承_2
くるくるくる…という謎の音で、クリスはようやく目を覚ました。
ソファに寝そべったクリスは、半ばソファからはみ出すような形で、それに抱きついていた。それはほのかに甘いような香りがして、抱きつくと人肌のような温もりを返してくる。抱き枕にするように横顔を押し当てると、人のお腹のような弾力と温度、そして朝食前の腹の虫のような音が聞こえる。
くるくるくる…。全ての情報を総合して、クリスは信じられない気持ちで恐る恐る上方を見やる。
そこには、寝ぼけたクリスに抱きしめられ、感情の死んだ目をしているリンダがいた。
「ウワーッ!?」
状況を理解できず、クリスはリンダを開放して驚きのままソファの上に立ち上がった。リンダは相変わらず無表情でクリスを見上げている。
「え…いつから…!?」
「…1時間前」
壁掛け時計を見た。10時12分。
ええ〜、と言いながらクリスは長い脚を折ってしゃがみ、ソファの上でリンダと目を合わせた。
「起こしてくれて良かったのに…!」
「見てたから」
「見てたって…何を?」
「クリスを。あなたのことが解らなかったから」
リンダは少しのズレもない目線でクリスの目を見た。クリスはその目線を受け、小さく違和感を感じたが、それを留めることはしなかった。
クリスはリンダの金の柔髪を手で梳きながら、努めて穏やかな声色で言った。
「解ろうとしてくれてありがとう。あなたから歩み寄ってくれて嬉しいよ。でも、解るためには話す必要がある。私も上手い方ではないけど、それが必要だってことは知ってるんだ」
だから次は起こしてね、そう言うとクリスはソファから降り立って伸びを一つする。
傍らで返事を返さぬまま不思議そうに見上げてくるリンダに向けて、クリスはこう提案した。
「じゃ、朝ご飯にしようか」
その単語を聞いた途端、感情に乏しかったリンダの目がみるみる嫌そうに細まり、顔面は渋い顔を形作った。
………
どうやらリンダ・マッケンブリッジには解離性障害に近い症状があるらしい。
「まあむあじゃない?」
フードを目深に被ったリンダが、バゲットサンドを頬張りながら言った。フードによって彼女の触覚──一対の赤い跳ねっ毛は抑えられている。服は人目を引くリンダの赤い入れ墨を隠すためにベーカリーに来る前に買ったものだ。ブランドは天下のユニクロである。
香ばしい小麦の香りが漂っている。ロンドンに複数店舗、イギリス国内に100以上の店を構えるこのベーカリーは、チェーン店ながらロンドンの市民の愛すべきいつもの味であり、斯く言うクリスもよく訪れる店だった。
リンダが外食にしようと言って聞かなかったので(それはもうすごい剣幕だった)、彼女らは店でブランチを取ることにしていた。
「お気に召したようで、何より」
言いながら、クリスはハム&チーズクロワッサンを頬張る。クロワッサンにハムとベシャメルソース、ブリティッシュチーズをサンドしたもので、クロワッサンの軽やかな口溶けとチーズとソースの濃厚な旨味が、起き抜けの身体にスイッチを入れてくれる。
自分の顔と同じくらいの長さのあるバゲットサンドと格闘するリンダを眺めながら、クリスは一足先に食べ終わって昨日のことと今朝のことを思い出す。
…昨日の最初の方のリンダと、今日の朝のリンダは似ている。無表情に近い、陰に傾いた状態だ。それと比べて、風呂に入れた時や夕食時なんかは、今の陽に傾いた性格と言えるだろうか。
どの時点でもグラデーションは存在するものの、躁鬱のようにタイミングによって性格が2極化していることは間違いないように思える。
このことについて、リンダ自身に直接問うことは得策ではないとクリスは考えていた。成り行きで始まった共同生活を不安定なものにしたくなかったし、彼女の精神と肉体の安寧を保つことはエクソシストの仕事の延長だと思ったからだ。突っ込んだ話をするためには、もっと彼女のことを知らなければならない。
クリスがリンダをじっと見つめていると、リンダは少しムッとした表情でフードの端を引き下ろし、昨日クリスに散々に切られてしまった前髪を隠した。
「…なに?そんなにジロジロ見ないで。まだ前髪のこと許してないから」
「それに関してはごめん。君のことを見てたのは、リンダのことをもっと知りたいと思ったからだよ」
クリスが今朝のことを踏まえてそう言ってみると、リンダは不思議そうに片眉を吊り上げて、クリスを見た。
「よく分かんないけど、見てるだけで何かわかるの?」
「………。いや、そうだね、君の言う通りだ。互いのことを知るために、私達は話すべきだ」
まさにこれなのだ、とクリスは話を合わせながら思った。今朝のことを覚えていない。正確には覚えているのだろうが、参照していないというのが正しいだろうか。クリスは改めて、目の前の金髪の少女が抱える問題の大きさを確認する。どうしたものか───そう黙考していると、リンダがますます怪訝な顔でクリスを覗き込んでいるのが見えた。
「話すべきだって言いながら黙んないでよ…食べ終わって暇なら、自分の面白い話でもしてよ。私のことを知りたいなら、まず自分のことを話すべきじゃない?」
私聞いとくから、と言いバゲットサンドとの格闘に戻るリンダ。その様子にクリスは苦笑する。必要以上に気を使っても仕方ないのかもしれない、せめて彼女に誠実に接するのが、私の今できることなのだろう。そう結論づけて、クリスはちょっと無礼なお嬢様の要望通り、自分の話を始めた。
「私には師匠がいてね。私が前の職場を追われて途方に暮れていたころ──」
店員が睨むのも構わず、そうして彼女らは長い間話し込んだ。リンダはやはり身の上話はあまりしたがらなかったので、結局リンダ・マッケンブリッジ、つまりシャルロット・クロチルド・ボナパルトがどうして名を変えて孤児院に住んでいたのかは分からなかった。けれど、モンブランが好きなのだとか、イカ料理が苦手なのだとか、クリスが知らなかったリンダ自身についてのことを多く話した。
クリスの身の上話はリンダにとっては突拍子もないもので、リンダは噛みつくように突っ込んだが、それと同じくらい、リンダは笑っていた。