謎の男
『そこには、あまりにも悲しい女性の生き様があった。
復讐に燃える信樹の振り上げた拳は…… 』
前半のストーリーも楽しんでいただけると思いますが、クライマックスは後半です。
血がつながらない、籍もつながらない義父に育てられた芝山麻耶の真実が、怒りに震える信樹を……
亜紀子は心身ともに疲れていた。
どうも思うようにことが運ばない。亡き父の後を継いで高坂グループの社長に祭り上げられたものの、重役たちの思いに振り回され、暗闇の中でただもがいているような感じがしてならなかった。
彼女は車を止めてもらい、しばらく公園で考えこんでいた。この公園は、幼いころ、父が忙しい合間によく遊んでくれた記憶がある。
七月の初め、昼下がりのこの公園は、日差しが眩しく、陽光は充満していたが、人がいなくて寂しささえ漂わせている。
彼女が大きくため息をついて、静かに遠くを見つめていた時、一人の男が隣のベンチに腰掛け、コンビニで買って来たのだろう、おにぎりをおいしそうに食べ始めた。
亜紀子が、ふと目を向けると
「腹減っているの?」と聞いてきたので
「いいえ、大丈夫です」と彼女は答えたが、その男はジーンズに長袖Tシャツ、足元は裸足にサンダルで、服装からはみすぼらしさを感じたが、瞳は大きくきりっとした顔立ちで、その服装には似合わない表情を呈していた。
おにぎりを一口食べた彼は、亜紀子の方を向いて話し始めた。
「あのねえ、考えているだけじゃ何も変わらないよ。何か一つ、たった一つでいいから変えることができたら、そこから、流れが変わることがよくあるよ」
「えっ」
彼女は驚いたが、最後まで聞き入った後、小さく目で頷くと再び一点を見つめて考え始めた。
しばらくして、彼は立ち上がって亜紀子の前へ来ると、おにぎりを一つ差し出した。
「はい、これでも食べてみて! これだけでも何か変わるかもしれないよ」
「あっ、はい、ありがとうございます」
はっとして、一瞬驚いた彼女が顔を上げてお礼を言うと、男は鼻歌を歌いながら去って行ったが、彼女は断りもしないで受け取ってしまった自分を不思議に思っていた。
( コンビニのおにぎりなんて、何年ぶりだろう…… )
彼女はそう思いながら包みを丁寧に開き、一口食べてみた。
「おいしい! こんなにおいしかったんだ」
独りごとを言いながら、少し微笑むと透き通るような空の青さに目を向け、大きく息を吸い込んだ後、静かにそれを吐き出した。
翌日、亜紀子はもう一度あの不思議な男に会ってみたいと思ったが、その日は雨であった。
その三日後、もしかしたらと思い、彼女は同じ時刻に公園へ出向いた。
手前で車を降りてしばらく歩くと、公園のベンチに座って何かを考えている様子の彼が目に入った。
亜紀子は近寄りながら
「あのねえ、考えているだけじゃ何も変わらないよ……」
彼に向って微笑みながら話すと、驚いて振り向いた彼は
「おっ、少し顔色がよくなったねえ、おにぎりのおかげかな」
その男は静かに微笑み返してきた。
「今日は、もう、おにぎりはないんですか」
「まだ買っていないんだよ。ごめんね」
「とんでもないです。それじゃー、どこか、おいしいいラーメン屋はありませんか?」
無意識の内に言葉にしてしまった。
「えっ、ラーメンが食べたいの?」
「はい、たっぷりねぎをトッピングして、おいしい、しょうゆ味のラーメンがいいですね」
彼女は話にのってくれそうなこの男に少しウキウキしていた。
「そう、じゃ、行こうか。歩いて5分ぐらい…… あっ、ご馳走してくれるんだよね?」
「もちろんです!」
笑顔で亜紀子が答えると、その男も微笑んで小さく頷いた。
二人が並んで歩き始めると、この組み合わせはどうも奇妙だった。
男は、ジーンズに長袖のTシャツ、足は素足にサンダル、女性は細身の体系に紺色のスーツがよく似合って、身に着けているものは高級感が漂い、普通のOLでないことだけは見て取れる。
落ち着いた大人の女性をイメージしているのか、髪はアップで右で分けた前髪が少し目にかかっていた。
しかし、大きな瞳は、まだ、どことなくあどけなさが残っていて、その髪型にいくらか無理があるような印象を受ける。
「仕事はしていないんですか?」沈黙がいやだった彼女がさりげなく尋ねると
