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物心ついたときから、お店にいたわ。最初は下働きで、次は姉様方のお付き。やがて姉様方の真似事のように色々な勉強をするようになって、あぁ、自分もそのうち、姉様方のようにお店に出るのだわ、と思うようになった。
明け方近くになって眠って、お昼前に起き出して、夕方になればお客をとって請われるままに歌い、舞い、楽を奏で、夜には一緒に閨に入る。それを夜毎繰り返して、毎日違う殿方と褥を共にする。
女として一人前になると、そんな風にお客を取るようになるのだという。優しい姉様方は言い含めるように、心の準備をさせるように、私に繰り返し唱えた。怖くはないこと。間も無く馴れるということ。よその店に比べれば、ご飯も美味しいし、暖かい布団で眠れるし、何より上客ばかりで恵まれていること。
普通の人間と比べて、より一層多くの人から愛されることが、何より幸せだという姉様もいた。
寝起きに身支度をしながら、ふと、きゃらきゃらと無邪気な笑い声に惹かれて、格子窓の外を覗き見た。お店が開く身支度前、お店に出る前の女児が店の外から見られると問題が起きることがあるため、おばあ様に知られると大目玉をくらうのだけれど、その時はそんなこと忘れてしまっていた。
わたしと同じ年頃の女の子と男の子が、手と手を取り合い、路地の合間を縫って走り抜けていく。昼日中の陽光の中、光の中に消えるようにして遠ざかる後ろ姿を、格子窓のこちら側から見送った。身なりからして、この辺りの子どもではないだろう。もっと、幸せな家族がいるような、そんな二人だった。度胸試しか、迷い込んでか、ともかくわたしとは縁のなさそうな、物語のような二人。
年の頃も同じ、服を着て、食事をして、しゃべる言葉も、きっとわたしとおんなじ二人。
わたしと、あの子たちの、何が一体違うというのかしら。
きっと、そんなこと、チラとでも考えてはいけなかったのに。彼女たちは異国の人。同じ王国に住んでいても、格子窓の向こうとこちらは違う国。こちらの国には、女たちの世話をするおばあ様がいて、店の主人と御方様が君臨する。格子窓の向こうには、神殿に並び権力を持つ白の一族がいて、迫害される魔法使いの黒の一族がいて、少し前の戦では、赤の一族がとうとう根絶やしにされたらしい。未だ不安定に揺れる王国の頂点に君臨するのは、それはそれは美しい、金の髪を持つ女王陛下。異国のことでも、噂はそんな風に伝え聞く。知っていたとしても決して関わりのない、近くて遠い場所のこと。
「おばあ様、お呼びでしょうか」
姉様方を取りまとめる、おばあ様。わたしたちの、おばあ様。決まりに厳しくて、どんな事情があっても融通なんてきかせてくれないけれど、でも、その決まりがわたしたちを守るためにあることくらい、みんなが知っていた。一つの例外を作れば、全ての姉様方が軽んじられて、無体を強いられる恐れがあることを、おばあ様が何より知っているのだ。かつて用心棒をこなしていた下働きのおじいさまが、教えてくれる。
刻一刻と宵闇迫る夕焼けの中、わたしはおばあ様に呼び出された。
「明日から、店に出な」
表情のなく、平坦な声で、おばあ様はそう告げた。
お店の奥の、おばあ様の部屋。用心棒に連れられて、自分の部屋からここまできた。おばあ様の部屋はいつも紫煙でけぶっていて、せっかくの素敵な調度が霞んでいる。朱色の飾り棚や、鮮やかな青玉の置物、特別な時だけ燻らせる、細工が美しい煙管は、一等目立つ場所に鎮座まします御神体のごとく飾られていた。
目を奪われるほど煌びやかな小物たちに囲まれて、たった二人きり。普段使いの煙管をくわえ、しどけなく横になっているおばあ様の前。用意されていた椅子に、ぽけっと間の抜けた顔で座ったわたし。
