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勢いそのままおばあ様の前になだれ込んだ旦那様は、おばあ様の胸倉を掴みかかりそうな剣幕を用心棒にどうどうと引き留められていた。
「そういう余計なことを言わない方だと、信頼していたつもりだが」
「否定するならしてみるかい? ぼうや」
ものすごく物騒な顔で、おばあさまを至近距離にて睨みつけていた旦那様は、地に這うような声で呪っている。おばあ様はひどく機嫌が良さそうに、人差し指で旦那様のおとがいをすーっとなぞった。ぷわーと煙を吐きかけられ、旦那様がしかめ面になる。
えっ、嘘なの。ほんとなの。あ、ほんと? ほんとにほんと? やだ、アホらしいことに首突っ込んじゃったのあたしの方? 姉様が用心棒の一人をつかまえて、ひそひそと何か言っているのが聞こえた。
「ごめん、エミリア! おしあわせに!」
びし、ときっちりした動作で手を合わせ、それじゃね! と振り回して去っていった。用心棒の一人が部屋まで送るのだろう。置いてかれたわたしは呆然と立ち尽くしたまま、つまりだから? と動きの鈍い思考を回しだす。
回し出したところへ、旦那様が上着を脱いでわたしの肩にかけた。
「風邪をひきます。部屋に戻ってきちんと着替えてください」
ぼんやりと旦那様を見上げる。麦色の髪、翡翠の瞳。端正な顔に、上背のある体格の良い身体。孤児でありながら王権象徴も持つ、平民出身の英雄で、聖騎士。
てんこ盛りの肩書に溺れそうになりながら、そんな人が、と首を傾げる。
「ひとめぼれ…?」
だれに?
「その話は部屋でしましょう。いきますよ」
おばあさまを睨みつけながら、旦那様がわたしの背中に手を添える。用心棒を引き連れて、わたしと旦那様は下手を後にした。
「ひとまず、服を着替えてください。びしょ濡れのまま服を着たでしょう。こちらの布でちゃんと拭いて……」
旦那様は、甲斐甲斐しく私の世話を焼いてくださる。こう言うところも、やはり上流階級の旦那様ではないな、と思ってしまう。人にされることが当たり前ではないこの人の事情を、わたしはどうにかして知りたいと思っていた。
「旦那様」
「仕事から帰って、部屋にいないので驚きました。君たち、少し騒ぎになっていましたよ。どよめきと人の視線をたどっていけば追いつくのは容易でしたので、助かりましたが」
「旦那様」
「……そんなに気になりますか」
それはもう、と頷いた。旦那様は諦めた様子で、わたしと二人、長椅子に並んで座る。
淡々と話し出した旦那様の表情はどこか虚無を孕んでいて、その目が少し怖いな、と思った。
「……聖騎士は各個人に与えられる称号で、組織立っているわけではありません。今回の件で見直されそうですけれど、それはともかくとして……。今回は、厄介なことになってしまい、なにもかもが後手に回って、この店を頼ることとなりました。その初日に、あのご婦人にからかわれたんですよ。部屋をとるなら、好きな娘を選ぶといい、と」
そんなつもりで世話になりにきたわけじゃない、と断ったのに、部屋までの通り道に、娘の姿が一番多い通路を通って。
「君の、歌を耳にしました」
最初は、歌だったのか、とわたしはまたたく。さすが唯一の及第点、しっかり旦那様の心をつかんだらしい。そんなこともあるのかと自分のことながら感心していると、旦那様が苦笑した。
「歌に惹かれたことをしっかり見抜かれて、さらに道を変えられて、……私は、君を見つけました」
そっと手を握られる。今まで触れられたことのない感触に、心臓が跳ねた。
「顔見せ直後の、まだ誰も触れていない君を見つけた。間に合うことができた。君のためだけに生きてきた、長く耐えてきた日々が報われる時がきたと思いました。いや、その報われるかもしれない機会がようやく目の前に転がってきた、と」
わたしに、学がないからだろうか。なんだか、少しわからなかった。旦那様の言っている意味がうまく理解できない。けれど、今知りたいことは一つだった。わたしの立場で聞くのは図々しく、旦那様の立場で答えるなら、どんな虚飾も許される問いかけをする。
「旦那様は、もしかしなくても……わたしのこと、とっても好き、ですか」
「……簡単に言い表すことはできません」
わかっていたけれど、旦那様は虚飾を口にしない。握られた手に、力がこもる。旦那様の顔を覗き込むと、柔らかい顔で微笑んでくださった。
「私は、君を人生にしてここまできたので」
やはり、少し理解ができない。この人は、まだ何か秘密があるのだろうか。じっと見つめるわたしの頰を、旦那様の無骨な手が触れた。もっと触れて欲しいと思ったのだ。当たり前に寄り添うことを許してくれる人だから、もっと、もっと、姉様方が知っているところまで、この人といきたいと。