「こんな時間にプラプラしている人間に、それ聞きますか?」
彼も笑顔で聞き返してきた。
「ごめんなさい……」亜紀子は少し気まづくなって俯いたが
「ごめん、ごめん、責めたつもりはないんですよ。でも、それ聞かれると答えに困るんですよ。確かに仕事はしていないけど、でも稼ぎたい時には稼ぐことができるし、食べるのに困っているわけでもない。まあ、パチプロみたいなものですね」
彼はあっさりと言ったが、話し方で、相当な場数を踏んでいるのがよくわかるし、何か得体の知れないものも漂わせていた。
( いったい何をしているのだろう、悪い人でないことだけはよくわかるけど…… )
亜紀子がそんなことを考えている時
「何か、たくさん重いもの、背負ってるみたいだね……」
突然、彼が探るように彼女の背中を見ながら言うと
「わかりますか?」ふと会社のことが脳裏をかすめた彼女だったが、平静を装って尋ね返した。
「何となく、気の毒だなあって思うよ」
「……」亜紀子は無言で微笑んだ。
「まぁ、おいしいラーメン食べたら元気がでるよ!」
そんなことを話しながら店へ入ると、彼は
「醤油ラーメン二つね、どちらもネギ、トッピングで」と注文した。
しばらくして、ネギが山盛りにされたラーメンが2つ運ばれてくると、亜紀子はネギに圧倒されながらも、ラーメンを口にした。
( おいしい、久しぶりだなー )
一方、隣の席でラーメンを口にしながら、彼はこの女性に興味を持ち始めていた。
( 髪形と服装に不釣り合いなあどけなさの残る大きな瞳、加えて全身から漂う重苦しい気配、何をしている娘だろう、まだ二十代半ばか? 三十はきていないよな…… )
彼はそんなことを思いながら、興味本位で
「俺の携帯、教えておくから、何か食べたくなったら電話して!」
そう言って携帯を取り出した。
亜紀子も言われるままに携帯を取り出し、番号を交換した。
「俺は西堂信樹。君の下の名は? 上はいらない」
「えっ、亜紀子……」
彼女は微笑んで答えたが、どこか物悲しさは否めなかった。
ラーメン店を出た信樹は「ごちそう様、じゃっ」と、軽く右手を上げると振り向いて静かに去って行った。
不思議な男であった。そぶりには見せないのに、自信満々で、意気揚々と語る彼の言葉一つ一つには重みがあった。
正直言って、会社は自分がいなくても回っていく。それが十年後、二十年後に亡くなった父の望まない所にいるかもしれないが、続いていくことだけは確かだ。
もう私が頑張らなくても、このままでもいいのではないか、あとは重役たちが話し合えばいい、そんな弱気な思いが彼女を押つぶそうとしていた時だっただけに、信樹との出会いはどこか新鮮で、興味深かった。
( 今度は、どこへ連れて行ってもらおうか…… )
むしろ、こうしたことを考えるだけで、心が穏やかになって気持ちが楽になった。
彼女は何か食べたくなると信樹に電話をしたが、お好み焼にたこ焼き、うどん、あるいは焼き肉など、彼は安くておいしい店をよく知っていた。
食事を重ねるたびに、亜紀子は信樹への興味がますます深まっていくことに喜びを感じていた。
ふとした時に、垣間見ることができる彼の人生観、あるいは経済理論、時には政治概念が見え隠れすることもあって、その知識と知恵は、決してその風貌と釣り合っていなかったが、そのことがかえって彼の魅力を引き立てていた。
その電話はいつ頃からか、何かを食べたいというよりは、信樹に会いたいという思いから、ダイヤルされることが多くなっていた。
そのうちに二人の会話からは堅苦しさが消え、お互いに遠慮することなく、穏やかで慣れ親しんだ雰囲気を醸し出すようになっていった。
八月も終わりに近づいたある夜、焼き肉店でのことであった。
この日はアルコールが入っていることも手伝って
「ねえ、どこに住んでるの?」亜紀子は気になっていたことを思い切って尋ねてみた。
「どこって、ここから5分ぐらいの汚いアパートだよ」
信樹は他人事のように答えた。
「へえー、その汚いアパート見てみたいわ」少し酔いが回っている。
「君みたいなセレブが来るところじゃないよ」
「そう…… あなたね、どうして私があなたに興味を持っているのかわかる?」
