社交界デビュー
虹の国の、中心都市にもっとも近い森。
誰でも立ち入ることができるこの森は、歩きやすい程度に、元の自然の景観を壊さないように補整されていた。おかげで木々はその偉大さを保ち、動物たちは怯えることなくくらしている。人々は何ともなしにフラッと森へやって来ては、ベンチや広場で寄り合って、会話と豊かな自然を楽しむ。ゆえに「憩いの森」と呼ばれていた。
カルディアもよく憩いの森へ乗馬ついでに来ていた。そして今朝も。
しかし。いつもは一人か、厩の息子を連れてくるのだが、この日は違っていた。
「おはよう。可愛らしいウサギさん」
「ケイス卿。そんなことを言っていると、野生のウサギは怯えて逃げてしまいますよ」
「おや。それでは、私がそのウサギを飼って、優しく教えて差し上げましょう。人間は怖くない、と」
「あら、それはできないことよ?だってそのウサギは、あなたに飼われるくらいなら、ライオンに食べられたいと思っているのだから」
「カルディアはウサギのお気持ちがよくお分かりで」
「お褒めにあずかり光栄ですわ」
二人は互いの馬に跨ったまま、大笑いするではなく、息の抜ける静かな笑みを交わした。この応酬を彼らなりに愉しんでいるのである。
カルディアとハロルドは王宮の薔薇園で会ってから、何度か交流があった。
最初は城下の果物屋で。その次は、国立の図書館。それからカルディアの家を訪れ、彼女の馬を見たり、乗ったり。最近は星の美しい湖で二人は会って、話をした。
それは偶然であるといえばそうだと言えるし、工作されたものであるといえばそうとも言える。
始まりはカルディアにとって記憶に苦いものであるが、カルディアもハロルドも、一回っきりの短い交流じゃ満足できなかったのであった。だから、こうして会っている。彼らは図らずも、よき友人になっていた。
カルディアは、会話を重ねるうちにハロルドのことを知った。歳は二十で、ケイス侯爵家の養子。元は炎の国にいて、火の魔法が得意だという。カルディアは魔法が使えなかったから、それを聞いたとき、無邪気に「見せて」とねだった。しかし、すぐにア。と思って謝った。ハロルドはそんな彼女を見て、困ったように優しく笑むと、掌にちいさな炎を出してくれたのであった。カルディアはそれを見て「きれい……」と幼く笑った。
ハロルドはいつも優しかった。会うたびカルディアを揶揄ってはいるけれど、それは彼女の反応が可愛いから。挨拶みたいなものである。
「今思えば、初めの薔薇園で、ケイス卿が突然現れたのは、魔法があったからなのね」
「そうだね。もっと言えば、私はずっと姿を消して、カルディアとエリオット殿下のお側にいたんだよ」
「エ。どうして?」
「ンー。面白いと思ったから、かな」
ハロルドは、森を抜ける白い光の線を上から下へ。目で追って、そのまま瞼を伏せた。朝の匂いは冷たくて、彼のミントの声と同じだった。
「王宮で思い出したけど、カルディアは今年がデビューだったね」
「ええ。昨年デビューする予定だったんだけれど、チョット都合が悪くてできなかったの」
「ククッ。大方、あなたが脱走でもしたのではないかい。ウサギさん?」
「当たり」
悪びれもせず、ニヤリ。カルディアは笑った。
去年の今頃。大事な社交界デビューの日を目前にして。彼女はあろうことか、仲の良い漁師の漁船に乗って、海に出たのである。「ケイボルボウを獲ってきます」という走り書きを残して。帰って来たのは、その一か月後だった。
「それで。ケイボルボウは獲れた?」
「ええ!博物館の剥製よりも大きかったわ!」
カルディアは興奮に鼻息を荒げて、捕獲の感動を揚々と語る。ハロルドはその様を見て、可愛いなと思った。
ケイボルボウは虹の国でも稀少な魚だったので、カルディアたち一行は獲った後、キチンと海へ帰した。彼女は「幻の魚」と呼ばれるケイボルボウを見ることができただけでも、昇天するほどに嬉しかった。
去年の感動に耽っていると、右の頬にちいさな痛みを感じた。ハロルドがカルディアの右頬を引っ張っていたのである。「あにすうの(何するの)」と訊けば、何も返ってこない。ただ、ニコと笑っているだけ。それからカルディアは「はなして」と睨めば、彼はマジックを終えたようにパッと手を放した。痛かった……。
「王室からパーティの招待状は届いた?」
「ええ、届いたわ。それにオマケも一緒に」
「オマケ?」
「王妃殿下が私に素敵なドレスを送ってくださったの」
「へえ、それを着て社交界デビューするというわけだ。今から楽しみだな」
「ハァ……気が重いわ。きっと身体も重い」
はたして。招待状がオマケなのか、ドレスがオマケなのか。カルディアにはちっとも分からなかった。
来たるパーティを思ってみては、憂鬱になる。
パーティなんて疲れるだけだわ。
溜息をまたひとつ。温い息は冷たい空気に溶け、消えていった。
「カルディア様……お身体が優れませんように見えますが」
「だ、大丈夫よ。気にしないで。ア。顔を洗うから、ぬるま湯を持ってきてちょうだいね」
「かしこまりました。ただいま」
メイドのミシェルは礼をして退室した。
男爵家の使用人は鋭い。カルディアは「平気よ」と言うけれど、実のところ。あんまり平気ではなかった。
しかしそれは体調ではなく、いわば調子であり、気分である。
