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旦那様は、毎朝店から仕事に出かけ、多くの場合は夕方に帰ってくる。時々夜も仕事だというので、昼過ぎに出かけ明け方に帰ってきて眠ることもある。そういう日は、翌日が休みだっ
た。
旦那様は仕事が休みの日は、部屋でゆったりと過ごされる。わたしはそばに控えているが、最初の休みは何をするでもなく旦那様をみていた。長椅子に並んで座っていると、旦那様がふとわたしの存在を思い出し、卓に置いてあった本を示した。
「本は読みますか?」
面食らっていると、返事も待たずに手渡された。
「……暇なら読んでみるといい。ただの歴史書だけが」
最初のひと月、ふた月とそんな生活が繰り返されるにつれて、わたしは旦那様のそばで過ごすことに緊張しなくなっていった。
その日も、旦那様は部屋で休みを過ごされる。最初の夜の部屋とは違う、完全に旦那様のために用意された部屋で。その日の旦那様は、書き物用の机に向かっていた。
その傍らの長椅子で、わたしは本を眺める。旦那様が選んでくれた、今まで読んだことのない物語絵本だ。ひよこの冒険、かわうそのなんてことない日常、異大陸にいるという、熊猫の悲しいお話。旦那様の書き物の音を聞きながら、膝を抱えて読みふける。一度読み終わると、絵を眺めるためだけに最初に戻った。風の国のお姫様は、ひょんなことで地上に墜落してしまう。深い森に落ちたお姫様が、たくさんの植物に囲まれて、木漏れ日の中で空を見上げる最初の挿絵は、その物語の象徴のような一枚だった。大好きな一枚に、無意識に鼻歌がこぼれ始める。鼻歌はやがて小声で口ずさむ歌に変わり、あれ、と気づいた時には旦那様が書き物の手を止めてこちらをじっと見つめていた。
「す、みませ」
顔に熱が集まっていく。本で顔を隠しても、視線がじっと注がれているような気がして、そっと本をずらして旦那様の方を覗き見た。
「……顔見せの時も、歌っていましたね」
優しい顔で、旦那様が笑っていた。どうぞ、続けて、と手のひらで促されたけれど、いやいや、と首を振る。「君の歌、好きですよ」顔が爆発したかと思った。
のけぞるようにして長椅子に倒れこんだわたしに、旦那様が背もたれを挟んで覗き込むようにやってきた。大丈夫ですか、と問いかける旦那様をぼんやり見上げる。くつくつと肩を震わしながら、目を細めて笑う旦那様は、肩の力が抜けていて、素で振舞っているように見えた。
「……旦那様、話し方が変わるのは、もしかしてぶっきらぼうな方を無理に作ってらっしゃる?」
笑みを浮かべたまま、旦那様の顔が固まった。指摘してはいけなかっただろうか、とどきどきしたけれど、口にしてしまったものは仕方がない。じっと見つめていると、硬直の溶けた旦那様が、そっと目を逸らしながら肩をすくめた。
「孤児なので、職場ではどんな立場の立場の相手にも角が立たないよう、普段はこのように話します。ここでは、下手に出ると侮られるので、話し方を変えていました」
「孤児…?」
「はい。そんな人間は、ここには出入りしないでしょうね。……不快ですか? なら、忘れてください」
「え、いえあの、誰が」
「私がですよ」
「そんな、旦那様が。どうして」
信じられなくて、とっさに嘘だと思ってしまった。だって、孤児だなんて。この店は他所とは違う。お客様の身元をよくよく確認してから、出入りを許す。親のいない孤児がどれだけ立派な稼ぎの仕事につこうと、入り込めるほど気安い空間ではない。よほどの立場の人間でなければ。
であれば、旦那様は一体何者なのか。
「仕事は、国に仕える騎士です。実入りは良く、国から信を得ていますので、この店に来てあなたを買えました。怪しい身の上ではありません。ありませんから」
旦那様が、一度言葉を切る。しょげたように視線を落として、背を丸めた。よいせ、と長椅子に仰向けに転がったままのわたしへ、視線を近づけていく。
「そんな、不安そうな顔をしないでください」
