れ出る血が床に小さな池を作り、つんと鉄錆のようなにおいが鼻先をかすめる。
マルコムは目を見開いたまま動かない。瞳からはすでに光が失われていた。
目の前で人が死んだ。しかもその死は自分が原因となっている。二重のショックが、少女から言葉を奪っていた。悲鳴すらも、喉の奥で滞留して出てこない。
目の焦点が合わなくなった少女の姿に、自称商人の男は満足げな笑みを浮かべた。
マギーの軽率さがマルコムを死へと追いやった事実。それは一面の真実ではあっても、事実の全てではない。だが男がそこに焦点をあてたことで、少女の肥大化した罪悪感がその精神を極限まで衰弱させた。
ここまでくれば、彼女の心は男の手中に落ちたも同然だった。
「取引の日まで、しっかり見張っておけよ」
仲間たちに命令して背を向ける。
態度のでかさが表すように、男はメンバーのリーダー的存在だった。本来なら烏合の衆にすぎない盗賊どもをまとめ上げ、安定した収入を確保し、部下たちを養うことでトップとして君臨し続ける。
自分の手腕には自信があり、仲間たちもそれを認めているから素直に従うのだ。
「なあ、アニキ……この女、味見しちゃダメなのか?」
小屋の入口に向かうリーダーに男の一人が声をかける。
「未経験の女は初物好きの変態どもが喜んで高値をつけるからな。価値をさげるような勿体ないことはできねえ……我慢しろ」
睨みを利かせると、男たちは一様にしゅんと盛り下がる。
「でもよ、アニキ。ちょっといじくるくらいならいいんじゃねえか?」
別の男が諦めきれずに反論を試みる。さらにもう一人の男もそれに乗っかってきた。
「そうだよ。ここんところご無沙汰だったんだぜ……我慢しろってのは酷な話じゃねえか」
やれやれ、とリーダーの男は内心で吐息する。
単純バカどもは粗暴で我慢が利かないから困る。たかだか数週間おあずけを食ってるだけでこれなのだから、面倒なものだ。
とはいえ、頭ごなしに押さえつけても逆効果になるのは目に見えている。
「仕方ねえな……最後の一線だけは越えるなよ」
「さすがアニキ。話がわかる」
男たちは歓声をあげて、少女をとり囲んだ。
意思をなくしたように呆然と身動きしないマギーの胸元に男の手が伸びる。
突風が起こったのは次の瞬間だった。
「……ってぇ!」
どこからか吹き込んだ強烈な風に男たちは体勢を崩される。さらに、マギーを背後から拘束していた男は、腕を傷つけられて悲鳴をあげた。
「なんだっ!?」
突然のことに混乱する男たちを更なる悲劇が襲う。
「ぎゃっ!」
腕を負傷した男が再び悲鳴をあげ、全員の視線がそちらへと集まる。
男たちは驚愕した。
つい先刻まで少女を拘束していた仲間が、首から血を流して倒れている。すでに絶命していた。
そのすぐ脇には、窓から豪快に侵入してきた赤い虎毛の犬が仁王立ちし、口元から鋭い牙を覗かせている。
翡翠の瞳を持つ優美な獣は、喉を噛みきられた男の遺体を右前足で踏みつけた。その姿は男たちを馬鹿にして睥睨するような横柄さを醸している。
「このワンころ! 何しやがる!」
かっとなって男の一人が叫ぶが、それもすぐに悲鳴へと変わった。
赤虎の犬が吠えた瞬間、男たちの体が炎に包まれたのである。
炎に巻かれた男たちのなかに、犬が魔法を使ったのだと気づける者はいなかった。ただ燃え盛る炎に抗うこともできず、絶叫を放ちながら地獄の熱さに正気を奪われていくだけだった。
男たちの阿鼻叫喚も長くは続かない。トラが魔法で生みだした超高温の炎は、男たちの命をわずか数秒で削りとった。
『大丈夫か?』
邪魔者を排除したトラは後ろを振り返ってマギーに声をかける。
少女はしばらく放心したようにぴくりとも動かなかったが、やがてトラに視線を移して口を開けた。
「……そい……」