この前の悪夢――氷漬けにされるという夢を、また見たからだ。
前に見たものと内容は同じ。氷の国の王子様と結婚して、側室になって。些細な過ちによって、氷漬けにされる。
ただ。今度のは、チョットだけ鮮明であったから、余計気分が悪かった。
カルディアは、喉に張り付く粘ついた唾液を水で流した。
エリオット殿下やケイス卿に会ってから忘れていたけれど、私はこのままじゃ氷漬けにされて死んでしまうのだわ。
奥歯をぎう、と噛みこむ。恐怖の感情と、この未来に抗おうとする意思の表れであった。
ミシェルが洗面道具を持って、他数名のメイドも連れて、カルディアの部屋に戻ってきた。カルディアは嫌な汗ごと顔を洗うと、化粧を施される。それから、苦手なコルセットと格闘して、王妃からもらったドレスに身を包む。彼女の瞳と同じ、ピスタチオグリーンの控えめなイヤリングを垂らし、胸元にはつぶらな石が散りばめられたネックレスを掛けた。
「……」
姿見の前に立つカルディアは、呆けてしまった。メイドたちも安い賛辞を並べず、息を吐くのみだった。
その愛らしさは、いっそうのもので。姉や兄たちが見れば、鉄の檻に閉じ込めてしまいそうなくらいである。
上質なドレスは、花が綻ぶように、まあるく広がりをつくっている。ところどころに見えるリボンの装飾はどれもレース生地でできていて、光に透けるともっと美しくなった。
デビュタントはみな、白いドレスを着るのだが、カルディアのものは同じ白でも、一等白く。月光を思わせる眩さがあった。
ふわふわのドレスを着たカルディアは、何だか走り出したくなった。しかし、今日は大事な日。
またボイコットするわけにはいかないのである。
「お嬢様。僭越ながら……デビュー、おめでとうございます」
「……ありがとう」
ミシェルの言葉に、カルディアは泣きそうな少女の顔をして、立派な淑女の礼をした。
満月であった。雲ひとつない空に、星がチカチカ。輝いている。
ジムニー男爵が男爵夫人を、ティンダムがカルディアをエスコートし、四人は王宮の舞踏会会場に踏み入った。
騎士に案内されて、はじめに謁見の間へ向かう。
「ジムニー男爵家より。三女、カルディア・ジムニー嬢が謁見にございます」
騎士が大仰な扉の前にピシリと立つと、扉がゆっくり開いていく。そうして、空気を引き締める声を張りあげて、そう告げた。
カルディアは扉が開き切らないうちに、黄金の絨毯に足を滑らせる。コツ、コツ。堂々たる入場である。
玉座の前に着くと、流れるように膝を折って、凛と声を出す。
「再びお目にかかれて光栄です。国王陛下、王妃殿下」
「カルディア嬢。まずは、デビューおめでとう。立派な淑女としての活躍、期待している」
「ありがとうございます」
通常の謁見はこれで終わるのだが、国王はカルディアに顔をあげさせ、王妃が次の言葉を紡いだ。
「カルディア嬢、わたくしの送ったドレスを着てくれて、どうもありがとう。お手紙も読みました」
「こちらこそ。王妃殿下から素敵な贈り物を頂戴し、身に余る思いでございます」
「あらあら。たいへん似合っていますよ」
「ありがとうございます。恐れ入ります」
王妃は羽根の扇子で口元覆って、コロコロ笑った。カルディアも他意のない優しい表情に、笑みを返した。
「ところで。エリオットはずいぶんカルディア嬢に懐いているようだ。今日は会えないが、また息子と遊んでやってくれないか」
「もちろんですわ。殿下と再び会える機会を楽しみにしております」
「長々と引き留めてしまったが、今日のパーティの主役はあなたたちだ。存分に楽しむと良い」
国王が穏やかな空気に区切りをつける。カルディアは最後にまた深く、礼をして退室した。
謁見の間を出たとき、別の令嬢とすれ違った。彼女は緊張か体調不良か。ものすごく震えていた。
大丈夫かしら。カルディアは心配してみるけれど、特別声を掛けることはない。偉そうに何か言える立場ではないし、何よりカルディアは自分自身のことでいっぱいであったからだ。
これからダンスホールへ行くのである。淑女として、さまざまな人と交流することになるのだ。
平和に終わりますように。
カルディアはエスコート役のティンダムの腕をぎう、と強く抱き寄せた。
「どうした?」
「ウウン。早く帰りたいなと思って」
「じゃあ帰る?」
「……だめ。お父様たちの面目が立たないのではなくて?」
「クックッ。大丈夫だよ。それより僕が心配なのは、カルディアがすごく可愛いから、みんなに注目されてしまうってことかな。男どもはこぞって君にダンスを申し込むだろう。女はきっとそれを羨むかな、妬むかな」
「あらお兄様。私よりお美しいご令嬢はたくさんいらっしゃいますし、何より今夜はみな、似たような白のドレスですわ。私が目立つことなんて」
「あるよ」
「……」
「あるから心配なんだ」
ティンダムの優しい声が、鋭い針に変わっていた。カルディアはそれに全身を刺されたように固まって、口を閉じた。大好きな兄なのに、このときは怖いと思った。
カルディアの綿菓子のような栗毛を掬って、「帰ろうか」と兄は言う。カルディアは黙して、ふわふわのドレスを見た。
「やっぱり、チョットだけ顔を出すわ」
「……仰せのままに」
ティンダムはスッカリ元の眠たげな目に戻って、ヘラリ。笑った。
ついに。社交界デビューである。