氷の国の第一王子②
カツン。
靴底の尖った音が鳴る。
カルディアはそれにすら怯え、身体を固めたまま、オスカーから視線を外せないでいた。
オスカーはゆっくり。カルディアの方へ近づいて、ピタリ。止まった。
無意識に、エリオットの手をぎう、と強く握っていた。
エリオットはチョット痛がって、カルディアの様子が変であることに気付くと、首を傾げた。
どうしたんだろう。
エリオットの幼い頭ではちっとも分からなかった。
「ア!エリオット様!オスカー様!」
「ヴィ―!」
「……」
冷えた空間に、乱れた息と慌てた声が差す。階上からエリオットの護衛が顔を出していて、次のときには駆けていた。
「お探ししましたよ、エリオット様。どこに隠れていらっしゃったのですか?」
「かくれてないよ。にげてた」
「ハハッ。そうでしたか。それは見つからないわけですね。オスカー様も見つけるのに、苦労なさっていましたよ」
「……ああ」
「オスカーいっちゃう?ぼくまだあそびたい」
「エリオット様。オスカー様はお客様ですから、困らせてはなりませんよ」
「わかってる、けど……」
「碧の王子」
「?」
「私はしばらくここにいる。明日にでもまた来ればよかろう」
「!ウン!」
ヴィ―という青年のせいだろうか。
カルディアはさっきまでの、恐ろしく冷たい空気を感じていなかった。むしろ、パーティ会場で話しているのと同じような空気。ただ会話が、チョット素っ気なくて、幼いだけの。
いつのまにか。カルディアはエリオットの手を放していた。
「これは!ハロルド・ケイス卿、カルディア様。ご挨拶が遅れて申し訳ありません」
「こんばんは。ヴィクトル・イコラージュ卿」
カルディアはそこで初めて、護衛の青年がヴィクトルという名前であることを知った。ヴィ―は、彼の愛称である。
ハロルドが挨拶をしながら、流れる水のごとく、しゃがんでいたカルディアを支えて立ち上がらせる。カルディアはよく分からないまま、それに身を任せるのであった。
彼女は理解が追いついていなかった。
オスカーが突然現れたこと。
エリオットが「オスカー」と呼んで、何だか懐いているように見えること。
それに、エリオットだけでなく、ヴィクトルもオスカーを前にしても平然としていること。
恐ろしい空間はどこへいったのか。そして、今のこの空気は何なのか。
はたしてオスカーはここまで怯える存在なのか。
こうなってくると、カルディアはついに夢を疑った。夢は所詮、夢なのではないだろうか。
はじめから私の勘違いだった……?
それなら、私は無駄に怖がって、周りを振り回しただけ……。
とんだキチガイだと思った。
こんなことが社交界に広まりでもしたら。カルディアは想像する。
自分の話を信じて行動してくれた優しい人たち。ハロルドたちも気が触れたのだと思われかねない。それだけは避けたかった。
だからカルディアは、無理をして、夢のことを忘れた。
誰にも気づかれないように、深呼吸をひとつ。
いつもの強い瞳をつくる。その真っ直ぐな目でオスカーを貫くように見た。
彼女は、目の前にいるオスカーに怯えることをやめ、未来を恐れることもやめたのである。
オスカーは目を細めてぼんやりどこかを見ていたが、視線に気づいてちいさな女を捉える。
女の姿を見とめると、わずかに瞳孔が開いて、それから何かを言おうとして口を薄く開けた。
しかし、声になる前に、別の騎士に呼ばれてしまったので、エリオットに短く挨拶をしてからその場を去った。
「っはあああぁぁ~」
「!」
カルディアはズルズルと、淑女らしさなく床に座り込んだ。ずっと張っていた緊張が解け、腰が抜けたのである。
ハロルドはクス。と笑って、彼女を横抱きにした。
「ケ、ケイス卿!」
「何だか吹っ切れたようだね」
「……そうかしら」
「ああ。でも、今日はこのまま帰るのをお勧めするよ」
「私もそう思うわ。腰が抜けたのははじめてよ」
カルディアは少女の笑顔を見せた。宮殿のシャンデリアよりも眩しい笑顔を見て、ハロルドは絵画だと思った。
それから、その絵画の違和感に気づく。
「カルディア、頭に……」
「エ」
頭を指摘されて、優しく髪の毛に触れる。左耳の上に、ヒヤリ。冷たくて硬い感触があった。
髪飾りのようだが、来るときは着けていなかったものである。なんだろう……。
気になってその飾りをチョンチョンと触っていると、ヴィクトルが感嘆を漏らした。
「おお。美しいですね」
「!これが何かご存じですの?」
「はい、もちろんです。こちらは魔法でつくられた“アイスラーク”というものですよ。現在は氷の国にいる数名だけが精製できる逸品で、オスカー様もそのうちの一人だと聞いております。見た目や用途は様々なようですが、今回、カルディア様に贈られたものは、花のようですね」
「……」
「おそらく、オスカー様がカルディア様のデビューを祝福なさったのでしょう」
カルディアはヴィクトルの言葉を聞いて、目を丸くした。
氷の国の第一王子が?贈った?私を祝福して?