ぼそりと呟いたあと、トラを睨みつけて叫ぶ。
「遅いよ!」
トラが訝しむように首をかしげる。その姿はマギーの不快さを増幅させた。
「来るならもっと早く来てよ! マルコムが死んじゃったのに、今さら――」
『少年が死んだのは私のせいではない』
マギーの言葉を遮って、トラはきっぱりと言いきった。
焼け焦げて横たわる男たちの死体から、炎が床や椅子へと徐々に移りつつあるなか、トラはひどく冷めた視線をマギーに向けている。
『私は何度も警告したぞ。備えもなく山に入るのは危険だと』
「でも、心配してくれるのならついてきてくれたって……」
『心配したつもりなどない。一般常識として忠告してやっただけだ』
どこまでも他人事といわんばかりの坦々とした口調のトラに薄情さを感じ、マギーは少しむきになった。
「それは……ちょっと冷たくない?」
しかし、やはりトラからの返しはそっけない。
『知らんな。私はお主の友人ではない。知人と呼べる存在ですらない。ましてや、用心棒として雇われた覚えもない。ついていってやる道理はどこにもなかろう』
「でも――」
『誰かのせいにできれば楽か?』
「――っ!」
唐突に核心を突かれて、マギーはひきつった息を吐きだした。
『今お主を責め立てているのは幼馴染みを死なせたことへの罪悪感――だから自分のせいではないという免罪符を欲している』
「そんなこと……」
ない、とは言いきれなかった。だがトラの正しさを認めたくもなかった。
『最初に私が助けたときも、お主は命の危機にあった。だが、助かったという結果のみを重視し、私の警告を無視したのではなかったのか? 忠告を素直に聞いて引き返していれば、少年は死なずに済んだ。その事実は動かしがたく、お主は罪を免れん』
マギーは思わず耳を塞いでトラから目を背けた。けれども、トラの声を遮断することができない。なぜかは分からないが、耳を塞いでなおトラの声は明瞭に聞こえてくるのだ。
「違う……違う……」
『では、お主の心を少し軽くしてやろうか』
必死に否定の言葉を吐きだすマギーに、赤毛の犬は方向を転換してきた。
どういうつもりだろう、とマギーは思わず耳から両手を放してトラを見る。
『道徳心の欠けた男どもがたまたまこの地を訪れ、脅された猟師がお主のことを話してしまい、それに基づいて男どもが悪事を働いた。それがそもそもの原因だった。お主はあくまで被害者で、少年は運悪く巻き込まれてしまっただけ。だからお主に非はない』
それは一方面から見た真実であり、マギーが求めた言葉でもある。なのに少女の心は晴れなかった。胸の奥をチクリチクリと突き刺す感情が邪魔をする。
炎が少しずつ小屋のなかに広がっていき、マギーの肌をチリチリと刺激した。
『どうした? お主の望む答えを提示してやったというのに、なぜ未だに泣きそうな顔をしている? 嬉しくないのか?』
トラは意地悪く問いかけた。
俯くマギーの足元にパタタと数滴の雫が落ちる。汗が流れ落ちたのだと思った。しかし直後に視界が歪み、落ちたのが自分の涙だと気づく。
「うっ……ふ…うっ……」
マギーの口から嗚咽が漏れる。
膝から崩れ落ちるように座り込み、両手で顔を覆って少女は泣いた。
『己の過ちを自覚しているなら、言葉を飾って誤魔化したところで気休めにもなるまい』
男たちがつまらない画策をしなければ。猟師が男たちにマギーのことを話さなければ。マルコムがもっと強くマギーを引き止めていれば。
今の結果を招いた原因はひとつではない。しかしだからといって、悲劇を生んだ責任が分散されるわけでもなく、罪悪感は当人が持つ良心に比例して重くなる。
マギーにも分かっていた。どう正当化しようとも、この後悔はなくならない。現実から目を背けてトラに八つ当たりしても、自分の罪は消えないのだ。
