雛乃の悲しみ
やがて一同は『上杉うさぎカフェ』の前まで辿り着いた。
看板はすでに、『うさぎ、しめてます』という閉店の状態にされている。
因幡は躊躇せず、ドアを開ける。カロン……と軽やかなドアベルの音色が店内に鳴り響いた。
「うおっ」
驚きの声をあげた因幡の肩越しに店内を見やる。
するとそこには優雅に足を組んだ謙介が、椅子に鎮座していた。
「おかえり」
ドアを開けて真ん前にいるので、驚くのも無理はない。まるで門番である。謙介が発した声音は凍りつくかのように低い。
ごくりと息を呑んだ因幡は静かに店に入った。南朋と雛乃も、おそるおそるあとに続く。
「あのな……謙介、俺たちが悪かった。喧嘩して店を騒がせて、すまなかった」
謙介の凍てついた態度に圧倒された因幡は、潔く謝罪する。雛乃も因幡の後ろから顔を覗かせ、小さな声を絞りだした。
「あたしも……ごめんなさい。迷惑をかけるつもりはなかったの。あたしは、由佳にもっと別のことを言いたかったの」
「ふうん。別のことって、どんなことだい?」
地を這う声音に、雛乃は耳をぺたりと下げた。
「それは……そのぅ……」
「謙介さん、私たち、御廟所で長尾さんに会ったの。彼女は『雛乃ちゃんを叱らないであげてください』って言ってたわ」
南朋がフォローすると、因幡は余計な口を挟む。
「雛乃は謝ってねえけどな。うさぎみたいにさっさと逃げたんだぜ」
飄々と暴露する因幡を、南朋と雛乃はじとりと睨む。
あれは正体がうさぎだとバレそうになったからで……などと言い訳すれば、さらに深みに嵌まりそうだ。
嘆息した謙介は、組んでいた長い足をほどいた。
「あのあと、僕が長尾さんに改めて謝罪したらね、彼女は却って恐縮していたよ。それどころか、きみたちのことを心配していた。長尾さんの優しさに免じて、クビは撤回しよう」
ほっと、三人の間に安堵が広がる。
けれど謙介は神妙に言った。
「長尾さんは怒っていないことを証明するために、またいずれ来店すると僕に約束してくれた。そのときに雛乃は、本当に言いたかったことを彼女に話すんだ」
「……わかったわ。でも、あたし、うまく言えるか自信ない」
「自信がなくてもいい。きみの言葉を尽くせばいいんだよ」
「なんて言えばいいのよ。子どもが欲しくて痛いこといっぱいやって、でも妊娠できなくて落ち込んでる人に、どう言えば正解なの? 『がんばったね』って、言える? 子どもがいるあたしがそんなこと言ったら、嫌味みたいじゃない。由佳はベビーカーを押してる母親を見ると、心から羨ましくて心から憎いって、あたしに話したことあるわ。そんな自分がもっと嫌いになるって。どう言えば由佳を救えるのよ、教えて!」
涙目になって叫んだ雛乃の言葉が、薄暗い店内に溶けて消える。
因幡と謙介は黙したまま、涙を拭う雛乃を見ていた。
雛乃の言うとおり、ありきたりの慰めをかけても、長尾の哀しみを消せないのだと南朋は感じた。子うさぎが死んだ哀しみを、雛乃がすぐに消せないのと同じように。
南朋は沈鬱な空気を払うように、明るい声を出す。
「そうだ! 長尾さんに、何かプレゼントをあげたらどうかしら。言葉でなく、手作りの贈り物で雛乃の気持ちを示すの」
「贈り物を作るの? あたしは物作りなんてしたことないわよ」
「簡単なものでいいのよ。羊毛フェルトはどうかしら?」
「なにそれ?」
羊毛フェルトは綿のようにふわふわした羊毛を専用の針で刺し固めて、動物の姿などをかたどる手芸細工だ。縫い物ではないので、初心者でも比較的簡単に作成できる。
「ふわふわの綿をボールみたいにまとめて、ニードルで細工するの。丸くてふんわりした動物を作るのに向いてる手芸よ」
「それはいいね。羊毛フェルトは人気だから、手芸教室で扱われていることは僕も知ってるよ。みんなでうさぎを作ったらどうかな?」
手を打った謙介の提案に、雛乃はゆるゆると頷く。
「いいけど。あたしにもできるかしら……」
「きっとできるわよ! 早速材料を買ってこよう」
うさぎカフェでささやかな手芸教室が開かれることになった。「羊の毛を使うのか?」と素朴な疑問を呈した因幡をよそに、南朋たちは買い出しに向かった。
針に返しのついたフェルティングニードル、台座として使用するフェルティングマット、そして数色の羊毛フェルトを手芸店から購入する。
買い物を終えた南朋と雛乃が店へ戻ると、柔らかな橙色の明かりがテーブルを照らしていた。
「ただいま。謙介さんと因幡の分も買ってきたから。いろんなグッズがあって、見て回るの楽しかったわ」
「ふたりとも、おかえり。準備はできているよ。本当にハサミや糸なんかの道具はいらないのかい?」
手芸なので、針で縫うというイメージが謙介にはあるようだ。羊毛フェルトはニードルひとつで作品を完成させられるのである。