彼女はオスカーのことが完全に分からなくなっていた。そもそも、オスカーに会ったのはこれが最初なのであるが、如何せん。あの夢が強烈であったから、彼女のなかではスッカリ、オスカーは怯える対象になっていた。
しかし。はじめこそ恐れて見ていたけれど、さっきは、他と変わらずに見ることができた。マア、それは腰が抜けるくらい気を張っていたから、といえるのであるが……。
カルディアはハロルドに抱えられながら、ちいさな王子に別れの挨拶をした。それから、行きと違う馬車に乗って、男爵邸に向かう。
道中、カルディアはハロルドに謝った。
「ケイス卿、あの。さっき話したこと、忘れてくれませんか」
「……夢のこと?」
「ええ。冷静に考えたら、何だか馬鹿らしくって」
「カルディアがそうしてほしいなら、聞かなかったことにするよ」
「ありがとう。そうしてください」
「……でも」
「?」
「私は、その夢はあながち間違いじゃないと思ってしまうな」
「どうして?」
「ンー。カルディアが素敵な女性だから?」
「もう。冗談はやめて。答えになってないわ」
「ククッ。この上なく最適な回答だと思うけど?」
「あら。私だったら、0点にするわね」
ハロルドはカラカラ笑って、カルディアはウフフと笑った。
ケイス卿……。ありがとう。
自然に笑えていることにホッとして、心の中でお礼を言う。直接言うのは恥ずかしかった。
「カルディア」
「なあに?」
「もし。本当に望まない人と結婚することになったら……」
「ケイス卿とは結婚しないわ」
「そう言うと思った」
ペロッと舌を出して、いたずらっ子の顔をするのを見て、ハロルドは眉を下げて息を吐いた。お手上げのサインである。
カタンカタン。馬車の揺れは心地よく、カルディアは窓の外をチラと覗く。街の明かりは点々として、淡く優しい光だと思った。
屋敷までの道のりはずいぶんと穏やかであった。
「カルディア様、デビューおめでとうございます」
「ありがとうございます、マンドリク先生」
社交界デビューパーティの翌日。
カルディアはいつもと変わらずな朝を過ごしていた。書斎にやって来たマンドリクと挨拶を交わすと、中に進んで椅子に腰かける。
しかし。机にはいつも積まれているはずの本が置いていなかったから、マンドリクは首を傾げた。本の代わりに、水の入っていない花瓶に一輪の透き通る花が挿されていた。これは……。
「今日は、アッサムティーでいいかしら?」
「恐れ入ります。お嬢様にこうしてお淹れしてもらうのは、いつもながら、たいへんに忍びなく思います」
「あら。とんでもないわ!だって、この茶葉は私が作ったものだし、それに先生と私は共に毒見役ですよ?もしかしたら、私が先生のことを死なせてしまうかもしれないのだから、お礼は必要ないわ」
「そういうことでしたら、ありがたく頂戴いたします」
「そうしてください」
このやり取りも何回目だろうか。マンドリクは曖昧に数える。以前、彼は自分が入れると言ったことがあった。しかし、カルディアは「紅茶を淹れるのは私と相場が決まっていますの」と論理性のないことを言って、強引に淹れたのである。彼女は頑固な性格だから、引いてはくれないだろうと、早々に判断したマンドリクは、申し訳ないなどと口だけで言いながら、カルディアの厚意に甘えることにしたのだ。
上手に淹れてくれたアッサムティーを口に運んで、マンドリクはカルディアを薄く見た。
「さて。本日はいかがいたしましょう」
「先生は、私が訊きたいことをお気づきでしょうに」
「いえ。確信がございませんので」
「ふふ。それじゃあ……こちらが何か。ご存じですか?」
マンドリクは机上で指を組み、例の花を見る。チョット考えてから、すぐに顔をあげたが、無言だった。ただカルディアを射抜くように見ている。
彼女は強い瞳でゆっくり頷いた。答えを知っているという意味を込めて。
それを察したマンドリクが、躊躇いながらも「アイスラークでしょう」と言った。
カルディアは、やっぱり。と思って、話を始める。
「昨日のパーティで、オスカー殿下にお会いしました」
「氷の国の第一王子、ですか」
「ええ、その通りです。それで、直接見たわけではないので確証はないのですけれど。このアイスラークの花は、オスカー殿下が私に贈ってくださったようなのです」
