愛する女の幸せ
「恨む心を捨てるんだ。おまえはこれから、つがいを見つけて静かに暮らせ。おまえの、幸せのために」
誰かを恨むことより、自分の幸せを見つけてほしかった。
平穏に暮らして、つがいと子に囲まれ、誰でも手に入るような幸せを享受してほしい。彼を復讐に走らせてはならない。
文太は泣きそうな声を出した。
「そんな……でも、因幡さまはどうなさるんです。わたくしは因幡さまを救いにやってきたのです」
陰陽師のしかけた呪符は、壺のほかに蔵にも張り巡らされているのだろう。妖力の少ない文太には重荷だ。もしかしたら侵入したことにより、捕縛されてしまうかもしれない。すぐに文太を逃がす必要があった。
因幡はわざと気怠そうに言った。あの日、縁側で寝転んだときのように。
「俺は疲れたから、しばらく壺の中で寝る。もう、ここには来るな」
沈黙ののち、文太は渋々了承した。
「……わかりました。でもわたくしは、ずっと因幡さまの家来でございますから。因幡さまの言いつけを守りますが、わたくしが家来であることを因幡さまも忘れないでくださいませ」
「うっせえな。さっさと行け」
彼に会えるのも、これで最後だろう。因幡は「ありがとうよ」と言いそうになったが、それを抑えた。思えば、城を出るときにすでに感謝を述べていたのだった。
文太が去る音がかすかに聞こえ、そのあとはまた静寂が満ちる。
以前、城の縁側で寝転んでいたとき、文太に言われたことが今頃になって身に染みる。
季節がうつろうのは一瞬のこと。眠っている時間がもったいないとは思いませぬか……。
あの美しい景色を、もっと目に焼きつけておくべきだったのだ。空も星も、愛しい人の顔も、もはや二度と目にすることは叶わない。
そうすると、盲目の陰陽師と似たようなものかもしれなかった。何かを手に入れるために、別の大切なものを失うというのは真理なのだろう。
因幡は、なお姫の幸せのために壺に留まることを決めた。
たとえ結ばれなくても、彼女に幸せになってほしい。その想いが深く、胸の奥底まで射し込んだ。
なお姫が人間の男と結婚し、子を産むとしたら、その相手は謙之介しかいない。
「あいつになら、なお姫を譲ってやってもいいぜ……」
幸せそうな笑顔を浮かべたなお姫が、子たちに囲まれている姿を瞼の裏に思い描く。
因幡は、幸せだった。
愛する女の幸せを願って、意識を深遠に沈ませた。
◇◇ ◇
米沢の上杉うさぎ茶房は、今日も甘い香りに満ちていた。常連客たちは楽しげな笑顔で、うさぎを優しく撫でる。
美味しい食事と飲み物。綺麗な室内。そして可愛らしいうさぎを愛でる客たちは、いずれも上等な衣服に身を包んでいる。
その様子を眺めた因幡は、真紅の双眸を細めた。
この土地は豊かになった。壺に封じられていた四百年の間に時代はすっかり変わり、世の中の常識も変化した。
刀を持つ武士は消滅し、因幡が大妖怪だと名のっても恐れる者はいない。
街は整備され、凶悪なあやかしは見なくなった。
なお姫と謙之介も、とうに世を去っていた。直江兼続の銅像を目にしたときは、あまり似ていないと首を傾げたものだ。
金銭を払って、うさぎに触れるなどという商売が成り立つとは驚きだが、この店はなかなかに居心地がよいので気に入っている。
飛び跳ねるようにテーブルへ向かった南朋は、引きつった笑みを浮かべて茶器を置いた。
「お待たせしました。『ラァブ♡だいすきうさぎラテ』です」
ひょんなことから店に勤めることになった彼女は、懸命に仕事をこなしているしっかり者だ。実は、なお姫に似ていなくもないのだが、それはまだ黙っていることにしよう。
キッチンから、オーナーの謙介が顔を覗かせる。
「南朋ちゃん、こっちも二番テーブルだよ。『キャラメル塩対応うさぎあいする』だね」
「あっ、すみません! ええと……キャラメル塩対応……」
「アイスだけど、メニューは『あいする』だから、よろしく」
爽やかに微笑む謙介は、やはり遠い祖先の謙之介にどこか似ている。
「ま……謙之介はあんなに腹黒じゃなかったけどな」
この世界のどこかに、なお姫の子孫と彼女が遺した勾玉があるはずだ。
いずれ巡り会えることを信じて、まずは空や星の美しさを目に焼きつけることから始めてみよう。
カロン、と流麗にドアベルが鳴り響く。
因幡は客を出迎えるため、白銀の袂を翻した。