旦那様の膝に触れる。座っている長椅子に膝をついて、伸び上がるようにして、旦那様の頰に唇を寄せた。翡翠の目とあって、旦那様がわたしの肩を掴んだ。
「エミリア」
滅多に呼ばない、旦那様がわたしの名前を口にして。
「やめなさい」
明確な拒絶を示した。
引き剥がされるようにして長椅子に座り込み、呆然と旦那様を見上げる。旦那様の目が、ひどく冷たくて、喉が干上がるように、心臓が引き絞られたように痛んだ。
「君のそれは、反射です。この店の女として、旦那様だと定めた相手へ特別な感情を向けなければいけない、と言う」
頰を張られたかのような衝撃を、言葉にして告げられた。
「おそらく君は、わたしではなくともその感情を向けたでしょう」
冷静な、冷酷な言葉だった。そんな、もしもの話は考えられない。今、わたしは、目の前にいるこの人への想いを証明するのに、どうしたらいいのか。
「最初にも言いました。君に選択権は与えない。すでに決まっていることを了承してもらう、と。なので、わざわざ言っていませんでしたが」
情けなくて、恥ずかしくて、顔があげられなかった。旦那様がどんな顔をしているかもわからない。
「わたしは君を身請けするつもりなので、そのつもりでいてください。これから先のことは、この店を出てから、もう一度ゆっくりと考えて欲しいと思っています」
身請け。告げられた言葉が、ゆっくりと理解の端に登ってくる。伴侶として、店から連れ出すと言っておきながら、そこに色を載せようとしないこの人はなんなのだろう。
くるくるくるくる。さっきから、関係なことが頭をかすめる、口ずさんだ歌を、好きだと笑った顔。絵本を持ってきてくれたときの眼差し。一人で眠る夜は寂しいと告げると、困った顔で、腕を広げてくれた。全部、全部が優しかったというのに、その優しさに惹かれるのは反射だと、この人は言っているのだろうか。
震える足で、立ち上がる。
「あの、そう、お水。お水を取りにいってきます」
満たされた水差しを横目に、何も持たずに身を翻して部屋を出る。頭を冷やさなければ。ここは国に認められた、高級娼館。旦那様の言葉に取り乱すなど、愚は犯せない。
おぼつかない足取りで、目的なく廊下を進む。店の娘が一人で歩くと、決まって用心棒が一人、二人ついてくる。昔馴染みの、顔馴染みだ。わたしにとっては、みんながそうなのだ。今ついてきている二人だって例外ではない。
下働きの娘や、もう力仕事には頼りない老人がくるくると働く店の外れ。煮炊きのための薪や、修繕に使う木材が積まれた裏庭が眺められる場所に出た。布出てきた室内用の靴のまま降りると、さすがに用心棒の一人が引き留めた。
「ひめさん、なにかあったんか」
年かさの用心棒は、わたしのことをそう呼ぶ。ここに引き取られたのは二歳の時らしく、その頃からみんなに何くれと世話を焼かれ育ってきた。愛想はよく、けれどお転婆だったわたしに手を焼いてくれた人たちは、ひめちゃんひめさん、おひいさんと、もてはやした。その名残だった。
「旦那様が」
口にしたものの、何を言っていいかわからない。途方にくれたまま、その場にうずくまる。年かさの用心棒は、わたしに付き合って一緒に腰を落としてくれた。もう一人、若い方の用心棒は、庭に降りずに周囲を警戒している。
「旦那様を、お慕いして、しまったの」
うん、と、痛ましそうに目元を歪めて、用心棒はうなずく。恋に焦がれて、身を滅ぼした女を、きっとたくさん見てきたことだろう。高級娼館の女たちは、理性を焼かれて殿方を楽しませられなくなった時点で用無しとなる。おなじ主人が持っている、他所の店へ飛ばされて、二度と戻ってこない。こんな店にいる以上、訪れる旦那様の言葉に振り回されるようでは話にならないと言うのに。
「特別だと言ってくれて、嬉しくて、わたしもです、って伝えたつもりだったのに」
わたしのそれは、本物じゃないって、言われたの。
独り言のような、小さな呟きに、二人の用心棒は顔を見合わせた。うーん、と頭上を仰いで、年かさの用心棒が廊下に立ったままのもう一人を呼び寄せる。頭をかきながら降りてきた若い用心棒は、眉間にくっきりとしわを寄せ、腰を落としてわたしの顔を覗き込む。
「つまりあれか。身も心も預けたいのは旦那様だけってあんたは思ったし実際言ったけど、言われた旦那様が、それは気のせいで、自分でなくとも同じような他の男にもそう思うに違いないだろって突き放してきたって話か。なんだそいつは。女々しい奴め。んで、あんたは反論できなくて逃げ出したってとこか」