「ほう。それは……」
なんとも……。
マンドリクは最後まで言わずに濁して、カルディアをチラと見た。
カルディアもマンドリクを見ていたので、自然と視線は合わさり、静寂が数秒。それから、カルディアが話を進めた。
「それで、マンドリク先生には、まず。このアイスラークについて教えてほしいですわ」
「……」
「ガネーシャ・ド・ルノアの生チョコレート」
「アイスラークは氷の国の隠れた至宝と言われております」
マンドリクは甘党であった。最近のお気に入りは、王室にも仕出している、“ガネーシャ・ド・ルノア”という店の生チョコレート。彼から直接聞いたわけではないが、彼曰く、それは毒であり、禁断の果実そのものだそうで。まるで恋人を愛するように、そのお菓子に狂っていた。
カルディアも前に、次女のバレットが買ってきてくれたので、食べたことはあった。マア、たしかに美味しかった。でも、マンドリクの気持ちは分からない。カルディアは塩やスパイスで味付けた肉の塊の方が好きであったから。
何だか安いわ(チョコレートは安くはないけど)。と思いながら、気を取り直してマンドリクの話を聞く。
「アイスラークは普通の人間がつくることは不可能です。なぜなら、これは魔法でのみ精製できるものでございますから」
「ええ。実はそこまでは私も知っているの。氷の国にいる何人かしかつくれない、貴重なものなのでしょう?しかも、その一人がオスカー殿下だとか」
「……カルディア様。誰にアイスラークのことを聞いたのかは、存じ上げませんが、これは国家機密に近い代物でございます」
「エ」
「アイスラークの存在は、くれぐれも他言無用でお願いいたします」
「え、ええ。分かりました」
マンドリクは吊り目の顔をグイ、とカルディアに近づけて真剣に言う。彼女はその様子に気圧されて、コクリコクリ。人形のように何度も頷いた。
何だかイケナイことを聞いてしまったのだと、チョットだけ胸がざわざわした。
「カルディア様は、アイスラークについて大方のことをご存じのようですので、これ以上説明する必要はないかと」
「っ!……どうして?」
「私は、お嬢様の身を案じているのです」
「……」
そう言われてしまえば、彼女は黙ってしまう。アイスラークについて知ったことは、自分の身を危うくするのだと、賢い少女は早くに理解した。
これ以上、しつこく聞いても無駄ね。
カルディアは諦めて、息を吐いた。
「マンドリク先生が、私を大事に思ってくださっていることがよく分かりました」
「ええ。大事なお嬢様でございます」
「……それじゃあ先生は、このお花。何だと思いますか?たぶん、ユリだと思うのですが」
「そうですね、ユリの花で間違いないでしょう。もっと言えば、カサブランカではないかと思います」
「カサブランカ……」
カルディアとマンドリクの視線が、アイスラークの花に向く。ガラスみたいに透き通るそれは、光を吸い込んで、オーロラを切り取って入れたように、内側で何層もの光が波打っている。その不思議な花は、ユリ――カサブランカの形をしていた。
「カサブランカは祝福の意味がございます」
「そうね。きっとその花言葉があるから、第一王子は贈ってくださったのね」
「それもありましょうが」
「ン?ほかに何かあるんですか?」
「……はい。虹の国にはなくて、氷の国に伝わるものがございます」
「エ」
「“再会”です」
カルディアは口を開けたまま固まった。氷の国にのみ通用する意味があったのかと、びっくりしたのである。
再会……。
カルディアは考える。また会う、と意味かしら。第一王子は、私とまた会うと思っているの?
オスカーの意図するところは、考えても分からない。それでも彼女は、気になって考えてしまうのだ。そういう性分である。
アイスラークの花を見つめるカルディアを、マンドリクは不安な気持ちで見た。
彼は、カサブランカの花言葉をひとつ隠していた。氷の国に伝わるその花言葉は、二つ。そのひとつが、“再会”であり、もうひとつは――。
“死”。
しかし。マンドリクも、オスカーの意図は分からない。もしかしたら、深い意味はなくて、ただ“祝福”を込めただけかもしれない。
でも、もしも……。
胸の内に、モクモクと湧きあがる灰色の煙を抑えて、マンドリクは純粋な少女が、幸せであることを願った。