第1話-最悪の再会
前日――。
大学生になってから、早いことにもう半年が過ぎた。夏休みが明けた、最初の月曜日。二限目の講義が終わったと同時に、私はいつもの場所を目指して教室を出た。
今日はちょっぴり、気分が良い。夏休みには彼氏とのデートをたっぷり満喫したし、中学や高校の頃の友達とも再会できた。おかげで英気を養うこともできたことだし、また年末までの数ヶ月間は頑張れそうだ。
「理央也、お待たせー」
学食のいつもの席に座った、彼の背中に私はそう呼び掛けた。
薄手のTシャツ一枚に半ズボンを履き、見慣れた青色のキャップを被っている。そんないつも通りの彼の姿に、今日も不思議と安心する。
最近はちょっとずつ涼しくなってきているのに、よくそんな薄着ができるものだと思う。男の子はやっぱり筋肉もあるせいで、体温が高いのだろうか。羨ましい限りだ。
「秋那、お疲れ」
机の上には既に、学食で買ったであろうカレーライスとスープが置かれていた。私が来る前に買う暇があったということは、それなりに時間があったのだろう。
「いやぁさー、聞いてよ? さっきの講義でさー……」
早速そんな愚痴をこぼしながら、彼と向かい合って席に座る。
彼とは高校三年生の冬から付き合っている仲だ。元々はサッカー部の選手とマネージャーという関係だったが、去年の年末に思い切って私から告白したところ、快くオーケーしてくれた。
以来、所属している学部こそ違うが、同じ大学に通うことにもなり、お昼はこうしていつも一緒に集まって食べている。
「あー、そりゃダリィな。その講義取ろうか迷ったけど、取んなくてよかったわぁ」
「もうさぁ、ホント最悪。なんで私だけ知らない人達とグループ組まされるんだって。萎えるわぁ」
「ドンマイじゃん。頑張れよー?」
まるで他人事のように言い捨てると、彼はカレーライスを一口運んだ。
「元はといえば、理央也が一緒に講義取ってくれれば、私が一人になること無かったんですけどー?」
「えーだって、あの講義の先生って先輩にメッチャ評判悪いよ? 秋那が受けたい講義だったのは仕方ないけど、わざわざ俺まで一緒に受ける必要は無いじゃん」
「そうだけどさぁ……」
――そこは彼氏なんだから、一緒にいてくれたっていいのになぁ……。
付き合い始めてから分かったことだが、彼は少し付き合いが悪いところがある。映画を見に誘ったりしても、興味が無ければ一緒に来てくれないし、休日に買い物へ誘ってみても、バイトで疲れていると言ってなかなか重い腰が上がらない。
私は大学生になったタイミングから一人暮らしを始めたのに対して、彼自身はまだ実家暮らしということもあるのだろうが、それにしたってもう少し付き合いが良くなってほしいというのが、ここ最近の悩みだ。
「ま、その分休みの日にいっぱいお願いでも聞いてやるよ」
そう言って、ニヤニヤと気持ち悪い笑みを彼が浮かべてみせる。
「お願いって……。別に私は、そんなことを望んでるわけじゃ……」
「そう? 秋那の家遊びに行くと、大体甘えてくるじゃん」
「ちょ、ねぇ! そんな話こんなとこでしないでよ……!」
思わず小声になって、彼だけに聞こえるよう告げる。どうしてそんな、まるで体目的のような言い方をするんだ。別に私は、それ以外にだって理央也と一緒にしたいことはたくさんあるのに。
「いいじゃんいいじゃん、なに照れてんの?」
対してそんな彼は、ニヤニヤと楽しそうに笑顔だ。つくづくこういうところは、本当に酷い彼氏だと思う。
「別に照れてないし」
「照れてんじゃん」
「照れてない! もういい、ご飯食べる!」
「はいはい、どうぞー」
彼がニヤニヤ顔で、どうぞと右手をこちらに向ける。そんな風に煽られなくたって、ちゃんとお昼ご飯は食べるっての。
――ホントに……酷い奴。
もう少し、彼女の私に優しくしてくれたっていいのに。
そんな不安を抱きながらも、渋々私はカバンの中から、朝自分で作ってきたお弁当箱を取り出した。