不安そうな、と言うけれど、旦那様は、わたしが何に不安を抱いたと思うのだろう。
わたしでさえ、よくわかっていないのに。
歳の近いお姉様方からは、やっかみが酷かった。それまでの暮らしから、転落するように店で働くこととなった姉様からの当たりは特にキツく、廊下ですれ違えば突き飛ばされた。
歳の離れたお姉様方からは、励ましを受けた。うまくやりなさいよ、幸せにね、と、あとは、祈りなさい、と。ハーヴィー様の無事を。あの人に何かあれば、今の生活は一変するだろうから。
同い年や年下の娘たちが、一番敏感に、不安を纏わせ、遠巻きにわたしの様子を窺っていた。経験が浅い分、わたしの今後がどちらに転がるのか見守っているのだ。
「ねぇ、あんた、いったい何に巻き込まれたっていうの」
一番付き合いの長い娘からの問いかけが、印象的だった。
「ねぇ、ちょっといい」
息が詰まるほどの湯気の中、首までお湯に浸かって広い湯殿に手足を伸ばす。溶けるようにくつろいでいると、気風の良さが売りの姉様がお湯を分けるように寄ってきた。
「あんたのとこの旦那様、どんな感じなの?」
閨での睦言を肴に盛り上がるのは、女たちの数少ない娯楽だ。収穫があれば自分の旦那様をさらに満足させられるのだから、皆、情報収集には余念がない。向上心の強い姉様なので、みそっかすのようなわたしにも話を聞きにきたのだろう。
けれど、そのわたし自身に話せることが何一つなかった。
「なぁに、その顔。さっさと吐きな。今日で二ヶ月よ、旦那様と二ヶ月何してきたの。代わりにあたしも色々教えてあげるか、ら」
曖昧に笑っていると、辛抱できなかった姉様が、両手を伸ばしてわたしの体に巻きついた。緩く羽交い締めにされたわたしは、戸惑ったまま逃れる方法を考え始め、「ふ、ふぇ。ひぁ、ひゃあん!」自分の口から飛び出した艶めいた悲鳴に頭が真っ白になる。
おもわず羽交い締めする姉様の腕にすがり、その顔を仰ぎ見る。目が点になった姉様と、周囲の視線が痛いほどだった。
「ちょっとまって」
訝しげな、思案する顔で、姉様がさらにわたしの体をまさぐる、やだやだちょっとまってはこちらのセリフです、混乱の極致で叫ぶわたしに構わず、姉様の手つきは容赦がなかった。
「なにそれ、なにこれ、姉様? これなんですか!? ねえさま、ひ、いっっ」
何もかもよくわからない、経験したことのない痛みに、息がつまる。疑心に満ちた姉様の顔が、みるみると怒りの形相に変わっていくのが、肩で息をしながらも視界の端でわかった。
店の廊下を、風呂上がりのわたしと姉様が早足で歩いていく。先を歩く姉様は怒り心頭もあらわに、わたしは必死に引き止め追いすがるようにしてその手をつかもうとし、逆に手首を掴み返されていた。二人ともが、風呂上がりであることが明白で、さらには拭き方もそこそこにかろうじて服を引っ掛けた様子。脇目も振らず、店の奥を目指している。おばあ様の元へ、行こうとしているのだ。
「姉様待ってください! いいんです気にしないでください」
「いいわけあるか! 二ヶ月よ二ヶ月。なんなの? あんたの旦那様どういうつもりなの? あんた夜な夜な何されてんのどういう弄ばれ方してるの!? こうなりゃおばあさまに直談判よ、おばあさまの前で言い逃れなんてできないんだから」
姉様が一体何を怒っているのかわからないわたしは、半泣きになりながらおばあ様の前に立った。煙管をくわえ、煌めくちょうどに囲まれながら帳簿を眺めていたおばあ様は、突然やってきたわたしたちに目を丸くし、なにごとだい、と胡乱な顔で問いかけた。
「おばあ様、どうして部屋持ちになって二ヶ月のこの子が、生娘なのかしら。聞いても答えないのよ、どう思います?」
単刀直入に姉様は言い切った。おろおろとおばあ様と姉様を見比べて、なんだ、とぷかぷか煙を吐き出すおばあ様へ視線を定める。
「どうもこうもも、なにもないねぇ」
「……はぁ?」
「エミリアはともかくとして、あんたには前にもいって聞かせたことがあるはずだよ」
いい機会だから、あんたもよくお聞き、とおばあ様はわたしに視線を投げかける。