「あしたから」
まぬけ顔のまま、鸚鵡のように繰り返す。おばあ様につられて平坦になった声に、どんな表情を浮かべているのか、自分でもわからなかった。
今は夕方で、今晩お客をとった姉様の支度を手伝って、これから食事だけのお客様を楽しませるため、広間を回る予定だったけれど。
こてん、と首を傾げてみせる。
「では、今日はこれから、顔見せですか」
新しく店に出ることを周知させるために、特別な衣装で店に出る。お客の出入りが多い入り口の近くで、格子に囲まれて、往来からも見える場所で、顔と芸を披露する。わたしは舞も楽器も得意ではないけれど、姉様方から唯一及第点をもらえた歌がある。もっと早く聞いていれば、喉の調子を整えられたのに。姉様方の支度が済むとさっさと帰ってしまう腕利きの化粧師はまだつかまるかしら。衣装の着付けを頼める女児は、どこにいるかしら。
段取りをくるくる頭の中で考えていくけれど、おばあ様の煙管がカン、と皿に叩きつけられた音にハッと我に返った。
「馬鹿だね、顔見世は明日だよ。そのまま、お客をとってもらう。今日はもう下がりな、明日は忙しくなる」
傾げたままの首が戻らず、わたしは二度、三度と瞬いた。なんだい、まだ何かいうことがあるのかい、とおばあ様は目を眇める。
「そんなにすぐに、お客様がきますかしら」
お店に来るのは上客だ。上客とは、常連で、一見客はまず来ない。誰かの紹介、誰かの連れ、ひっそりと密やかに楽しまれる、お金のある紳士の娯楽。うちは、そういうお店だもの。新しく店に出る少女、というのは、まずハジメテなのだ。そういうものを特別好む趣味の人はいるけれど、うちの店に来る紳士方は、酸いも甘いも噛み分けた、人生経験豊富な方々。大抵、なれた大人の美女との駆け引きを楽しむ。
なので、うちの店では新人が客を取ることは難しい。馴染みの姉様との時間を取れなかった常連客が、つまみ食いのように取ることもあれば、広間のお客様に自分から売り込む子も。お客を取ることに慣れるために、用心棒の中から買ってくれそうな親しい相手を選ぶこともある。……昔馴染みの用心棒とそういう関係になると、悶着が起きやすいので避ける子も多いけれど。
ともかく、顔見せにでたその日にお客を取るのが前提のようなおばあ様の言い方に、首は傾げられたままだった。おばあ様は無表情のまま、わたしをじっと見つめていた。何か言う気配もない。もう、彼女が言うべきことは言い終わったということなのだろう。背後を振り返る。帰りを促すように、部屋の外に立っていたはずの用心棒が、部屋の中に入ってきていて、わたしを見下ろしていた。
「かしこまりました。仰せのとおり、今晩はこのまま部屋に下がり、明日に備えます」
椅子に座ったまま、膝に両手を揃えて、深くお辞儀をする。立ち上がるときに、足が震えないように力を込めた。用心棒の前を歩く。用心棒は、護衛だけれど、見張りでもあるのだ。こういう宣告をされたときに、逃げ出す娘を逃さないため、必ず後ろをついて歩く。視界から外さぬよう、じっと見張っている。
「どこに逃げろというのかしら」
物心ついたときからお店にいたわ。両親なんて知らない。名前しか持ってない。その名前も、店に出れば違う名前を名乗るようになる。いくあてなんてどこにもないのに。
足を止めて、振り返る。ついて着ていたのは顔なじみの用心棒だ。わたしは物心つく前から十年以上お店にいるので、大体の従業員が馴染みの人間で、彼はわたしが下働きの頃、お手玉を教えてくれた人だった。
「わたしが困って逃げ出して、その行き先といったら、このお店だと思うのよ」
ここが故郷で、ここが家だ。外なんて知らない。格子窓の向こうは異国で、興味もわかない。ただ、どんな違いがあるのかしらと、思ったことがあったけれど。
せっかく話しかけたのに、用心棒は肩をすくめて見せただけだった。
