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 馴染みの用心棒に連れられて、お客の待つ部屋へ向かう。顔見せ直後の娘が使う部屋は、決まって一番奥の部屋だった。二人でものも言わずに歩いて、部屋にたどり着いてようやく振り返る。かつて、童歌を教えてくれた用心棒だった。

 視線で促されるようにして、自分の手で扉を開ける。薄く開けた扉の内側へ、滑り込むようにして踏み入った。

 扉を明けてすぐに中が見えないように、細い通路を数歩で抜けて、天蓋付きの寝台を目の当たりにする。わたしの初めての旦那様は、とぐるぐる考えていたはずのなのに、すぐには見つけられなかった。寝台の上には誰もおらず、軽食とお酒の用意された卓のそばにも姿はない。戸惑いながら窓を見ると、薄い紗の向こう側に、長身の影が佇んでいた。


「……あの」


 この場合、どうしたらいいのだろう。旦那様の言う通りに、と教わっていたのに、買ったばかりの娘を見向きもせずに、夜風で涼んでいる殿方の話など聞いたことがなかった。それに何より訳がわからないのは。


(しらない、ひとだわ)


 紗の向こう越しに見ただけでもわかる。姿勢、佇まい、どれもが見覚えのない男の人だった。そんなはずはない。わたしは十年以上ここにいて、広間も姉様の手伝いも長年こなしてきていて、ここを訪れる紳士の中に、一見客などいないはずなのだ。

 今日、偶々誰かの紹介で食事に訪れた人間が、偶々顔見せのわたしに目を留めて、偶々いの一番にわたしを買った。そんな偶然が立て続けに起こるだろうか。


(だって、それに、)


 長身の影が身じろぎした。ゆったりとした動作で片手を挙げ、紗を払いのけわたしの方へとやって来る。結ぶ必要はないが、少し長めの髪は麦色で、目は鮮やかな濃い翡翠だった。物珍しさに、魅入ってしまって、ハッと気付いた時には目の前にその人が立っていた。


「……あ、あの、旦那様」


 何も言わずに上から下まで視線を巡らす旦那様に、わたしは身を縮こませる。不躾にならないように、わたし自身も旦那様を観察するため視線を向けた。年の頃はどれくらいだろうか。背は高い、体格もいい。やたら格式高そうな服は、どこかの制服だろうか。疲れ切った顔をしているのが、意外な気がした。他の店はともかく、この店は身元の確かな、心にも懐にも余裕のある人ばかりが訪れるので。

 疲れ切ったその顔が、見た目をいくつも老けさせているようだった。思ったよりも若いような気がする。三十も行っていないかもしれない。これもまた、珍しい。うちの店は、人生にも懐にも余裕のある紳士方の趣味の庭だ。価格設定にしても、二、三十代の収入では気軽に手を出しにくいはず。


「……齢はいくつになる」


 初めて耳にした第一声が、それだった。低い、唸るような声。焦りと安堵をにじませた不思議な呼気に、瞬きながらも思考を巡らす。


「十五です。あの、幼い時分からここで暮らしているので。その、三歳にして発達が早く、四歳にしては遅いと当時言われて、大体それくらいだろう、と数えてきたので……」


 旦那様は、と言いかけて、失礼かしら、と口を閉ざした。でも気になる。疲れた顔で悪くなった人相を差し引くと、とても若く見えるこの人は、実際幾つの人で、なぜそんな人が顔見せ直後のわたしを選んだのか。正直とても、懐に余裕がある人には見えないのだ。


「……座ろう、食事は」


 問われたので首を振って、長椅子へ横並びに座る。少し悩んで、旦那様にぴったり寄り添うように腰を下ろした。旦那様が身じろぎして、拳一つ開けて座り直す。なるほど、とわたしは一つ旦那様を知った。

