儚い希望
昨日見た、長尾の沈痛な表情が脳裏をよぎる。
彼女は言っていたではないか。流産したせい……あの子が生きていれば……と。
長尾の子もまた、母親の顔を見ることもなく死んだのだった。その哀しみがいかに巨大で、心を蝕むものなのか、南朋は自分の身に不幸が降りかかって初めて痛感した。
悲嘆に暮れる南朋を見下ろした因幡が、苛立った声をあげる。
「ぐずぐず泣くんじゃねえ。生きている者がいずれ死ぬのは当たり前なんだよ! 東から昇った陽が西に沈むのと同じ道理だろうが」
嘆息した謙介は小型の箱を取り出し、内側に布を敷いた。死んだ子うさぎの体をそっと持ち上げると、箱の中に横たえる。
「因幡の慰めが下手すぎて、南朋ちゃんも雛乃も立ち直れないよ。ひとまず、この子を埋葬してあげないといけない。雛乃の許可を得たいから、彼女を人型にしてもらえるかな」
「ったく、しょうがねえな」
文句を言いながらも、因幡は胸元から翡翠の勾玉を取りだした。
それを雛乃に向けてかざすと、柔らかな光が発せられる。
光に包まれた雛乃の体が膨れ上がる。
南朋が瞬いたとき、眼前には黒髪の美少女が佇んでいた。
「ひ、雛乃……?」
雛乃は中学生としか思えないほど若い少女の姿をしていた。腰まである長い黒髪が、黒うさぎの艶めいた毛並みを彷彿とさせる。服装も和装ではなく、ミニスカートにニーハイソックスといった今時の恰好だった。
雛乃に哀しみの色はなく、なぜかふてくされたように唇を尖らせていた。
「なによ。何か用?」
「おまえは相変わらず、ふてぶてしいな。人型にしてやった俺に少しは感謝しろ」
「は? 因幡様の影響で、あたしまでふてぶてしくなるんですけど? 感謝しろとか、わけわかんない」
「おまえな~……」
睨み合うふたりに掌を掲げて制止した謙介は、静かな声を出した。
「雛乃。きみもすでにわかっていると思うけど、うーちゃんが亡くなった。この子を上杉家が所有する土地に埋葬するよ。いいね?」
ちらりと箱の中に横たわる子うさぎを見た雛乃だが、すぐに目を逸らす。
「勝手にすれば? あたしはどうでもいいわよ」
とても我が子を亡くした母親とは思えない態度だ。雛乃は哀しくないのだろうか。南朋は尖った声をあげた。
「赤ちゃんが死んだのに、雛乃はなんとも思わないの? もう、お別れなのに、どうでもいいって言うの?」
雛乃は赤ちゃんを見ようともせず、触れようともしなかった。腰に手を当て、死んだ子うさぎから目を逸らしている。
「べつに。あたしは今までに九羽を産んでるし。一羽が死んだくらい、どうってことないわ」
そういうものなのだろうか。ひとりも産んだことのない南朋には、数が多ければ哀しみは薄いという理屈がよくわからなかった。ひとりひとり、違う子なのに。
謙介は大切そうに箱を抱えた。
「棺には花をたくさん入れてあげよう。雛乃もおいで。屋敷はすぐそこだから」
「しょうがないわね。暇だから行ってあげてもいいわよ」
横柄な雛乃の態度に眉をひそめる。だが子うさぎが亡くなったショックで、雛乃を諭す気力すら湧かなかった。
南朋の代わりに因幡が声を荒らげる。
「なんだ、その言いざまは。おまえの子どもなんだぞ」
「うるさいわね。因幡様は関係ないけど、ついてきてもいいわよ」
「なんだと、この尻軽が!」
「なによ、四百年も引きこもってたくせに!」
喚くふたりを連れて、南朋と謙介は店を出る。
亡骸が温かな陽の光を浴びた。
うーの初めての外出が、心臓が止まったあとであることに、南朋はまた涙を流した。
一同は晴れやかな空の下をゆっくりと歩いていった。
陽射しが暑いのか、漆黒の耳をぱたぱたと扇がせた雛乃は文句を言う。
「車のほうがよかったんじゃない? オーナーは運転できるのよね?」
「できるけどね。うーちゃんに、散歩させてあげようと思って。これが最初で最後だから」
「……そう」
最初で最後の散歩、という謙介の表し方に、しんみりとした空気が漂う。
南朋は、謙介が抱えている箱の中の子うさぎを見た。
うーは動かない。実は気絶していただけ、などという奇跡は起きなかった。死後硬直で体が固まっているのを確認したはずなのに、儚い希望を抱いてしまう。
明るい陽射しが目に眩しい。いつもは心地好いはずの晴れた天気が、より心を沈ませた。
やがて数寄屋造りの麗しい門が目に入る。ここは上杉家の別邸で、謙介が現在居住している屋敷だ。漆喰壁に囲まれた敷地内は庭木が生い茂り、錦鯉の泳ぐ池がある。趣のある日本家屋の傍らには、畑が作られていた。
殿様の屋敷という壮麗さよりは、田舎の祖父母の家を訪ねたような懐かしさが胸に迫る場所だった。
雛乃は屋敷の庭を訝しげに眺める。
「田舎くさいところね。ここに埋めるの?」
「そうだよ。うちの子たちは亡くなったら、みんなここに埋葬してるんだ。ほら、墓石が並んでるだろう?」