翌日のことを思えば眠れないかとも思ったけれど、その日はこんこんと眠りについた。それなりに、無意識への衝撃は大きくて、ひどく緊張していたのかもしれない。目覚めはひどくて、のろのろと身支度をして食事をするうちに、瞬く間に時間が過ぎていった。
初めて、お店のための支度をしに、夕方の支度部屋を訪れる。姉様方の手伝いではなく、自分自身のために。わたしの支度をするための用意は整っていて、わたしよりもずっと小さな娘たちが下働きとしてくるくると走り回っていた。
まずはお湯を浴びにいく。等級の低い姉様方は自分で準備の大半をこなさなくてはならないけれど、顔見せの今日は、至れり尽くせりだった。上級の姉様のようにたっぷりのお湯に浸かって、たっぷりの髪を娘たちに洗ってもらう。
「お姉様の髪は綺麗ですね」
「波打つ豊かな紅茶色」
「どんなお衣装を着ても華やかで、素敵です」
笑ってください、お姉様。娘たちは無邪気にいう。
湯殿から上がると、丁寧に素早く拭き上げられて、最低限を身につける。ほとんど着ていないようなものだけれど、丁寧に丁寧に髪も体も磨かれて、香油を塗り込められて、髪を結い上げられる。
「化粧師の方の順番待ちなので、座って待っていてくださいね、お姉様」
「あの人、お姉様の顔見せの時は自分が手掛けなければ許されない、などとおばあ様へ無理を言っていたのですよ、お姉様」
「顔見せの衣装は決まってますので、装飾品を選んでいてくださいね、お姉様」
「琥珀がおすすめですよ。お姉様の瞳と同じ色ですから、一番似合います」
「おねだりもしやすいですよ、お姉様」
お姉様、と呼ばれているのは自分であることに、少しして気がついた。店に出るようになれば、名前で呼んでくれていた子たちがみんな、わたしのことをお姉様と呼ぶようになるのだ。いずれそんな日が来るとわかっていたけれど、なんとなく寂しい。小さく笑って見せれば、娘たちがコロコロとはしゃいだ。
「あっ、その顔素敵ですよお姉様」
「そのお顔で歌ってください、お姉様。顔見せ時の絵姿はこれで行きましょう。きっと売れます」
「顔見せをそのお顔で歌って、絵姿を売り出して、閨の時にこんな顔ができるのは、あなたの前でだけですよって囁けば、間違いありませんよ、お姉様」
商魂たくましい娘たちに瞬いた。続いて笑いがこみ上げてきて、くすくす笑う。わたしなどよりも、ずっと駆け引きを心得ている彼女たちに、胸の内を軽くしてもらったような気がした。
シャリィン、シャリィン、と鈴がなる。白の衣装のそこかしこにつけられた鈴は、顔見せの娘のための、特別な衣装だ。透けるほどの薄布を一枚、一枚と、重ねるようにして身にまとわせ、普段であれば閨でなければ見ないような身体の線が透かし見える。それが、往来からも見えるのだから、どうしたって視線を集める。加えて鈴を鳴らしての歌と手振りの披露となれば、話題をさらうのは一瞬だった。
心を込めて、歌を歌う。知っている歌は、姉様方や用心棒たち、若い衆から教わった、お店のための歌。まだ見ぬ素敵な殿方に向けた恋の歌だけれど、実体験を伴わない歌声は、どこか空虚に響かないだろうか。無垢で、真摯で、すれてなくてそこがいいですよ、お姉様、と娘たちは手を叩いて喜んでくれたけれど。
最初の一曲を歌い終わって早々、緊張しすぎて飲み物を飲んでいると、物音がして、振り返り、心臓が凍る。顔見せ部屋の格子の一角、扉のようになったその場所が開け放たれた。用心棒を連れたおばあ様が、ひっそりと佇んでいた。
「エミリア」
店に出る用ではなく、物心つく前から持っていた、唯一両親が残したその名を呼ばれる。それが、呼ばれる最後なのだとわかった。
「お客だよ。部屋へ行きな」
心の準備もできていないまま、いずれその時が来るとわかっていたのに、ひくりと喉が引きつった。