序_3
焦げ臭い匂いがする。
クリス・カラスの寝室は、リビングとは打って変わって整っていて、ベッド以外の物の少ない部屋だ。その暗い部屋の隅で、私は床に丸まっている。
歯を食いしばっていた。頭が割れるように痛いからだ。
クリス・カラスに手ひどく洗われたからではない。目覚めた時からずっと、耐え難い痛みに晒されていた。
浅く息を継ぐ。増してきた痛みが、聴覚をぼやけさせているのに、無音の爆音をずっと押し付けられているような、いや、これは内側から響いているのか?
匂いだけが鮮明に、不快感を上乗せする。あの教会も、同じような匂いがした。
どうしたらいいの?
聞きたくない。喋りたくない。考えたくない。
どこに帰ればいいの?
目を閉じているのに、誰かと目が合っている。
何が起こっているの?
あなたはどうしたいの?私はどうしたいの?私たちは、何に成ればいいの?
ガチャリ、と扉の開く音だけが耳に入った。
………
「リンダ〜…ご飯を食べよ──うわッ!」
部屋着に着替えたクリスは、飛んできた枕に驚いて尻もちをついた。枕はクリスの顔に見事にヒットし、その拍子にクリスが両手に持っていた皿はひっくり返って、黒焦げのサンドイッチは床に落ちてしまっていた。
顔に張り付いた枕を引っ剥がすと、クリスはその枕に不自然に引き裂かれた跡があることに気づいた。枕を2つに引きちぎってしまうかのような傷。
それを怪訝そうに見て、リンダに目を移すと、
「リンダ!!」
クリスは枕を捨ててうずくまるリンダに駆け寄った。
「リンダ、どこか痛む!?気分がおかしいの!?」
両耳を塞いで苦しげに唸るリンダ。枕を投げる際にぶつけたのか、右の人差し指の爪が割れて血が滲んでしまっている。
リンダの肩を抱きかかえると、クリスはジーンズのポケットから御札を取り出してリンダに無理やり握らせる。その途端に、線が抜けたようにリンダは唸りを止め、大きく息を吸って、息を吐いた。
気遣いながらクリスが口を開くが、
「リンダ」
「私、」
さえぎるようにリンダが言った。
「私、何にも…何者にも、なりたくないの」
クリスは再び、己の見当違いを恨んでいた。
彼女は賢く強かだ。だから何なんだ?名も知らないだろう大人たちに連れ去られ、恐ろしい儀式の犠牲にされかけた少女が、平気なわけがあるだろうか?
うつむくリンダの顔は横髪に遮られて見えない。それでも、ぱた、ぱた、と雫が、握らせた御札に落ちて滲みを作っていくのが見えた。
クリスの表情が銃に撃たれたかのように苦しい表情に変わる。クリスはリンダを抱き寄せると、未だ乾ききらない彼女の髪を撫でながら言った。
「もう大丈夫だよ、リンダ。何にもならなくていい。何者でもないものでいいんだ」
クリスの腕の中でリンダはわずかに目を見開く。その内に、金の輝きがきらめく。
クリスには結局、リンダに何があったのかはわからない。わからないけれど、彼女自身の経験と共感で、かけるべき言葉を概算することはできた。リンダの表情はクリスには見えなかったが、少しでもこの計算がリンダの慰めになっていることを祈った。
そして彼女は、現在の話をした。
「何者でもなくても、リンダ・マッケンブリッジはここに居ていい。テレビを観てもいいし、風呂だって何時でも入っていい。だから、」
クリスは抱きしめていたリンダを放すと肩に手を置く。静かに涙を零していたリンダの目には、金の輝きとクリスの金髪が、重なり合って映っていた。
「今はご飯を食べよう。上手じゃないけど、食べられなくはないからさ」
………
時刻はもう夜に差し掛かっていて、窓の外では落ちていった日の残滓がかろうじて空を紫に保っている。
珍しく晴れたロンドンの街並みを、次々に点火する街灯が照らす。天井階のクリスの部屋はそれらを見下ろせる位置にあり、バルコニーに繋がる窓からは、紫色の空とロンドンに建ち並ぶ古びた建築が丁度二分になって見える。
