第2話-知らない友達
その日の夕方。大学の講義を終えて、いつものようにバスに乗って帰ってきた。
私が一人暮らしをしている、ワンルームで10畳の部屋だ。初めての一人暮らしを始めて半年。自分以外家に誰もいないという開放感の中、自分の好きなようにインテリアをさせてもらっている。
――あーあ、今日はなんか嫌な日だったなぁ。
帰ってきて早々、ソファーの上に荷物を放り投げてグッタリと座り込んだ。長々としたため息を吐いて、手元にいた大好きなミー君を抱き締める。
ミー君は、今は亡きおばあちゃんから中学生の頃に誕生日プレゼントでもらったウサギのぬいぐるみだ。この子に名前を付ける際、灰色の毛並みが男の子っぽく見えたのが名付けの理由だ。
――なんだよ、あいつ。私のことを“ヤリマンクソビッチ”なんか言いやがって。正直私なんかよりも、あいつのほうがたくさんいやらしいことしてそうだろっての。
陰キャのクソニートなくせに、スベスベしてそうな白く綺麗な肌で、もっちりして気持ち良さそうな頬っぺた。長く伸びた黒髪は艶めかしく、整った綺麗な顔立ち。そしておまけに――私よりも、倍近く大きな胸を持っている。恐らく、優にDカップはあるだろう。
昔から誰よりも身体の成長が早く、身長の伸びも早くて、明らかにモテそうな容姿だ。案の定、告白こそ一人を除いて誰かがしたという話は聞いたことがないが、彼女が好きだと言っていた男は数人、存在していたことを私は知っている。
それなのに、彼女はそれら全てを台無しにするほどの性格の持ち主で、周りから蔑まれながらものうのうと生き続けていた。そしてそれは、今もなお一切変わってはいないらしい。
あんな性格をした彼女だ。よほど度胸がない限り、告白なんてできないだろう。好きな男は量産されても、それらが一切実らないのは当然だ。
「でも……」
部屋の入り口の横に立て掛けられた、全身鏡をぼんやりと眺めてみる。
綺麗に整った眉に、凛とした可愛らしい二重をした目。毛穴の一つすら目立たないツルっとした肌に、大人びた紅色の唇。どこを見ても、完璧な仕上がりだ。
――でもあいつ、昔よりも更に綺麗になってたな……。
だが今この瞬間、鏡を見て映る自分の姿は偽りだ。本当の自分は、細く短い眉に、不恰好な一重の目、ニキビの跡が残った肌に、薄汚い唇をした、どこを取ってもブサイクな女なのだ。
――なんであんな奴が……なんであいつに限って、あんな綺麗な見た目してるんだよ。私だって、あんな見た目したかった。
そんな気持ち悪い私は化粧によって、いつも偽りの私を作っている。化粧には毎日三十分近くかけているおかげで、毎度毎度飽き飽きする作業だ。
――やっぱり、神様は理不尽だ。世の中綺麗な人に限ってクズばっかり。みんな、自分の綺麗な顔に酔いしれて、周りを見下してるに決まってる。どうせみんなそうなんだ。
今一つだけ願い事が叶うならば、私は迷わず「可愛い女の子にしてください」と願うだろう。誰よりも顔立ちが綺麗で、誰もが見惚れる可愛い顔。私はそんな顔になりたい。
だが整形となれば話が別だ。元から持って生まれたものを変えてしまうのは、果たして正しいことなのかといつも疑問に思う。
そういうものは全て、生まれた瞬間にスペックが決まってしまうものだ。いくら整形をしようが化粧をしようが、すっぴんが可愛い女の子には敵わない。その時点で既に負けは決まっており、いかなる手段を使おうと勝つことはできない。結局はどれも偽りの自分を作るだけで、本当の自分ではないのだ。
――はぁ、なんかもうやだ。さっさとメイク落として、少し昼寝しよう。
彼女と再会してしまったせいで、頭の中が嫌なことでいっぱいだ。眠気も多少あることだし、少し昼寝をして頭をリセットさせたほうがいいだろう。
ずっと抱き締めていたミー君をソファーに置くと、そのまま化粧を落として本当の私になるために、洗面所へと向かった。
◇ ◇ ◇
「ん……」
視界がハッキリとしないぼんやりとした世界の中、私はその音で目を覚ました。
――あれ、なんか鳴ってる……?
