序_1
頭の中で声が響いた。
『お前は誰だ?』
私は返した。
『私は誰だ?』
………
昏睡めいた睡眠から徐々に脳みそが浮かび上がるのがわかる。意識の輪郭がゆっくりと定められて、鼻で息を吸ったその瞬間、不快な酸っぱい匂いにぐんッと意識レベルを上げさせられる。
「…!!」
横向きにソファに寝転がる自分の身体を認識する。同時に、口に溜まっている胃酸と半固形のなにかも。
「………ォおぇ……」
どうやら寝ゲロしかけだった身体を傾け、顔をソファから出して床に向かって吐く。
床の一点を見つめながら、クリス・カラスは無理やり脳を回転させる。自分の状態を確認する。
廃教会の件から運転し続け、途中でリーを降ろしてこの賃貸の一部屋にたどり着いたのが明け方だった。そのまま疲れに身を任せ、ソファに倒れ込むようにして眠りについた。そして、人を殺したのは初めてのことだった。
回した脳が勝手に提示してきた事実に、じわりと湧き上がる吐き気を理性で抑えた。自分ではわかっていなかったが、どうやら精神的にも多少の負荷が掛かっていたらしい。
昨晩、クリスは初めて人を殺した。悪魔に取り憑かれた人間は、特定の手段によって悪魔を取り除くことができる。だが昨晩の廃教会での大立ち回りでは、一人ひとりを取り押さえる暇はなかった。そのことをキチンと理解して、自分で選択して、引き金を引いたつもりだったのだが。
自分の弱いところが露呈したように感じ、不機嫌そうに眉をひそめながら、のそりと彼女は起き上がる。黒く染められた白衣はソファの背に引っかかっている。自らの足元に広がる臭い水たまりをどうにかすべく、彼女は自身の広いが散らかった部屋を眺める。引っ越してきた時にモップを買ったような気がしていた。だが、クリスの部屋の散らかりようではすぐには見つかりそうになかった。
ぐるりと見渡して目につくのは、洗濯物の山、整備机、棚に鎮座する貰い物の置物、鉄材、部屋の隅でしゃがみ込んでこちらの様子を伺う少女、スーツケース、何だって?
崩れて目に被っていたくすんだ金の前髪をかきあげて、クリスは困惑し、その数瞬後に気がついた。
「…そうか。私が連れて帰ってきたんだったね」
少女はその言葉にしばらく黙り、記憶を思い返しているようだった。年齢は十代半ばぐらいだろうか。うつむく彼女の白い肌には、彼女自身は気づいていないようだが、赤い帯状の模様が縦横に巡っている。そのうちに諦めたのか、少女はその聡明そうな瞳をクリスに向けた。
サイズの合わないシャツ一枚を着た少女は怯えた様子ではなく、ただ疑問と、怪しみと、少しの心配を含めて、こう言った。
「あなたは、誰?」
………
モップをバケツに突っ込んで、さて、とクリスは振り返った。
「掃除も終わったことだし、改めて自己紹介しようかな」
ソファ(クリスが吐いたところではない場所)に小さく体育座りで、少女は頷く。シャツ一枚の他に細身のパンツを履いていたが、それも丈が余って足首辺りで布が渋滞している。その華奢な腰まで伸びた髪はきれいに切り揃えられ、窓からの日光に照らされ眩しいほどの金の光沢を放っていた。しかし肌同様に、黄金のカーテンをところどころ赤黒い帯が縦横に汚していた。
クリスはその儀式の名残をチラと見て、この少女が経験した悪夢のことを思った。けれど決して顔には出さない。少女はクリスに目を向けて、クリスが話し出すのを待っている。ひとまず悪魔の手から逃れたばかりの少女に、クリスはつらい思い出を思い起こさせたくなかった。少女は眉根を寄せて”どうして話し出さないのか?”といった顔をし、直後に「どうして話し出さないの?」と言った。
「え?ああ、いや…ごめん、ちょっと考え事をね…」
誤魔化すように咳払いをするクリス。どうやら彼女が思っているより、少女は強かなようだった。
改めてクリスは自己紹介を始める。
「私はクリス・カラス。生まれはイギリス、特技は計算、仕事は──クビになったから、今はエクソシストかな」
ニッ、と不器用に笑ってみせるクリス。
何となく不審なものを見る目つきで少女はクリスを睨む。クリスの笑みは段々と崩れていく。
少女は腕で足を引き寄せながら問う。
「エクソシスト?という仕事でお金は貰えるの?」
「貰えないね。だから今はリーって男に生活費を出してもらってる」
少女の目つきが鋭くなった。
「あ…リーはね、前に悪魔から助けたやつなんだ。それにMI6に所属しててお金持ってるし、だから…」
少女の目つきがさらに鋭くなった。
「あいや、何も別に君からお金取ろうってわけじゃないよ…!」
少女の目つきはもはや威嚇する猫のようになり、今にもシャーとでも言わんばかりの様子になってしまった。
クリスは軽く刈り上げられた後頭部に手をやると、諦めたようにため息をつく。自分の弁解は、一度棚に上げることにしたようだった。
クリスはしゃがみ、威嚇する少女と目線を合わせる。
「君の名前は?」
問われた少女は一度まばたきして、ふと考え込むように自分の足先を見つめる。
「リンダ…マッケンブリッジ。リンダでいい」
しっかりと目を合わせて少女は答えた。その目線を受け止めて、クリスは一瞬だけ考える。
(これは、偽名だな)
信用がないのだから致し方ない、とクリスは割り切った。行方不明者照合をしているリーからの連絡で判明するかもしれないし、そのうち自分で教えてくれるかもしれない。なんならクリスとしては、呼べる名前があれば別にずっと偽名でも構わなかった。
(それにしても…まっすぐ目を見て嘘をつけるなんて、この子は相当強い子なんだろうな)
クリスはそっと手を伸ばして少女の頭をぽんぽんと軽く叩いた。少女はびくりとするが、手を払いのけるようなことはしなかった。
「そっか、リンダか。教えてくれてありがとう、リンダ」
クリスは再びニッと笑ってみせる。リンダはクリスに敵意がないことを感じ取ったのか、はたまたクリスの不器用な笑い方が面白かったのか、少しだけ笑みをこぼした。
クリスは立ち上がって、散らかった部屋でなにかを探しながら続けてリンダに聞く。
「お家はどこかな?」
リンダは黙って首を横に振る。
「ご両親は?」
リンダは黙って首を横に振る。
「そっか」
クリスはそれ以上聞かず、散らかった部屋をさらに散らかした状態でリンダの前に戻ってきた。腕にはボトルやらなにやらが山程抱えられている。
「じゃあ、風呂に入ろっか!」
クリスの腕に抱えられていたのは、タオルと数々のシャンプー、コンディショナー、ボディソープだった。