 用意されていた軽食を口にしながら、旦那様はわたしの方を見ないままぽつりぽつりと問いを投げかけた。両親のこと、ここでの暮らしのこと、仲の良い姉様の話、馴染みの用心棒の話、おばあ様の人となり、格子窓の向こうの世界の話。聞かれるままに、答えていく。両親のことは何も覚えていない。どこで何をしていたのかも知らないということ。ここでの暮らしは不自由ないこと。みんな優しく、姉様方は素敵で、用心棒たちは護衛であり見張りでもあるけれど、力仕事などでとても頼りにしていること。おばあ様の娘時代の話から、店を持つまでの武勇伝。彼女は人生経験の全てを、店の仕組みに役立てていること。格子窓の向こうの世界は、異国のように感じること。話に花が咲いたように、どれだけ話しても更にあれこれと聞いてくれることが嬉しくて、つい聞かれてないことまで話してしまう。


「店での仕事については、どう考えている」


「よくわかってないのです」


 流れるように問われて、おばあ様にも姉様方にも用心棒にも、そしてもちろん旦那様にも言ってはならない本音が飛び出してしまった。


「閨ごとは言葉で説明されるばかり、まぁ、最初の旦那様の趣向はそれぞれ異なりわからないので。最初の夜が終わると、姉様方から手ほどきを受けるそうです。必要であれば、それを生業にする殿方からも。旦那様を満足される技術は、これから学ぶ予定なのです。ですので、もしも旦那様が以後もわたしを買ってくださるのであれば、本日中に趣向をおしえ」


 目の前に皮の剥かれた葡萄の一粒が差し出され、思わずパクリと口へ含む。口に含んだ葡萄から果汁がじゅわりと染み出し、口の中が幸せになる。そこでようやく、はて、これを放り込んでくださったのは旦那様? と隣を振り仰げば、片手で顔を覆った旦那様が、ぐったりと長椅子の背もたれに体を預けていた。

 しばらく無言でその姿を眺め、自分の発言を振り返る。さーっと血の気が引いて行った。こんなお店でそんな裏話を旦那様に伝える商売女がどこにいるというのか。い、いまのなしで!!! と悲鳴を上げかけて、更に葡萄をひとつ、ふたつと押し込まれた。

 気まずくて、もぐもぐと咀嚼を続ける。気まずくて、飲み込みたくないな、と思った。思っていると、目の前で旦那様が黙々と葡萄を剥いて、次弾装填すべく準備を進めている。装填されるのはわたしの口にだが。軽食はあらかた食べ終え、食後の果物を口にするのは当然の流れではあったけれど、なぜだろう。それ以上喋るなとでもいいたげに、旦那様がわたしを見ている気がする。もぐもぐしながら、じっと、美しい翡翠の瞳を見つめていると、旦那様の手が怯んだようにぎくしゃくとした。わたしに喋るなというのなら、今度はあなたの話を聞かせてくださいな、と見つめていると、じりじりと視線がそらされていく。駄目押しのようにまた一つ葡萄が押し込まれた。


「……名乗っていなかった。私の名前は、ハーヴィーという」


 偽名だろうか。いや、真面目そうな雰囲気から察するに、こういう店で偽名を名乗ってまで遊ぶような人物には見えない。あくまで、今のところだけれど。はて、それではなぜ私は今こうして買われてここにいるのかしら、と思ったけれど、答えの出ないことは気にしないことにした。

「年齢は、二十五で、あぁそんなことはどうでもいい。君にまず伝えておきたことがある」

 二十五! あまりの若さに絶句した。今まで会ってきたお客様の中で、ずば抜けて若い。そしてどうやら、何事か事情があるらしい。そうでなければおかしいと思ったのだ、と内心で頷いていると、続くその内容に、再び絶句する羽目となる。


「君には今後、仕事をさせる気がない。選択の権利は存在せず、すでに決定事項としてのことだが、全て了承してほしい」


「……はい?」


 驚きすぎて口に含まれていた葡萄を全て丸呑みしていた。そんなことも気がつかないまま、呆然と旦那様を見つめる。


「店で仕事をしたくて仕方がない、という風ではなくてよかった。こちらの事情に巻き込んで申し訳ないが」


 一息に言って気が済んだのか、やれやれと旦那様は立ち上がり、着ているものを脱いでいく。最低限身につけた格好になって、振り返りもせず寝台へと飛び込んだ。「旦那様!?」と呼びかけたけれど、返事はない。もぞもぞと掛布の中に入り込もうとしているのがわかって、その手伝いをすべく勝手に体が動いた。動くとシャリィンシャリィンと音が連なって耳に障るが、構わなかった。旦那様をもてなすことだけを十二分に仕込まれているのだ。