何かが聴こえる。それはどこか電子音のようなメロディで、何より耳に慣れ親しんだ音のようだ。
――んー……電話?
このまま目をつむったら、再び眠りにつけそうなほどの眠気の中、ようやく頑張ってベッドから起き上がる。暗い部屋の中、暗闇になれない寝起きの目で音の正体を探し始める。
「……あった」
ソファーの上に置いて充電をしていたスマホ。それが音の正体だった。どうやら誰かから電話が掛かってきたようだが、不運にもそれを見つけた瞬間に電話は切れてしまった。
「誰だろう……」
部屋の照明を点けるのも面倒で、暗がりの中でスマホを触る。しかしその光は寝起きの目にはあまりにも眩しくて、一度スマホの明るさを最低にまで下げた。
改めて誰から電話が掛かってきたのかを確認する。それが判明するまでにさほど時間は掛からず、分かった途端すぐにこちらから電話を掛け直した。
「……あ、もしもしぃ」
自分でも驚くほどふわふわした声だった。そんな私の声は、まるで雲のように暗闇へと溶けていく。……溶けてしまった私の声が聞こえなかったのか、耳元のスピーカーからは周囲の雑音しか聞こえてこず、全く反応が無かった。
「あれぇ、もしもしぃ?」
もう一度声を掛けてみる。……しかし、やはり雑音以外何も聞こえてこない。
「もしもーし、理央也?」
今度は彼の名前を呼んでみる。するとようやくスピーカーから、すぅっと息を吸う音が聞こえてきた。
「……秋那さ。俺と一緒にいて楽しくないって本当?」
「……え?」
素っ頓狂な声が出た。同時に、血の気と眠気がスゥーっと引いていく。
彼の声は普段の生き生きとした様子では無く、これまで聞いたことの無い病んでしまったような声だった。
「俺のこと、もう好きじゃない?」
「は、え? ちょっと待って、いきなり何言いだすの?」
意味が分からない。急にそんなことを言われたって、どういう意図で聞いているのか理解できるわけないじゃないか。
「いいから」
「よくない! どういうことなの?」
「いいから、答えてくれ!」
「分かんないよ! 急にそんなこと言われても!!」
寝起きだったこともあり、ガラガラになった声で感情に任せて叫んでしまう。するとスピーカーからは、小さくチッという音が聞こえた。
――えっ……舌打ち……?
初めてのことだった。彼が自分の前で舌打ちをするなんて、そんな場面は見たことが無い。
「ね、ねぇ理央也。どういうことかちゃんと説明して。私、さっきまで寝ちゃっててあんまり今頭働いてなくて、全然どういうことなのか分かんなくて……」
「そんなの俺が聞きたいよ。一番分かってるのは、秋那のほうなんじゃないのか?」
「知らないよ! なに、私が理央也に飽きたって? そんなこといつ言ったの!?」
確かに、最近は彼の態度に疲れて別れようか少し悩み始めていたことは事実だ。
だがそれでも、まだ彼のことが好きなことに変わりはないし、こんなよく分からないことが原因で別れるだなんてことになったら堪ったもんじゃない。
「聞いたんだよ! お前の友達だっていう奴から!」
「……はぁ?」
再び素っ頓狂な声が口から出る。
「今日の夕方、三限が終わって一旦家に帰ろうとしたときだよ。なんか背が高くて髪の長い女の子から、『秋那のこと、もう開放してやってくれませんか』って言われたんだよ」
「誰、それ……。名前は?」
「いや、向こうから一方的に色々言われたまま帰っちゃったから、名前までは聞けてない。でも確かに、お前の友達だとは言ってた」
「私の友達……? 背が高くて、髪が長い女の子……」
高身長で髪の長い女子。すぐにその特徴が当てはまりそうな女友達を、片っ端から思い浮かべていく。……しかし、いずれもその二つが当てはまりそうな友達はおらず、いたとしても知り合いレベルで、そんな嘘をわざわざ吐かれるほどの関係の人はいくら考えても浮かんでこなかった。
「え、誰? マジで?」
「知るかよ。そんなの、俺が知りたいっての」
