直江兼続の敗走
安っぽい慰めが頭に浮かんでは消えていく。
ふいに因幡が、景勝公の廟屋を眺めながら口を開いた。
「兵法では、負けて退くときがもっとも難しいとされているんだ」
何を言い出すのかと思うが、言われてみれば戦のときだけでなく、その論は現代の様々な場面でも当てはまることである。
「確かに、勝っているときは勢いにのれるものね。逆に負けてばかりいると、負けた分を取り返そうと思って引けなくなるかも」
「そのとおりだ。負けが込むほど引けなくなる。もうすぐ勝てると思うと引けなくなる。誰でもそうして惨敗するのさ。だが、直江兼続は最上義光との戦いで、城を落とせなかったにもかかわらず名を上げたんだ」
秀吉が死去してから徳川家康に従わなかった上杉景勝は、上洛を拒否した。家康が上杉家を討伐するかと思われたが、軍勢を翻した家康は関ヶ原の戦いに投じる。
そのとき上杉の軍勢は、かねてよりの強敵である最上義光の山形城を攻め落とそうと北上した。上山城を落とし、続く長谷堂城では直江兼続が率いる上杉軍本隊が一万八千名という兵力をもって攻めたが、守備が硬く、二週間にわたって足止めを受けた。
最上義光の本拠地である山形城は目前である。
上杉の領地である庄内へ行くためにこれまで、狭い山道を通っていた。最上を制しさえすれば、道が開けるのだ。それは長年の悲願である。
ここまできて引けない。
誰もがそう思うであろう。
だが直江兼続は、長谷堂城の攻略を中止して撤退を始めた。
思いがけない決断であった。
その理由は、関ヶ原で石田三成率いる西軍が負けたという情報を入手したからとも、伊達政宗が派遣した援軍の勢いに疑念を持ったからとも言われている。
最上と伊達の両軍に追撃されつつも、水原親憲、前田利益たちが奮戦し、上杉軍は米沢への撤退に成功した。
この敗走が見事だったため、直江兼続は家康に称賛された。負けたにもかかわらず、歴史に残る逸話となったのである。
「負けたのに褒められて有名になるっていうのも、複雑かもね……。でもどうして直江兼続は、もうすぐ山形城へ辿り着けるっていうところで撤退したのかしら。今までの苦労が無駄になってしまうわよね?」
ぴくりと肩を揺らした長尾は、南朋の意見に賛同した。
「そう、そうですよね。払った代償は、かかった経費だけではないでしょうし。戦ですから、たくさんの兵士の命が犠牲になっているわけですものね」
鼻で嗤い飛ばした因幡は、腰に手を当てた。彼は偉そうに胸を反らせる。
「馬鹿か、おまえら。勝とうが負けようが、それまでに払ったものは返ってこねえんだよ。回収しようと思うのが素人だ。玄人ってのはな、被害を最小限に抑えることを優先させて考えるのさ」
あなたは歴戦の軍師ですか?
南朋は半眼で因幡を見据えるが、彼の言うことにも一理あった。
直江兼続は風向きが変わったのを素早く察知したのだろう。山形城を落としたいという執念にしがみつくより、いかに被害を抑えつつ撤退するかと、すぐさま思案を巡らせたのだと思えた。
状況に応じて柔軟に対応するべきと、理屈ではわかっていても、実践するのは難しいものである。
「苦労が無駄になるだとか、そういうことじゃねえんだよ。直江兼続は負けたが、この敗走で名を上げた。城は落とせなかったが、奇しくも別の方面で成功したってわけだ。だからな……」
言葉を切った因幡は、長尾に目を向けた。
「だから、子を成せなくても、無駄なんかじゃねえ。それにまつわることで、ほかにいいことがある。俺はそう言いたかった」
杉林から、鳥のさえずりが響いた。
因幡の話を胸に染み渡らせるかのように、長尾は深く呼吸した。
彼女は複雑そうな笑みを浮かべる。まるで、敗走を絶賛された直江兼続のごとく。
「そう……ですよね。妊娠しなければ価値がないように、わたしは考えていましたけど、それだけが人生ではないですね……」
そう呟いた長尾は、ふらりと鳥居へ向かって参道を歩いていった。因幡と南朋もあとに続き、御廟所を出る。
長尾は不妊治療をやめたとはいえ、これまでの懊悩を吹っ切ったわけではないのだと、彼女と話したことで知らされた。雛乃の言うとおり、胸の底では様々な思いが渦巻いているのだ。
郵便局の前まで来ると、長尾は微笑を浮かべて頭を下げた。
「それでは、わたしはこれで。オーナーさんからはご丁寧に謝罪していただきましたので、雛乃ちゃんを叱らないであげてくださいね。またいずれ、お店にお邪魔します」
去っていく長尾の背を、因幡と南朋は無言で見つめた。
ふいに、因幡はぽつりと呟く。
「あれは、バレてるな」
「……さっきの人間の雛乃が、黒うさぎと同一人物だってこと?」
「だろ。雛乃が口を滑らせて、長尾の名前を言うからだぜ」
「それだけじゃないと思うけど。総合的判断じゃない? 直江兼続がどうして最上領を諦めて、あっさり撤退したのかは歴史上の謎だったのよね」