「あああの、おそれながら、もう少しお話しを伺いたいのですが。それってつまり、もしや毎日旦那様がわたしのことを買われるということですか。そんなことが可能でしょうか?」


 何度も思うけれど、懐にも心にも余裕があるような人には思えないのだ。その若さでこの店に来るのなら、それなりの家の子息だとか考えられるけれど、そういう裕福な貴族としての振る舞いにも見えない。葡萄を剥く慣れた手つきや、それを押し込む際に唇をかすめた指先は無骨で、硬い、働く男の人のものだ。ということはつまり、やはり労働を対価に賃金を受ける立場の人間ということで、ということはやはりこの店に通うには確実に少々……


「失礼なことを考えているのはわかるぞ」


 寝台に突っ伏した旦那様の隣に膝をついて、はわわと覗き込んでいると、枕に顔を埋めた旦那様がこちらを見てもいないのにそう言った。その声が優しく、そして疲れている様子で、わたしが身じろぎするたびにシャリィと響く鈴の音が耳障りじゃないか酷く気になる。


「その服は、もしやとてもではないが眠りにくい?」


 わたしが着ているものを初めて意識した、というように、旦那様が体を起こした。寝台の上で膝を突き合わせている状況に、なんだろうこれは、いや、間違ってはいないのか、などと考えていると、旦那様の手がわたしの衣装に触れる。

 顔見せのための特別な衣装は、確かに、寝にくい。というより、そもそも着たまま寝ることを想定していない。薄布が幾重にも重ねられた衣装はかさばるし、いたるところにつけられた鈴は寝転がるときっと痛いだろう。

 その代わり、脱ぐのもひどく簡単な構造になっているはずで、ただその下にはほとんど何も着ていないのと同然で、などと思った途端、すっと肌寒さを感じた。続けて別のうわ掛けを巻きつけられ、転がされる。ハッと気付いた時には、傍で横たわる旦那様の背中があった。反対側には、顔見せ用の衣装が丸まって転がされている。


「風邪をひかないように」


 そう言って、やがて寝息が聞こえてきた。心底疲れているのがわかって、これ以上はやめようと思う。もう何が何だかわからなくて、疲れているのはわたしもだ。結局、明日からどうなるのか? そんな、明日になればわかることを今考える必要はないだろう。

 問題を先送りすることに決め、わたしは掛布にくるまりなおし、目を閉じた。





 うわああああああ……。


 かすかな悲鳴に意識が浮上して、身近な温もりに思わず身を寄せた。すり寄った先の何かに違和感を覚えて、はた、と目を開ける。一瞬にして前日の夜を思い出し、あぁ、と納得する。昨夜、満足に役割が果たせたとはとても思えないけれど、ある意味心の準備をしていたものと近い状況を朝日のもとで確認した。これはこれで問題ないはずなのだと納得する。なぜ旦那様の腕枕で、胸元にすり寄って、足を絡めて目覚めたのかなどと、考えるだけ無駄だろう。だってここはそういう店で、わたしはそういう仕事をこれからするのだから。

 たとえ、旦那様が枕にしていないもう片方の手で顔を覆って、声にならない悲鳴を叫んでいたとしても。


「……おはようございます、旦那様」


 挨拶は大事だ。たとえ一糸まとわぬ姿であっても。寝ている間のこととはいえ、両手を旦那様の背中に回して密着していたとしても。

 何も言わず、飛び起きた旦那様はわたしを掛布で包んだ。結局、旦那様がどういうつもりでわたしを買ったのか、いまだによくわからない。

 掛布に包まれて、わたしは寝台に座り込んでいる。その真向かいで、旦那様が片膝を立てて座り、両手で顔を覆っていた。


「……旦那様には、物足りなかったでしょうか」


 これでも、年の割に発育はいいはずなのだ。食事も、下働き時代は粗食とは言わないが贅沢には食べられない。腹回りに余分な脂肪はなく、想定以上に胸周りの成長は早かったと思う。それでも、役割を満足にこなせれなかったということは、旦那様の趣味嗜好とわたしが噛み合わなかったということだろう。

