エピローグ
「もうやめてよ……」
私の口から、弱々しい声がふわりと飛んでいく。そんな空気にも近しい私の言葉は、すぐに部屋の中へと溶け込んでいった。
「もう、いいでしょ……? いい加減、ここから出してよ……」
ここに入れられてから、何日が経ったのだろうか。現在の時刻も分からず、今が昼なのか夜なのかすらも分からない。窓一つ無い薄暗いこの空間は、私の日付感覚を狂わせていった。
大体ユニットバスぐらいの部屋の広さで、外側から鍵がかけられてしまっている。唯一彼女と会話ができ、外から食べ物などを受け取れる隙間はあるものの、それもギリギリ肘まで通らない程度の大きさで、あまり使い物にならなさそうだ。
部屋の中にあるものといえば、簡易トイレとトイレットペーパー、布団に枕ぐらいで、それ以外は何も無い。所持品も全て没収されてしまい、服も彼女から渡されたぶかぶかのパーカー一枚だけだ。ズボンどころか、ブラジャーもパンツも脱がされてしまい、本当にただ一枚だけ、パーカーを上半身に着ているだけである。
彼女曰く「私、背が高いからさー。秋那なら、これ一枚で十分でしょ?」とのことらしい。最初こそ恥じらいはあったものの、数日経った今ではもう恐怖以外の感情を何も感じなくなってしまっていた。
「んー? ダメだってばー。秋那はここで、私と暮らすんだって言ってるでしょう?」
隙間の向こうでは、こちらに向かい合う形でソファーに座りながら、ただ黙々とノートパソコンをいじっている。私が着せられているパーカーの色違いを着ていて、彼女も私と同様にその一枚きりだ。足の隙間からは、まさに禁忌の域が垣間見えてしまっていた。
「だからって、こんなことをする必要あるの? 昔、私があんたに色々してたことは謝る。謝るから……」
もはや、目から出る涙すらも枯れ果ててしまった。最初はアレほど滝のように流れ続けていたのに、今はスズメの涙ほどしか流れてこない。もう一生分の涙を流したのではと疑うほど、私の心は疲れ切ってしまっていた。
「じゃあそれを謝って、どうなるっていうのさ?」
私の言葉に動じない様子で、ノートパソコンを見つめながら彼女が告げた。
「どうなるって……私が昔あんたに色々してたから、それを怒ってるんじゃないの? だからこうやって私を監禁して、復讐しようとしてて……」
「いいや、それは違うよ秋那」
私の言葉を遮って彼女が告げる。その一言は、今までずっと甘ったるかった声とは打って変わり、ハッキリとした口調だった。
「……私ね。昔から、親に褒められてばっかりだったんだ。何をしても『凄いね、偉いね、流石だね』としか言われてこなかったの」
そこまで言うと、突然ノートパソコンを閉じてはソファーから立ち上がった。そして一歩ずつ、ゆっくりこちらへと近付いてくる。
「そりゃあ、最初は嬉しかったよ。何をしても褒められるから、私ももっと褒められたいと思って、親が喜びそうなことをいっぱいした。親だけじゃなくて、友達にも良いことをいっぱいしてあげてた。その度にみんな笑顔で『ありがとう』って言ってくれて、私もそう言われるのが嬉しかった」
とうとう部屋の前にたどり着いては、パーカーのポケットから鍵を取り出して扉を開いてみせる。この一瞬の隙に抜け出そうかと思ったものの、私の理性がそれに反した。
これまで何度かそれを試みたものの、その度に催涙スプレーを食らってしまっている。恐らく今回も、ポケットの中に忍び込ませているに違いない。それどころか、既に相当疲弊してしまっているらしく、私の足はもう言うことを聞いてくれなくなっていた。
「あれ、もう逃げようとしないんだぁ。偉いねぇ、秋那」
そうニコニコ笑いながら、こちらに歩み寄ってくる。もはや逃げる気力も、無理に喋る気力すらも残っておらず、ただぼんやりとその笑顔を見つめ続けた。
「……でもね。私、気付いたんだ。本当は私って、誰にも愛されてないんだって」
「へ……?」
意味が分からない。どうして褒められていることが、愛されていないことに結びつくのだろうか。
「だってさ。秋那も聞いたことあるでしょ? 『好きだからこそ、その人のために怒るんだ』って。愛想が尽きたからもうその人を相手しなくなったり、嫌いだからこそ適当に受け流して無視したりとか、世の中にはいっぱい色んな人がいるんだよね」
そう言うと彼女は、私の目の前でそっとしゃがみ込んだ。その場で座り込む私と同じ目線に立って、話を続ける。
「つまり私は、親にも友達にも愛されてなかったんだよ。ずっと私を叱りたい、怒りたいと思ってくれる人はいなかったんだ」
「っ……もしかして……」
「分かった? そう、秋那が初めてだったんだ。あんな風にちゃんと、面と向かって私のことを叱ってくれたのはね」
私の理解が早いことが嬉しかったのか、彼女がニッと微笑んで見せる。その一言を聞いた途端、背筋がゾッと震えた。
「じゃあ、それって……」
「……嬉しかった。私のことを初めて愛してくれたのは、秋那だったんだ」
「嘘……」
こいつは私のことを、単純に好きでストーカーしていたわけではない。――私のことを心の底から愛していたから、私の全てを知ろうとしていたのだ。その事実を知って、益々目の前の彼女に恐怖を覚えた。
「会う度に秋那は私のことを叱ってくれて、私の悪いところをいつも教えてくれた。だから私は自分の悪いところを直そうって思って、ここまで頑張ってこられたんだ」
どうりで最初、彼女の顔を見たときに既視感があったわけだ。彼女は当時から私が文句を言ったこと全てを受け止め、変わろうとしていたのだ。その結果、彼女はここまで綺麗になった。あの地味だった当時からは、見違えるほどに可愛くなった。そしてそれでもなお、更に私に叱ってもらおうとしているのだ。
そこには悪意も私欲も無く、ただただ純粋に、私に愛して欲しいという感情だけで動いている。それはまるで小さな少女のように貪欲で、無邪気に等しい感情だった。
「違う……私は、そんなつもりで言ってたんじゃなくて……。ただあの時は、調子に乗ってイキってたっていうか……」
「分かってるよ。恥ずかしくて、つい強がっちゃう癖があるもんね。秋那は昔からそうだもん、ちゃんと分かってるから大丈夫」
「だから、そうじゃなくて……」
「いいよ、何も言わなくて。……だからね。これからは、私が秋那を愛す番だよ」
「っ……!」
彼女の手が、私の頬をそっと撫でる。あまりにも滑らかな手の動きに、体がぶるぶると震えた。
「ねぇ、秋那……。これまで、色んな悪いことをしてきたよね? それでいっぱい、人に迷惑をかけてきちゃったよね。でも大丈夫。これからは、私が秋那を愛してあげるから。ずっとずっと、いつまでも……」
そうして次第に、彼女の手は私の首筋をなぞりながら、とうとうパーカーの中へと侵入してきた。唐突に感じる刺激に、思わず甘い声が出る。
「っ、やめて……もうやめて……! ねぇ――!」
そして私は、『A』の名前を思い切り叫ぶ。
久しぶりに張った声は思った以上に中途半端なボリュームで、無情にもこの狭い部屋に溶けていった。
まるで存在自体が無かったかのように、一瞬で――。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
クロスオーバー元の『アウトドア系男子が、自宅警備員になる方法』も、ぜひ読んでいただけると嬉しいです。
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