ふらつく電球がテーブルの上を照らして、テーブルを挟む二人の表情を明るみに出していた。サンドイッチを頬張るクリスの顔はすました様子だったが、リンダの顔はというと、苦虫を噛み潰したようだった。クリスの手料理──黒焦げのサンドイッチを無理やり食べ進めながら、リンダは目の前のそれを作った女を恨みがましく見ている。
クリスはサンドイッチ2つを軽く食べ終わると(先程落としたものだ。リンダの分は新しく作った)、ジーンズのポケットからタバコを取り出して、リンダが居ることを思い出してそれを再度ポケットに突っ込んだ。
触るものが無くなった右手を所在無さげにテーブルの下にしまって、クリスはリンダの様子を伺い見る。
「…食べられなくは、ないよね?」
リンダは牛乳でサンドイッチの最後のひとかけを飲み下しているところだった。
リンダはコップを置くと、細く長く息を吐いた。
「ギリッギリ…食べ物としてギリッギリのライン。もうしばらくは、クリスの手料理は絶対食べたくない」
その宣言に、クリスは「あはは…」と苦笑いする。いつの間にかリンダはクリスのことを名前で呼ぶようになっていた。
「料理だけはどうもね…計算じゃどうにもならないみたいで」
リンダはクリスが自己紹介で計算が得意だと言っていたことを思い出す。
「…料理は化学だ、ってお父様が言ってた。化学なら計算できるんじゃないの?」
クリスはそのリンダの台詞の内にあった"お父様"という単語を聞き逃さなかったが、特に追求することはしなかった。
「だとしても、私に料理は難しい。なにせ、計算して目指すべき解がわからないから」
解がなければ逆算することはできない…と困り顔でクリスは呟く。リンダは怪訝そうな顔をして、少し考えた。そして気づく。
「それって、めちゃくちゃな味音痴ってことなんじゃ…」
黒焦げのサンドイッチをペロリと平らげたクリスの姿を思い出して、リンダは納得した素振りを見せる。クリスには笑って誤魔化すことしかできなかった。
………
クリスはいいと言ったが、リンダは皿を洗うと言って聞かなかった。
リンダが皿と、山のような牛乳瓶を片付けている音が聞こえる。クリスはそれを聞きながら、居心地の悪さを感じつつスマートフォンを触っていた。
唐突に、クリスのスマートフォンが通知音を鳴らす。画面をつけずにいじっていたスマートフォンの画面が明るくなり、メールの送り主がリー・J・キンダーマンであることを知らせる。クリスはこれを待っていた。
「………」
クリスはリンダを盗み見る。リンダは牛乳瓶と格闘中で自分の方を見ていないことを確認すると、メールを静かに開いた。
"例の少女の身元について"
"まず初めに警告する、その少女の身柄を可能な限り早く我々に引き渡したほうが良い。今の状態の彼女は、政治的に爆弾に近い"
"彼女の元いた場所についても簡単に調べがついた。仏国のアーク孤児院。それだけならまだ良い──いや良くはないんだが、彼女の名前にもっと問題がある"
"登録されている氏名、リンダ・マッケンブリッジだが、この記録には幾つか怪しい箇所があった"
"調べたところ、この名前は偽名だということがわかった。孤児院に入った時期の記録も改竄されている"
クリスはリンダに気づかれないように息を吸った。最悪の想定と、その衝撃に耐えるために。
"彼女の本当の名前は、シャルロット・クロチルド・ボナパルト。殺されたジェローム・アルベール・ボナパルトの一人娘、ボナパルト家のご令嬢だ"
Noah_2017
https://ncode.syosetu.com/n6722gp/2/
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