「ここは高級娼館。洗練された教養ある美姫が、やんごとない身分の方々をお慰めするための、王国公認娼館だよ。春を売るだけが仕事じゃあない。歌が、舞が、教養が、遊戯が、殿方を楽しませるためのもの。けれどねぇ、王国公認というだけあって、別の仕事も任される」
あっ、と姉様が小さく驚きの声をあげた。わたしはきょとんとおばあ様を見ているしかない。うちの店ではそれが当たり前すぎて、他所も似たり寄ったりかと思っていたけれど、こうも特別言い含めるということは、他所は春を売るのが主だったりするのかしら。
「ここはね、美姫を閉じ込める強固な檻だけあって、国内指折りの安全地帯。不逞の輩など、蟻一匹入り込む隙がないのさ。よって、国の要人を匿う避難所としても機能する」
そこまで聞いて、あれ、と首をかしげる。それは、もしや。
「聖騎士ハーヴィー・クラレンス。王権象徴をその身に宿す、平民出身の大英雄。ちょっとばかし厄介な相手に狙われていてね。うちで預かっているのさ」
何か、ひどく神々しい口上を聞いた。それが、自分を囲う旦那様を指す言葉など、到底信じられない。《王権象徴・黄金翡翠》。金の髪に、緑の目は、王族の証だと聞いたことがある気がする。先日聞いた孤児の旦那様と、たった今聞いた話がうまく結びつかない。
「……旦那様は、王子様だった、ってことですか?」
「いや、本人は孤児だし、平民だし、血筋の証明がなされていない。幼少期にとある貴族の後援を受け、基礎学校を卒業し、騎士になった。その後若くして目覚ましいほどの功績をあげ続け、平民の英雄と呼び声が高まり、聖騎士になっている。王権象徴を備えているために、ややこしいことになってるって話さ」
女王陛下が若すぎるのも、それに拍車をかけていてねぇ、とぼやくその顔は心底頭が痛そうだ。そんな風に、親身になって我が事のように悩むおばあ様が、なんだか珍しい。
「ちょちょちょちょおおおおっと待ってくださいおばあ様。そのお話が事実だとして、あいたっ、事実なんですよね、ですよねすみませんですけども! だったらただの部屋持ちの旦那様でよくないですか?! なんでまた顔見せ直後のエミリアを身請けするみたいに部屋に閉じ込めて囲い込んでるんです? 避難してきたくせになんなのよそれ意味わかんないわよ!! おとなしくてなさいよ!」
たしかに、とエミリアも頷いた。そんな切羽詰まった状況で、わたしだけの旦那様になった訳がわからない。ぷかぁ、とおばあ様は煙を吐き出す。んー、とその目は、わたしへと注がれた。
「ええと、じゃあ何。エミリアの旦那様は、匿われるためにこの店に来てて、女に溺れてるって見せかけのために、エミリアを囲ってるってこと? あんたたち、もしかして夜は別々で寝てんの?」
つまりそういうことよね? と姉様が問いかけるので、わたしは素直に首を振った。
「一緒に眠っています。下働きしてた頃、みんな雑魚寝してた時は、小さな娘たちとくっついて暖をとっていたので、旦那様がいない日は、夜が寂しく感じるようになりましたって言ったら、腕の中で眠ることを許してくださいました」
うわ惚気だ、と姉様が怯み、ええと、と考えるように腕を組んだ。
「……あんたの旦那様、石像か何か?」
もしかして、女性を愛せない人かしら? と呟く姉様の顔は真剣そのものだったけれど、わたしは意味がわからなくて「あったかいですよ?」と、どうも検討はずれの返事しかできなかった。
「でも結局、旦那様が何を考えてわたしをお側に置いているのか、わからないままなんですよね」
わたしがそう言うと、おばあ様の口から紫煙が鋭く出ていく。呆れたような顔で、おばあ様がわたしを見つめていた。穴があくほど見つめられて、そろそろ居心地悪く身じろぎしかけたところで、おばあ様の目が細くなり、口元がにーっと笑う。
「それなんだけどねぇ、どうもねぇ」
カン、と煙管が皿に叩きつけられる音がした。
「一目惚れ、したようだよ」
思いもよらない言葉を聞いた、その一拍後に扉が慌ただしく開け放たれる。勢い切って飛び込んできた旦那様の姿に、わたしの目が奪われた。