「……ねぇ、その人に何言われたの? 酷いことでも言われた?」
「あぁ、それはもう色んなことを散々言われたよ。おかげで今日のバイト中もずっともやもやして集中できなくて、途中で帰れって怒られて帰ってきた」
「そんなに……?」
彼のバイトが終わる時間は、いつも夜の九時だったはずだ。そういえば今は何時なのだろうとスマホの現在時刻を見てみると、まだ八時を少し過ぎたくらいだった。
「……で、どうなの?」
「……え?」
「だから、ホントに秋那がそう言ったのかって」
「だ、だから、知らないよ私は! 信じてよ!」
「そりゃあ俺だって信じたいけどさ。……秋那お前、中学の頃先頭に立って何人か女の子のことをイジメてたんだって?」
「は……?」
「あと、中学の頃はだいぶ男遊びしてたらしいな。それに疲れたから、高校では大人しくするようになったって聞いたけど」
その瞬間、頭の中が真っ白になる。今までずっと積み上げてきたものが全て、何者かによって一気に崩されていく。
――なんで……? なんで理央也が知ってるの? その話だけは、理央也にはずっと内緒にしてたのに……。
「……本当なの?」
彼が私を問い詰める。いつにも増して強くハッキリとした口調に、思わず返す言葉を失ってしまった。
「それはっ……その……」
「答えられない?」
その言葉になんと言えばいいか分からずに、ただジッと黙り込んでしまう。しばらく無言の時間が続いた後、向こうから小さなため息が聞こえてきた。
「……はぁ。分かった、俺も少し気持ちの整理をしたい。ちょっとの間、二人で距離空けようか。今のままじゃきっと、話も変に進んじゃうと思うから」
「……ごめん」
「じゃあ、それで。それじゃあ切るよ」
「うん。……あのさ、あっ……」
最後、彼に一言告げようと思ったところで、通話が切られてしまった。せっかく伝えようと思った言葉が伝えられずに、スマホを耳に当てていた手をそっと下ろす。
――なんで、理央也が中学のことを知ってたんだろう。やっぱり、さっき言ってた女の人から聞いたのかな?
一体その彼女は何者なのだろうか。もし彼女が余計なことを彼に吹き込んだのなら、私のことを昔からよく知っている人物だと伺える。
一通り、整理してみよう。背が高くて、髪の長い女の子。私の中学のことまで知っていて、私の友達だと名乗れる人物。そんな存在、果たしていただろうか……。
――……あっ。
いた。脳裏に一人の人物の顔が咄嗟に過ぎる。彼女なら全てその条件にあてはまるし、私の余計な話を易々と話せるような人物。
――あいつ……とことん私のことを邪魔する気なんだ。きっと、中学の時にずっと私がイジメてたから。その仕返しで私に嫌な思いをさせようと……。
「許さない。あのクズ女……。本城綾乃!」
彼女の顔を思い出した途端、強烈な怒りが込み上げてきた。ソファーの革をギュッと掴みながら、当たり所の無い怒りに我慢する。
こんなにイライラするのは、中学生の頃に本城綾乃の相手をしていた時以来だ。彼女はやはり存在するだけで、ここまで私をイラつかせてくれる。それだけでも腹立たしいのに、もう彼女は踏み込んではいけない領域にまで入ってきた。これはもう、ギャフンと言わせるどころの話ではない。
「もういい、次会ったときに全部倍にして返してやる。あんなクズ女、二度と私の前に現れ失くしてやる!」
とうとう怒りが頂点に達して、ソファーを右手で思い切りグーパンしてやった。これでもまだ怒り足りないところだが、これ以上一人で怒っても仕方がない。どうにかして一旦落ち着こうと、ゆっくり深呼吸をした。
「……ん?」
ふとその時、スマホの画面が通知音を鳴らしながら光り出した。一体何の通知だろうと、画面を覗いてみる。――瞬間、再び体中の血の気が引いた。
「なに……これ……」
それはスマホに届いた、一通のメールだった。
知らない宛先。件名は無く、本文に書かれた文章はたった一言。『そんなにソファーぶん殴りながら怒らないでよ、秋那』という内容だった。