 なんとなくしょんぼりとして、肩と視線を落とし、くるまった掛布の端をいじった。


「……君は、」


 何事かいいかけて、旦那様は言葉を飲み込んだ。


「こちらの事情だ。君は今後私とだけ、夜を過ごしてくれればいい」


 手元に視線を落としたまま、聞こえた言葉を反芻した。瞬きを繰り返し、考えて、ゆっくりと顔を上げる。 


「ほんとうに?」


 ほんとうのほんとうに、この人はわたしの今後を買い取ったということだろうか。当然、わたし自身を買い上げた訳ではないだろうから、いつか終わりは来るのだろうけれど。


「……支払いは済んでいる。君は部屋持ちに、いや、この場合私の部屋になるのか。私と君は、毎晩決まった部屋で夜を過ごす。私が店に戻れない日もあるだろうが、それでも君が他の客の相手をすることはない。また、この店でいう『最初の夜』を君は終えたことになっているが、『手ほどき』や『仕込み』といったことの一切を許可しない。……私は君の、『たった一人の旦那様』となります」


 部屋持ちは、売れっ子の姉様が部屋を与えられることからそう呼ばれる。けれどごく稀に、旦那様の方が部屋を持つこともある。羽振りのよい旦那様は、定宿として店を宿とし、部屋を持つのだ。部屋代は最初にまとめて、夜の相手や食事の世話を頼むときは、都度娘を選んで、その格に見合ったお金を支払う。この店のお客は懐に余裕のある上等な紳士しかいないからこそ、成立つ制度だ。

 けれど、わたしの身に起きているこれは、それとも様子が違うようである。これはまるで、この旦那様とわたしのためだけに用意される部屋のようだ。身請けのようだけれど、昨夜店に出たばかりの私は、身請けされる権利がまだ存在しない。こういった店にいる娘たちというのは、誰もが多かれ少なかれおばあ様へ借金をこしらえている。わたしは物心つく前からここにいて、下働きから地道に返済と借金を繰り返してきているので、売られてすぐに店に出るような悲惨な境遇の娘とは借金の額が違うが、それでもだ。そういう娘は、自分が売られた金額と、すぐに店に出されるために用意された衣装や装身具、化粧品代が上乗せされ莫大な借金となる。お客を取れなければ、日々の食事代も上乗せされていく。その借金の全てを肩代わりするのが身請けかといえば、そうでもない。親が子ども売ったり、捨て子を拾った保護者が売ったりは認められているが、店側が他者と娘をお金でやり取りするのは規制が厳しい。奴隷制度も人身売買も、基本的には認められていないからだ。

 店で働く女たちは、自分たちの借金から決められた割合の金額を店に収める。身請けしたい旦那様は、その分を納め終わってる女しか身請けできない。また、身請けというのはつまり、妻にするということだ。第二夫人、愛人、妾、呼び方はそれぞれで、その結果身請け先で奴隷のような扱いになることはあるけれど、少なくとも旦那様は身請けした以上その女を、勝手に他人へと手放す権利がない。身内であっても手続きをせずに下げ渡しが発覚した場合、どんな身分の人間でもきつい処分を受ける。

 というわけで、つまりわたしは、少し珍しい状況となっている、ということになる。数年働いていれば身請けを得られるようにはなると思っていたけれど、こんなヘンテコな状況は想定していなかった。ハーヴィーと名乗った年若い旦那様とは期間限定で、なにやら事情があってのことだと考えられる。でも、この関係が解消されるのはいつのことだろう。その頃には身請けされる権利を持つことができるようになるだろうけれど、旦那様を他に取れないということは、顔つなぎができないということだ。広間での給仕くらいは許される範囲だろうか。まだこの仕事が向いているのか嫌気がさすのかもわからないうちに、身請けされるかどうかの将来が潰えるとは考えてもみなかった。


 そんな風に、ぐるぐると考えた最初の朝。その悩みが、全て無用のものだったと薄々感じ始めるのに時間はかからず、また、確実に無用のものだったと確信に至るのは、それからさらにすぎた頃のことだった。


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