優しくおさわりしろ
「あっ、もうけっこうです」
謙介がすべてを暴露しそうな気配を察したので、慌てて遮る。
子どもの頃、南朋は宝物の勾玉を謙介に見せていたのだ。ただ謙介は勾玉の特殊能力については知らないらしい。
そのとき、はっとした千代丸が壁に寄って身を屈める。
「お客さんがいらっしゃいました! ぼくは戻りますね」
ぽわんと柔らかな光を発した千代丸は、屈んだ男の子からもとのうさぎの姿に戻った。人型に変化するときは勾玉が必要だが、戻るときは本人の意思のみでよいらしい。
小さなうさぎになった千代丸は、カフェスペースへ駆けていった。
「あっ、おい千代丸! おまえは大人しくおさわり部屋にいろ!」
因幡が慌てて千代丸を追いかける。
低くて掠れた声で『おさわり部屋』と叫ばれると、どうにもむずかゆい。
そんな彼らを、窓の外から女性のふたり連れが見ていた。女性たちは因幡を発見すると、まるで芸能人を見つけたかのように目を輝かせる。
すかさず謙介がドアを開けた。
「いらっしゃいませ。どうぞ」
カロン、と流麗なドアベルに、甘やかな謙介の声が重なる。
女性たちは嬉しそうに店内へ入った。
「あの、初めてなんですけど、因幡さんというスタッフがいるうさぎカフェって、ここですよね? 友達に聞いたんです」
「ええ、そうですよ。因幡君、お客様をご案内してあげて」
おう、と返答した因幡は捕まえた千代丸を片腕に抱きかかえた。
銀髪にうさぎの耳をつけた和装の美丈夫が、可愛らしいうさぎを抱っこしている姿は目に眩しい。
お客さんは「可愛い!」と歓声を上げた。
可愛いのはうさぎの千代丸であってほしい。お客さんは瞬きもせずに因幡を見つめている。友人たちの間で、格好いいスタッフさんがいるとでも噂になっているのかもしれない。
が、因幡はさらに眦を吊り上げ、真紅の鋭い双眸で女性たちを睨みつける。彼女たちが、なお姫かどうか吟味しているのかもしれない。ひどい殿様商売だ。
ややあって、因幡は尊大に言った。
「おまえら、初めてか。俺が手取り足取り教えてやる。まずはこっちの、おさわり部屋に来い」
台詞だけを聞くと特殊なサービスの店かと誤解されそうである。
女性たちは笑いをこらえている。彼女たちは因幡のあとについて、うさぎのいる隣の部屋へ入っていった。
因幡が先程南朋に教えたときと同じように、料金やうさぎたちについて説明している。
「おさわりは十分につき三百円だ。飲食だけの利用もできるが、おさわりするよな? ただし、優しくおさわりしろ。ひどく愛撫するのは御法度だ」
「うふふ……はい。おさわりします」
「うさぎだからって耳を掴むんじゃないぞ。耳は敏感だからな。俺の耳も、もちろん触るな」
「ふふ……はい、わかりました」
因幡が喋るたびに、お客さんたちから堪えきれない笑いが零れる。
彼としては淫靡な方向への意図があるわけではなく、大真面目に説明しているらしい。俺様な接客のわりには天然なので、そういったところがお客さんには魅力的に映るようだ。
謙介がキッチンに足を向けたので、南朋は空になったカップを持って席を立った。お客さんが来店したことだし、そろそろおいとましよう。
キッチンカウンターにそっとカップを置いた南朋は小声で話しかける。
「ごちそうさまでした。それじゃあ、またね」
財布から取り出した千円札をカップに添える。親戚とはいえ、おごりというわけにはいかない。
だがキッチンに入った謙介はカップだけをシンクに下ろし、千円札は優雅な手つきで押し戻した。
「お金はいらないよ。カフェラテはサービスだからね」
「でも、タダっていうわけにはいかないわよ」
いくら謙介の実家である上杉家が裕福だといっても、動物を扱うカフェを経営していくにはかなりの資金が必要なはずだ。通常のカフェとペットショップが合体していると考えると、手間や経費は倍になる。
それなのに謙介はお金を受け取ろうとせず、シンクに目を落としてカップを洗い始めた。水の流れる音に、低い声音が混じる。
「そういえば、ちらっと聞いたんだけど……南朋ちゃんの勤めていた会社が倒産したんだって?」
母が親戚の誰かに相談でもしたのか、南朋が米沢に戻ってきた理由を知られていたようだ。無職なのにお金を払おうとするなんて、厚かましかっただろうか。
俯いた南朋は、ぼそぼそと呟く。
「うん……新卒で採用されて、一年経っていなかったんだけど、倒産して……そのあと山形で就活したんだけど、時期が悪いのか採用されなくて……だから、今は無職なの」
理由が会社の倒産とはいえ、卒業から一年経たずに再就職先を探しているという状況は、厳しい目で見られても仕方なかった。東京などの大都市で就活すれば職はたくさんあるのかもしれないが、そうするとアパートの家賃が大きな負担になる。ひとり暮らしを維持していくためには、一か月分の家賃と生活費以上の給料が出る仕事に就くしかない。簡単な理屈のようだが、求人はそのラインぎりぎりか、もしくはそれ以下の月給の仕事しかないのだった。