浅はかな行動によってマルコムを死に追いやった罪悪感は、生き続ける限りつきまとう。
感情を見せずに坦々と事実を並べ立てるトラが憎らしくもあり、一方でその正しさを認めずにはいられなかった。
『お主が選ぶ道は二つある』
泣き崩れるマギーを見下ろして、やはりトラは無感動に言うのだ。
『罪悪感とともに生きるか、今ここで死ぬか。好きなほうを選べ』
シンプルな二者択一を提示して、トラは小屋の入口へと向かう。
『前者を選ぶなら、私が集落まで送り届けてやる。タイムリミットはこの小屋が焼け落ちるまでだ』
そう言い残して、赤虎の犬は出ていった。
小屋の中にとり残されたマギーは、いよいよ激しさを増す炎を呆然と眺める。
かくんと力なく降ろした手にぴちゃりと何かがあたった。見下ろすと、小さな血だまりがマギーの指を濡らしている。マルコムの血だった。
マルコムの体はまだ炎に巻かれてはいなかった。
マギーは腕を伸ばして、そろりと幼馴染みの髪の毛に触れる。
何気ない日常のなかで、将来はマルコムのお嫁さんになるんだろう、と漠然と思っていた。マルコムがいない世界で生きていく自分を想像できない。
日常は脆くも崩れさり、夢見た未来は儚い幻となってマギーの手からこぼれ落ちる。少女の胸には空虚な絶望だけが渦巻いていた。
マギーは、目を見開いたまま動かないマルコムの頭部を抱き寄せる。少年の体が温かいのはまだ体温が残っているからなのか、それとも燃え盛る炎のせいなのか、マギーには分からない。
「あはっ……あはは……あははははははっ……」
ぼろぼろと涙をこぼしながら、少女は高らかに笑う。手遅れになるまで過ちに気づけなかった自分の浅はかさを嘲笑うように、その声は悲しく響き続けた……。
陽が沈もうとしている。赤く染まった夕陽が山林へと射し込んでいた。
空気が湿っているのを感じる。トラが起こした炎は、じきに雨が消してくれるだろう。
焼け落ちようとしている小屋を、トラはひとり翡翠の瞳に映し出していた。脱出可能な時間が過ぎても、炎の中から少女が現れることはなかった。
やがてトラは黙祷するように目を閉じる。
少女の選択を否定するつもりはない。
この先を生きるのであれば、それは過酷な日々となっていただろう。
幼馴染みを死なせた罪の意識。それは確実に少女の心を苦しめる。村の人間からも優しくしてもらえるかは分からない。マルコムの両親にどれだけ罵倒されても文句は言えない。
針のむしろで肩身狭く生きる未来は容易に想像できた。それでも辛い日々を乗り越えれば、その先には幸せに生きる未来もあるかもしれない。
マギーはその可能性を捨て、死の安らぎを選んだ。
マルコムの気持ちに対して彼女なりに責任をとろうとしたのかもしれないし、ただ逃げたかっただけなのかもしれない。
どちらにしても、彼女の選択を頭ごなしに否定する権利はない。だからトラは深く干渉しなかった。
どちらを選んでも同じくらい辛いのだ。ならば本人の意思に委ねるのが最も道理に適っているだろう。
宝石を思わせる翡翠の瞳が、感情を映して揺れ動くことはなかった。
人の生の終局はこれまでに幾度も目にしてきた。その中にはもっと悲惨な結末もある。そこに新たな一例が加わるだけのこと。
トラは特別な感傷もなく、燃え盛る山小屋に背を向ける。
トラの旅が終わることはない。
新たな放浪地を求めて、赤い虎毛の犬は山林を駆け抜けていくのであった。
~ 終 ~
読んでくださってありがとうございます。
初の短編挑戦です。
都合よくヒーローはやってこない、というお話。
ラストはちょっと辛めの展開になってしまいましたが、「これが私!」というのは出せたと思います。
次はお気楽に明るい内容で書いてみたいですね(≧◡≦)