亜紀子は意味ありげに尋ねた。
「さあ、どうしてだろうね…… あっ、イケメンだからじゃないか! 」
「はあー、それ言う? 普通は、優しそうな人だからとか、面白いからとか、そう言うんじゃないの!」
「でもさー、興味があるんじゃなくて、ほんとは惚れてるんじゃないの?」
「おもしろいわね…… でもそうかもしれないわね」
ほんの少し真面目になった亜紀子に驚いた信樹は
「はははっ、冗談、冗談」と笑いながら流れを変えようとした。
「シリアスになると逃げるのね」今までとは少し違う雰囲気で彼女が言うと
「そうじゃないけど、似合わないよ。それより、さっきの興味の話しはどうなったの、どうして興味があるの?」
「まあいいわ、今日はここで許してあげる」
「おいおい、興味の話しはどうなったの ?」
「上手に話しを戻されたわねえ、でもいいわ。それはね、あなたからあふれ出ている知識とか知恵とか、そして豊かな経験、それらがあなたのその風体と完ぺきに不釣り合いなのが、とても楽しいから……」
「なんだよ、それ!」信樹は少し鼻で笑った。
「あなたのその姿は、本当は世を忍んでいるんじゃないの。あなたは実はどこかの大企業の御曹司で、人生を勉強するために身をかくして、そんな恰好をしているじゃないの!」
酔いのまわった亜紀子が面白く言うと
「ははははっ、おもしろい、なかなかおもしろい、君は小説家なのか」笑いながら信樹も対応した。
「でも、アパートへ連れてって、見てみたい」
( 面白い女だなあ…… ) 彼はそう思って、
「いいよ、泊まりたければ泊めてあげるよ」笑いながら言ったが
「ごめん、それは遠慮しとく」亜紀子も微笑んで答えた。
「そう、それは残念!」
店を出ると、亜紀子は会社のことは忘れて二十代の女性に戻っていた。
「右? 左?」彼女はとてもうれしそうにはしゃいでいたが、アパートに着くと、二階への階段の上り口で
「想像していたより、かなりいいわよ」
そう言ったものの、その言葉とは異なる表情を呈していた。
瞬時にそれを悟った信樹が
「ここで止めとく?」とやや蔑んだように尋ねたが
「どうして? 行くわよ!」
彼女は階段を昇り始めた。
亜紀子は部屋に入ると、建物の外観に似合わない異質空間に驚いた。そこでは四台のパソコンのうち三台が、その色合いを変えながらせわしく動いていた。
「株なの?」
「そう、今は先物の夜間が動いている」彼が画面を見ながら説明する。
「へえー、トレードで食べてるんだ。それで、いつも自由出勤なんだ」
「今は、何も考えずに静かに流れを待っている」
「流れ? 株の?」
「いや、人生の流れ……」信樹の口調がやや沈んだ。
「ふーん、難しそうね、私との出会いは流れじゃないの?」
「どうだろうねえ……」
「私のことは、何も聞いてくれないのね」
「まあ、大変な人生、歩んでるみたいな気がするから、あまり巻き込まれたくないな、って気もするし……」
「気もするし……の後は?」
「うーん、君が言わないから……」
「そうね、私自身も迷っている。何かわからないけど迷っている」
亜紀子は、静かに、しかし訴えるように話した。
「ふーん、糸が絡まりそうだね。だけど、話してみる?」
「ありがとう。でも今日は止めとく。少し、気持ちが乱れているから……」
しばらく考えて亜紀子は答えた。
彼女はまだ信樹のことを何も知らない。今日はじめて彼がトレードで食べていることを知っただけである。
しかしそれも疑わしい、彼の実態は何もわかっていない。
ここまでどんなことをして生きて来たのか、彼には家族がいるか、彼女は信樹のことをまだ何一つとして知らない。
でも人に魅かれていくということは、こんなものなのかもしれない。
何も知らなくても時を重ねるたびに、彼に対する思いが信じられないような速さで大きくなっていることを彼女は感じていた。
ただ彼女は日々大きくなっていくその信樹への思いが、信頼なのか、恋なのか、あるいは安らぎを求めているだけなのか、全く分からず、その心は迷路をさまよっているかのようであった。
その二日後のことであった。