流れるように暴言とともに吐き捨てて、試してみるか? と用心棒はわたしの腕を掴んで立ち上がった。信じられないくらい強い力で掴まれた腕が、あまりに痛くて涙が出そうになる。それくらいで、と用心棒の目が呆れていた。
「俺を見ろ」
その言葉に、反射的に向き直った。旦那様ほどではないけれど、わたしよりも体格が良く、身長もあって、こんなに近くで向かい合えば、あっという間に捕まえられて食べられてしまいそうだった。
「しってるよ、あんたは、俺たちを違う生き物だと思ってる」
両手が伸ばされ、両肩を掴まれる。さっき旦那様が掴んだところ同じはずなのに、異質さを感じ取って体がこわばった。
「あんたはずっと、俺たちを遠巻きにしてた。自分よりも大きな体、強い力、違う立場、守ってくれる人、監視している人。全く違う生き物として、触らないよう、近づき過ぎないよう、距離をとってた」
用心棒の顔が近づいてきて、目を閉じたいのにそれすら怖くて固まった。頰が頰をかすめて、首元に降りてくる。吐息が肩に触れるのがわかって、逃げ出したいのに肩を掴んでいる手の力が強くて身じろぎもできない。
「あんた、俺があんたの旦那様になったとして、今の旦那様にするみたいにできると思うか?」
できない、と心から思った。無理だ。怖い。こんなのは違う。
ぱっと、両肩の手が離れ、用心棒自身もわたしから距離をとった。傍で見守っていた年かさの用心棒がほっとした顔しているのが見える。
「運がいいよ、あんた。あの旦那様みたいなのに、何にも知らないうちに囲われて、連れ出されようとしてる。ここにいる女たちがどうしようもないほど不幸とは言わないけど、あんた、多分ここでの仕事に向いてない」
そう言う心のあり方を、してないと思う。きっと、心がなくなる。そう断言した用心棒は、あーあ、と伸びをしながら愚痴をこぼした。
「どいつもこいつも世話の焼ける。あんたらもあいつらも、こうやって俺が悪者になんないとしゃんとしないんだから」
損な役回りだと、ぼやいた。
実際、護衛であって監視役である用心棒に、甘えている姉様方は多い。下働き時代、娘時代からいる者にとっては特に、幼い頃何かと世話を焼いて遊んでくれるのは彼らなのだ。女同士やおばあ様に吐き出せない、こういう男女のことで揉めた、行き場のない感情の矛先は彼らにいきがちだった。それはそれで悶着が起きることもあるのだけれど、彼らも職を失うわけにはいかないので、そういう時の振る舞いはきちんとわきまえている。
「ほら、廊下に上がれ。その靴脱げ。どろどろにしやがって。洗い場のじじいに直接持ってってちゃんとどやされろよ」
年かさの用心棒の手を借りて、廊下に上がる。裏庭に降りていては気づかない位置に佇む人影に、ひえ、と固まった。翡翠の瞳のその人が、静かな顔でわたしを見ている。
「だんなさま」
どうしようもなく震える声に、胸の前で両手を握る。何か、何か言わなくてはと思うのに、言葉が出てこない。
「……彼らは、君の馴染みの用心棒ですか」
その目が、若い方の用心棒にひたと向けられていた。用心棒の二人は喋らない。本来は、寡黙に仕事をこなす役割で、さっきのが緊急の特別対応だっただけなのだ。
「用心棒は、みんなそうです。こっちはわたしがここにくる前からいて、多分一番迷惑をかけたひと。こっちは、わたしより後に来た子で、多分、わたしの方が面倒見てあげてた子」
あっという間に大きくなったけど、と思いながら若い用心棒を見上げていると、あぁん? と睨まれた。
「きたばかりの頃、よりにもよって店で一番偉い主人に反抗して、周りの大人たちにぼこぼこにされてぼろぼろになって、しくしく泣いてたの、覚えてる? 一緒に干し柿食べたよね。おばあ様秘蔵のあの干し柿、隠し場所知ってるの、わたしだけなんだから」
自慢げに胸を張ると、彼の顔が引きつった。てめぇそんな恐ろしいもん俺に食わせたのかふざけんなよ、とその目は語っていたけれど、聞こえないので知らないふりをする。
気づけば、旦那様と普通に視線を合わせられるようになっていた。一度深呼吸をして、正面に向き直る。
「お部屋に戻りましょう。旦那様」
これくらいは範疇だろうと腕を絡めて先へと引いた。旦那様は振りほどくことなく付き合ってくださる。今夜も、抱きしめて眠ってくれるだろうか。今はあれで我慢する。もっと先を望んで、手に入るはずのものを逃せば取り返しがつかないから。
旦那様、と恋を唱える。心の中で、いつか届かせようと。
書きたいとこまで書いて満足したので、これにて完結です。
他連載が落ち着いたら続きを考えるかもしれません。
続きはハーヴィーさんの屋敷でハーヴィーさん側の事情かな。