水野の告白
憤慨する南朋だったが、因幡はほんの少し物憂げな眼差しで、うさぎ部屋をちらりと見やる。
「だが、水野さんが店に来るのも今日限りかもな」
「え……どうして?」
「さあな。もう来られないかも、って本人が言ってたぜ。気になるなら聞いてみな」
そう言い残した因幡はキッチンカウンターへ向かっていった。キッチンでは謙介が調理準備を行う密かな音が伝わってくる。そちらを手伝うのだろう。
南朋はそっと扉を開けて、うさぎ部屋へ入った。
水野さんがもう店を訪れないという理由も知りたいが、千代丸の機嫌が急に変わるのも気になったのだ。
チェスナットカラーの毛をゆったりと撫でていた水野さんは、南朋に笑みを向ける。
「こんにちは。昨日からうさぎ係になったスタッフさんですか?」
「は、はい。昨日はお手伝いでした。まだわからないことだらけです」
スタッフは別名『うさぎ係』らしい。南朋より常連さんのほうが店のことに詳しいのは恥ずかしいので、今後たくさん勉強していこうと心に誓う。
「がんばってくださいね。わたしはもう……お店に来られませんけど。動物は苦手だったのに、このお店で千代丸君に触れてから変われたので、とても感謝しています」
水野さんは寂しげにそう言った。何か事情がありそうだ。南朋は思い切って訊ねてみる。
「あの、どうして来られなくなるんですか?」
「引っ越しするんですよね。新潟県なんですけど、米沢と行き来するのは車で半日ほどかかってしまうんです。だから遊びには来られないと思います」
山形県と新潟県は隣接しているが、往来するのは意外と時間がかかる。
新幹線は通っておらず、ふたつの県をつなぐ航空会社の路線もない。地方は東京を起点とした交通網を整えているので、隣同士にもかかわらず遠いという事態が起こるのだ。
米沢上杉家の始祖である上杉謙信は、現在の新潟県にあたる越後国の大名であったのに、かつて統治した国が近いようで遠いとは皮肉な話だ。
県民が行き交うには自家用車かバスという選択肢が主になるが、豪雪地帯に跨がる国道を利用せざるを得ず、積雪期は著しく交通機能が低下する。今は初夏だが、天候が良くとも飯豊山地を越境するだけで相当な時間がかかる。
引っ越しを間近に控えた水野は、千代丸との別れを惜しんで毎日会いに来ていたのだった。
千代丸の背中を撫でながら、水野は独りごちるように語った。
「わたし、結婚するんです。式は米沢で挙げるんだけど、新居はパートナーの転勤先になるので、これからは新潟の新発田市というところに住むんです。千代丸君はとても懐いてくれたので、もう会えないと思うと寂しくて……パートナーに千代丸君をお迎えしてもよいかと相談しました」
千代丸の耳が、ぴくりと立った。
先程謙介から子うさぎをお迎えできるという話を聞いたが、赤ちゃんでなくても相談すれば可能なのだろう。
うさぎは飼育許可などの届け出が必要なく、鳴かないので、アパートで飼っても問題はないはずだ。
「それじゃあ、千代丸と一緒に引っ越すんですか?」
千代丸がキャストからいなくなるのは寂しいけれど、幸せにしてくれる人にお迎えされるのならそうなってほしいと南朋は願う。
けれど水野は哀しげに首を横に振る。
「いいえ……反対されてしまったので、諦めました。初めての土地で新しい生活を始めて、これから子どももできるかもしれないのに、うさぎを飼うなんてよくないと言われまして……」
「……そうですか」
南朋の落胆に呼応するかのように、千代丸の耳が、静かに下りた。
初めて暮らす土地での新しい生活の中で、さらに子どもが生まれたら、千代丸を世話する余裕がなくなるかもしれない。それにこれまで動物が苦手だったということは、水野はうさぎを含めたほ乳類全般の飼育経験がなさそうだった。水野の旦那さんになる人が反対する言い分は、もっともだった。
一時の感情でお迎えしても、いずれ千代丸を連れてきたことを後悔するかもしれない。近頃は動物を飼ったものの、世話をしきれずに捨ててしまう無責任な飼い主が増えているという。水野の胸の裡に、自分はそうならないという絶対的な自信が持てないからこそ、諦めるという選択肢を取ったのだろう。
賢明な判断といえるが、彼女は辛そうに眉を寄せ、唇を引き結んでいた。
理屈で感情をねじ伏せるのは苦しいものなのだ。
「あ……ごめんなさいね、こんな話をして。結婚式のときには、ぜひカフェのみなさんでいらしてください。オーナーさん宛に招待状をお出ししていますから」
「はい、ぜひ、うかがいます」
南朋の返事に表情を和ませた水野は、その掌に刻みつけるかのように、延々と千代丸を撫で続ける。千代丸は彼女の膝にのり、じっとしてしている。
南朋はそっと、うさぎ部屋を出た。しばらく、ふたりきりにしてあげよう。
その後、おさわりの時間を終えた水野は笑顔でカプチーノをオーダーした。
南朋が千代丸の様子をうかがうと、彼は爪切りを嫌がったときと同じように、部屋の隅に逃げ込んでお尻を向けていた。
水野さんに撫でられていたときは、あんなに心地よさそうだったのに……
彼女が話したことは、無論千代丸も聞いている。
もしかして千代丸は、水野さんについていきたいのだろうか。