序_2
ぶかぶかのシャツとパンツを脱ぎ捨てると、クリスが言っていた通りに体に赤い帯が刻まれていた。脱衣所(ここも物がいっぱいだ)の鏡に映る自分の体は、まるで赤い鎖に縛られているようだった。
呼吸が浅くなっていくのが感じられる。腕の赤帯を指の腹でこすってみる。少しも取れる気配はない。
「なんなの、これ…」
呼吸が浅くなっていくのが感じられる。爪で引っ掻いてみてもダメだ。
「…ッ、なんなの、これっ…!」
呼吸が浅くなって
「さあ風呂だ!!」
「うぎゃーっ!!」
脱衣所のドアが勢いよく開け放たれて、一糸まとわぬクリスが踊るようになだれ込んできた。小脇には先程部屋から掘り出してきたシャンプーの類が抱えられている。リンダは飛び上がって驚き、危うく転げかけて洗面台にしがみついていた。
「なななに普通に入ってきているの!?鍵は掛けたのに…!」
「ここの鍵はだいぶ前に壊れてそのまんま!そんなことよりさあ風呂だ!風呂に入ろう、すぐ入ろう!」
クリスの異様なテンションの上がりようにリンダは目を白黒させている。エクソシスト、クリス・カラスは、無類の風呂好きであった。しかも日本式の。japonais
浴室のドアを開け、クリスはリンダの手を掴み中へ連れ込もうとする。リンダは身をよじって体を隠そうとしながら、引き込まれまいと耐えていた。足を踏ん張って、投げつけるように言う。
「どうして、一緒に、入らないと、いけないの!?私、そんなに、子供じゃ、ない…!!」
「どうして、って…落とすんだろう?その赤いの。一人じゃ無理だと思うけど」
リンダはしばらく”むむむむむ…”などと唸っていたが、とうとう観念したのか背中を丸めるようにして浴室へと入った。シャワーと浴槽は備えられていたがそこまで広い浴室ではなく、リンダが目を上げると、至近距離にクリスの上裸と顔があった。
耐えられなくなったのか、リンダはクリスに背を向けてしゃがみ込んでしまう。
「ありえない…信じられない…恥を知らないのかな…」
「なんて言い方するんだ、風呂は裸がドレスコードだよ」
黄色のプラスチック製の桶(ケロリンという文字が印刷されている)でお湯を浴びせられ、リンダは”ぶわーっ!!”と叫んだ。
………
結論から言うと、体の赤い帯は落ちなかった。
クリスがどのシャンプー、ボディソープを使っても、まるで入れ墨のようにリンダの肌に残り続けた。髪も同様、その部分だけ染めたようになっていた。
リンダはオーバーサイズのパーカーを着込み、湿った髪もそのままに、むすっとしてソファに座っていた。赤い帯が落ちなかったのもあるだろうが、クリスに荒々しく頭を洗われたり、タオルで肌を死ぬほど擦られる度に”ぬわーっ”だの”んぎゃーっ”だのと叫び倒した疲れもあるのかもしれない。一方クリスは風呂上がりの鼻歌交じりで、また何かを部屋から掘り出そうとしているらしかった。
「…クリス・カラス。そろそろ上に何か着てほしいのだけど」
呼びかけられ顔を上げたクリスの格好は、下着を一枚履いているのみ、上には何も着ておらず髪を拭いていたタオルが首に掛けられているだけであった。片手には冷蔵庫から引っ張り出された牛乳の瓶をぶらさげている。
「ああ…確かに。すまないね、いつもは風呂上がりこの格好なもので。あと、クリスでいいよ。呼び方なんてなんだっていいんだけど」
首に掛かったタオルを洗濯物の山に丸めて投げると、適当に見繕ったTシャツを上から被る。髪が短いおかげか、クリスの髪は既にあらかた乾いているようだった。すでに飲みきっていた牛乳瓶は併設されているキッチンのシンクに並べ(同じ瓶が山程並んでいる)、新しいタオルを出してきて、クリスはだんまりのリンダのところへ向かう。
「あ〜あ〜、パーカーが濡れちゃうよ…子供じゃないんじゃなかったの、お嬢様」
言うとともに、不意打ちめいてリンダの後ろからタオルを被せる。リンダはびくりとしたが、叫ぶようなことはなく、そのままクリスに髪を揉まれるがままになっていた。リンダの毛髪は元来少しくせっ毛だったようで、水に濡れるとそのくせが強まるのか、毛先があちらこちらに跳びはねている。そうしてしばらく髪の湿気を取ると、クリスはタオルを投げ捨て、先程部屋から発掘しておいた鈍色に光るモノを手に取る。
手櫛で髪の流れを整えながら、クリスは確かめるようにリンダの髪を眺める。
「…うん。私の計算によれば、ここでの角度の最適解は12度だね」
「?」
リンダがその角度がなんのことかを聞く前に、クリスは手に持ったハサミでリンダの前髪をばっさりと切り落とした。
「…え?」
クリスの手は止まることなく、軽快なリズムで恐ろしい鈍色の刃はリンダの眉上を通過していく。
「…え……??」
ジョキン!と高らかに最後の髪束を分断し、仕事を終わらせたハサミは満足げにリンダの視界から消える。
「……えぇ………!?!?」
リンダはバネのようにソファから跳ね起き、己の前髪を確かめる。膝からハラハラと、無情にも切り取られた赤い前髪が散っていった。その赤い毛を見てクリスは何やら納得げに頷く。彼女はどうやら、赤く染まってしまった髪の毛をカットして対処しようと考えているらしい。
走らないギリギリの速度の速歩きで、リンダは洗面台に向かい、そしてそこで自分の姿を目の当たりにして、絶句する。
「………………………」
きれいに切り揃えられていたはずの前髪は、見るも無惨に刈り散らかされて、元来のくせっ毛も相まって好き勝手な方向へ身をひねっている。その上、特に短くなった二束が重力に逆らい、何か触角めいて存在を主張しているのだ。しかも狙ったかのように切り損ねられた、赤く染まっている毛束が。
クリスは鏡の前で絶句するリンダを後ろから覗き込んでその前髪の状態を確認し、ううむと唸り、とても言いづらそうにフォローする。
「ほら、洗っても落ちなかったけどさ、肌はどうしようもないけど髪は切ったらいいと思わない?また生えるし…」
リンダは前髪を抑えながらゆっくりと振り返る。その涙目は、今までで一番の恨みがこもっていた。クリスはかろうじて笑みを返すが、もはや引きつりすぎて笑みとは呼べないような代物だ。
「で、でもさ、元がいいから…その前髪も似合ってると思
「似合ってたまるかぁーっ!!!」
そう言い放つとリンダはクリスを押しのけ部屋を速歩きで横切ると、その先にもう一つある部屋に入って扉を荒々しく閉じてしまった。
(そこ、私の寝室なんだけどな…)
心の強いことと、思春期の女子が髪型を気にすることとは、また話が違ってくるのかもしれない。クリスは己の見当違いを恨んだ。