亜紀子は、相変わらず憂鬱で、ただ一人、暗闇の中で何かを探しているような感覚から抜け出すことができないでいた。自分でも何を探しているのかよくわからなかった。何かをどうにかしたいと考えているわけではなかったが、何を考えてみても糸口が見つからず、全てが漠然としていて中途半端になってしまい、もう気持ちは相当に疲れていた。
彼女は、その苦悩が大きくなるにつれて、さらに大きく浮かび上がってくる信樹の笑顔がとても愛おしくて、身動きがとれない中にあって、もう手繰り寄せることができる糸は彼しかないような気がしていた。
しかし、彼のことは何も知らない。場合によっては、会社の恥をさらすだけで済んでしまうかもしれない。
最悪の場合は、一緒に食事をするという彼女の唯一の喜びも失ってしまうことになるかもしれない。
彼への信頼は、彼女の単なる個人的な感性によるものでしかなかった。
でもそうした葛藤は、既に決まっている答えを正当化するためのものに過ぎなかったのかもしれない。
いずれにしても、彼女はその思いに引かれて、身動きが取れない現状を彼に話してみることに心を決めた。
( そこから何か始まるかもしれない。とりあえず、一石を投じてみよう…… )
信樹は昼前に、亜紀子からの電話を受けた。
『ねえ、高坂グループ、知っているでしょ?』
『ああ、知ってるよ、あっ、そこの社長さんか、君は……』
『そうです。黙っていてすいません。でも、もう参っています。助けてほしいの。急で申し訳ないんですけど、午後、いつでもいいから、会社に来ていただくことはできないかしら?』
『行ってもいいけど、俺は会社員にはならないよ』機械的な言い方である。
『もちろんです。わかっています』
『それならいい、じゃあ、二時頃でいいかな?』
『はい、待ってます。お願いします』亜紀子はとりあえずは安堵した。
( 高坂の社長だったのか、驚いたなー、あそこは若い女社長だということは知っていたが、彼女だったのか……
まぁ、普通のOLじゃないとは思ってたけど…… )
信樹もさすがにこの日はスーツに身を包んだ。
久しぶりであった。
( もう二年ぐらい着ていないか…… )
彼はそんなことを思いながら、とりあえず、高坂グループへ向かった。
彼は人生の流れを大切にしていた。
だから、亜紀子との出会いも決して単なる偶然とは考えていなかった。この出会いには必ず何か意味があって、それがここからどのように流れて行くのか、彼はそれを見極めようとしていた。
加えて、2年半に及ぶ隠遁生活にも少し嫌気がさし始めていた時だったので、久しぶりに何か楽しめるかもしれない、そんな期待に少し気持ちが高まり始めていた。
会社の受付で名前をいうと、丁重に社長室へ案内された。
「お忙しいのにすいません」亜紀子は相当に疲れているようで、どこか悲壮感が漂い、哀れな感じさえした。
「忙しくないのは、知ってるでしょ」
彼は亜紀子の笑顔が見たかったのだが、ドアのかすかなざわつきに気が付くと、さらに続けた。
「ここの秘書は、盗み聞きするのかい?」
ドアの向こう側に聞こえるように言うと
「えっ」驚いた亜紀子が、ドアの鍵をしめ、奥の密談室へと入って行った。
「とりあえず、状況を教えてくれる?」彼は部屋へ入ると説明を求めた。
亜紀子は、一年前社長の座に就いたいきさつを説明した。
亜紀子が社長に就任すると、企業としての混乱はおさまり、平静を取り戻したかに見えたが、しかし、ここにきて専務と常務が急接近し、先代からの付き合いが長い下請けのシェアーが下がっていて、かつて専務に収賄の噂のあった企業との付き合いが再燃していること、加えて、先代社長から信頼の厚かった広報部次長を部長に昇格させたいのだが、この人事案件がどうしても通らないこと等を詳細に説明した。
「株主は、どうなってるの?」信樹が尋ねた。
「自社株を除くと、私と母で三十一%、メインバンク五%、親族が四%、関連企業が十五%、大株主が1名十五%、あとは浮動株…」
亜紀子が明確に答えると、
「大株主って誰?」
「確か、渡洋子さんていう資産家」
信樹は、渡洋子が十五%所有していることの確認をしておきたかった。
「とりあえず、次長の部長昇格の指示を出してみたら!」
「それは、何度も失敗していて……」
不安そうに亜紀子が言うと
