因幡の過去の失恋
だが謙介の問いに、千代丸はかぶりを振る。
「……いいえ、そんなことありません。ぼくの気持ちなんて関係ありません。知らない土地に行きたいとも思ってませんから」
彼は必死に耐えているように見えた。水野や周囲の人に迷惑をかけないよう、聞き分けのよい子を演じている。南朋の目には、そう映った。
千代丸は、水野さんのことが好きなのね……
けれど、それを指摘したら、彼はいっそう傷を深くしてしまうだろう。
千代丸のために、何かしてあげられないだろうか。そう考えた南朋は、ガーデンパーティーへの招待状を見て思いつく。
「そうだ! 結婚のお祝いに、みんなでブーケを作ったらどうかしら」
「グッドアイデアだね。ウェディングブーケなら、その場で花嫁がブーケトスできるし、プレゼントに最適じゃないかな」
「そうよね。千代丸も手伝ってよ!」
謙介の後押しもあり、南朋は笑顔で千代丸に頼んだ。
花嫁のためのプレゼントを手作りすれば、傷心が癒やされるのではないだろうか。それを当日、千代丸が水野に渡してあげればいい。水野もきっと喜んでくれる。
複雑な表情を浮かべた千代丸は曖昧に頷いた。
「いいですけど……」
「じゃあ、私が材料をそろえてくるわね!」
結婚式は一週間後だ。
美しい花々のブーケを思い描いた南朋は、胸を弾ませた。
翌日、南朋は休憩時間に外出すると、近くの本屋へ足を運んだ。
どのようなブーケを作るか、本に掲載された写真を見ながら、みんなで相談するためだ。
なぜか因幡が、あとをぴたりとついてくる。和装にうさぎ耳をつけた銀髪の美丈夫が歩くと、人目を引くかと思えたが、実際には逆だった。
擦れ違う人々は、ぎょっとして因幡を見るとすぐに目を逸らす。怪しげなものを視界に入れないようにしているのだ。おかげで南朋が通ると道が空いてしまう。
「なんで因幡も来るの? 謙介さんが店にひとりになっちゃうじゃない。すぐに帰るけどね」
不満を述べた南朋は、ウェディング関係の雑誌が並んだコーナーへ向かった。数々の雑誌の麗しい表紙を眺めていると、因幡が吐き捨てる。
「おまえの阿呆さを罵るために決まってんだろうが。なぜ花嫁に贈り物をしようだなんて提案したんだ」
「いいじゃない。千代丸は水野さんのことが好きなのよ。プレゼントをあげたら、水野さんも喜んでくれるわよね」
手作りの綺麗なブーケを、千代丸の手で花嫁に渡してあげたい。きっと最高の思い出になる。
ところが浮かれる南朋の心を、因幡は思わぬ角度から抉った。
「そこが阿呆だと言ってるんだ。自分の好きな女がほかの男と結婚するんだぞ。祝えるわけないだろうが」
「……え」
手にしていた雑誌が、ぱさりと落ちる。
言われてみると、そのとおりかもしれない。
けれど千代丸が抱いている水野への想いは、憧れの延長ではないだろうか。醜い嫉妬の感情とは無縁のはずだ。
「千代丸はまだ子どもだもの。そんなふうに思わないでしょ」
「あいつはもう二歳だ。うさぎは生後三か月から交尾して子を成せるんだぞ。とっくに成熟してるんだよ」
小学生ほどの見た目だが、千代丸は見かけほど子どもではないと因幡は言いたいらしい。
南朋としては、年上の人に抱く淡い恋心のようなものと捉えていたけれど、千代丸の想いは違うのだろうか。
たとえそうだとしても、本当に好きなら、好きな人の幸せを願えるはずだ。他人の幸福を嫉むなんて、いけないことだ。
「好きな人には幸せになってほしいと願うものよね。千代丸だってそう思ってるわよ」
「おまえ……本気で恋したことないだろ?」
ずい、と顔を寄せられたので、一歩後退する。
確かに南朋は、大恋愛などした経験がない。恋と呼べるような気持ちを持ったことがあるかといえば、自信がなかった。
「私のことはいいから。因幡こそ、好きになった人がほかの人と結婚するなんて経験があるわけじゃないでしょ。どうして祝えるわけないなんて、堂々と言えるの?」
「経験があるから言ってるんだ。俺は、なお姫との仲を裂かれて壺に封印された。彼女はそのあと、ほかの男と結婚して子孫を作ったんだ」
「あー……そういえば、そういうことになるわね」
因幡の言い分では、なお姫と恋仲だったのに、父の直江兼続が結婚を認めずに因幡を退治したのだという。直江家に伝わる話では、大妖怪が無理やりなお姫をさらおうとしたとのことだったが、歴史というものは何が真実かわからないものである。
「それで、なお姫は誰と結婚したの?」
「……さあな」
因幡は低い声で呟き、明言を避けた。
彼には心当たりがあるようだが、その名を口にしたくないのかもしれない。
なぜか南朋が悪いことをしたような気になり、視線をさまよわせる。