「一度、その次長さんに会わせてくれないかな?」
「ええ、ここに来てもらえば、いいかしら?」
「お願いします」
5分後、次長が社長室へやってきた。
身長百六十㎝前後、やや細めの、色白で鼻筋の通った女性であったが、目つきは鋭く、一目で切れ者だということがわかる。
年齢は四十三歳、独身らしい。
「初めまして、西堂信樹と申します。社長の友人です」
信樹が手を出したが、彼女はその手を取らず
「広報部次長の高取彩と申します」静かに、深々と頭を下げた。
少し骨のありそうな人なので、彼はうれしかった。
とりあえず、亜紀子が現状打破の第一歩として、彼女を部長に昇格させる人事案件を通したい旨を伝えると、彼女にも社長を支えるためには早くポストにつきたいという思いがあったようで彼の話に真剣に耳を傾けた。
「今まで、何度も専務に阻止されているようなので、今回は私がシナリオを作ります。あなたにお願いしたいのは、このことで、たとえわずかでもあなたに不当な力が働いたら、直ちに社長へ連絡いただきたいのです。今後、社長への連絡は、全て個人の携帯でお願いします」
「……」彼女は静かにうなずいた。
「ところで話はかわるんですが、あの…… 西堂さんはどのような字を書くのですか?」
「西に、堂々としての堂と言う字です。誰かお知り合いでも?」
「いえ、そういうわけではないのですが、以前、西藤信という、すごい人がいたのを思い出して…」
「ああ、彼は【にしふじ】と読むんでしょう」彼はとぼけて答えた。
「えっ、そうなんですか」
「確か、そのはずですよ」
「あなたも、その世界の方ですか?」
「とんでもないです。私なんか、ちっぽけなトレーダーですよ」
彼は微笑みながら言ったが、彩は彼がただ者ではないことを感じていた。
その後、信樹は亜紀子に人事案件に関して、あらゆる場面を想定し、その対応の説明を始めたが、そばで聞いていた彩は、この男のすごさというか鋭さを再認識せざるを得なかった。
その翌日の朝一番、亜紀子が人事部長に、広報部次長の高取彩を部長に昇格させる案件の起案を指示すると、予想通り、午後になるとさっそく専務がやってきた。
「社長、人事は我々に任せていただけませんか。何度もお話ししてますように他とのバランスもありますし、社長の個人的な思いだけで動かれると我々が困ります。社内で不協和音が起きたらどうするんですか!」
「それを仕切るのが、あなた方の役目じゃないんですか!」
いつになく亜紀子が強気で話すと、専務も、
「我々を信じていただけないのなら、私もそれなりに対応を考えなければなりませんが……」
いつもは、ここで亜紀子が引き下がるのだが、今日は違った。
「それで専務の役目が果たせるのなら、どうぞ、お好きになさって下さい。ただし、何かあれば、直ちに解任決議へもってあがりますので、それを覚悟のうえで、動いてくださいね」
驚いた石川専務は、急に態度を変えた。
「社長、私は会社のためを思って言っているんですよ。ご理解いただけませんか……」
「先代の時代からお付き合いの長い下請けのシェアーを下げて、以前収賄の噂のあった業者への発注が時々あるようですが、それも会社のためですか?」
彼女は信樹の指示通り、傷口をえぐってみた。
「社長、ご存知のように、私は先代から仕えている人間です。決してそんなことをする人間ではありません。そんな先代を裏切るようなことは絶対にしていません。もし、本当に、そういう噂があるのでしたら調べて見ます。しばらく、お時間を下さい」
「わかりました。信じていますのでよろしくお願いします」
彼女は冷静に笑顔で対応した。
「はい、ありがとうございます」
「それから、広報部次長の高取彩さんを部長に昇格させる案件もよろしくお願いしますよ」
「はい、わかりました」
社長の突然の豹変に驚いた専務は、ここはおとなしく引き下がった。
ここまでは信樹の予想した通りに事が運んだ。
信樹の読みが当たれば、今後は当分の間おとなしくしているだろう、ということであった。
( 何かおかしい、昨日、若い男が尋ねて来てから、社長の様子がどうも気になる…… )
彼は、さっそく常務の所へ行き、「しばらくはおとなしくして、様子を見よう」ということにした。