「それじゃあ、また夜電話するね」
「おう。秋那、午後の講義も頑張れよー」
「理央也もバイト、頑張ってね」
「サンキュー。じゃ」
「うん、またね」
学食の出口で、お互い次に受ける講義へ向かうために別れる。
次は確か、一番遠い学食があるほうの棟だったはずだ。未だに大学の構造は把握し切れておらず、半年通っただけではまだどこに建物があるのか、これほど広い構内ではイマイチ覚えられない。迷わないよう過去の記憶をたどりながら、見覚えのある道を進んでいった。
「……はぁ」
構内を歩きながら、大きなため息を吐く。せっかくさっきまで良い気分だったのに、なんだか冷めてしまった。
最近は以前に比べて、ため息が増えたような気がする。彼と一緒にいる時間は楽しいが、一方で彼の嫌な部分も見え始めてきた。
これからもずっと彼と一緒にいるとなると、この気持ちとも付き合っていかなければならないのは十分承知だ。だがそうだとしても、果たしてこのままでいいのかと思い返してみると、なんだかいけないような気もする。
――あーあ。やっぱり顔と運動神経だけじゃ、男はダメだよなぁ。理央也は確かにイケメンだけど、最初はただの一目惚れだったし……。失敗したかなぁ。
男付き合いは、中学の頃に嫌というほど経験し過ぎてしまった苦い過去がある。高校ではなるべく清楚でいようと、本当に良い男を見極めて付き合いたいと思い彼を選んだが、それも失敗だったかもしれない。
――そうだなぁ、交際一年の記念日まで様子見て、キツくなったらもう別れよう。どうせ男友達いっぱいいるし、大学にだって男はたくさんいるんだから、出会いなんていくらでもあるでしょ。
一先ず、もう少しだけ様子を見てみよう。マズくなってきたらこちらから何か仕掛けてみて、それでもダメなら別れればいい。男なんて星の数ほどいるのだ。
まだ大学一年でもあるし、人生はまだまだこれからなのだから焦る必要は無い。大丈夫だと心の中で自分をなだめては、再びふぅっと一息を吐いた。
「……あ、それから」
「……ん?」
その刹那、どこからともなく聞こえてきた他愛もない声が耳についた。――なんだか聞き覚えのあるような、寒気のする声だ。
「私、後期の……全休なので、よろしく……」
周囲のざわつきのせいで、ハッキリと会話が聞こえない。
何故だろう。気にしなければいいだけなのに、無性にそれが気になってしまう。声の正体はどこからだろうと、辺りをキョロキョロと見渡した。
――あれ?
そうして、突如視界に入ったとある一人の後ろ姿に既視感を覚える。
背中にまで伸びた長い黒髪をはためかせ、見るからに身長が高い女性だ。その前には、一人の男性も一緒だった。
――あの人って、もしかして……。
「うん。……ありがとう」
「いえ。では」
お互いに軽く手を振りながら、その場で綺麗に二手に分かれる。その片割れが、こちらに向かって歩き出してきた。
「……あ」
そして――声の正体は突然、私の目の前に現れた。
「っ……あなたは」
それはあまりにも運命的で、衝動的な出会いだった。
私とすれ違う寸前で、私の出した声に気付いた彼女がこちらを振り向く。それと同時に、その顔の血相はみるみるうちに変わっていった。
「あーれー? 誰かと思えば、あの時の綾乃ちゃんじゃん。わぁ、超久々だ。なぁんだ、お前ここの大学だったんだ?」
彼女は小学生の頃からの知り合いで、中学三年生の時には同じクラスメイトでもあった本城綾乃だ。
それ以来一度も会うことはなかったおかげで、まさかこんなところで再会するとは思ってもいなかった。まさに奇跡の再会というやつだ。
「……そういうあなたこそ、この大学なんだ」
嫌々とこちらに体を向ける彼女と対峙するように、私も彼女のほうへ体を向ける。
「ちょ、やだなぁ。そんな顔しないでよ。せっかく偶然再会したんじゃん? やめてよー」
「じゃああなたこそ、久しぶりに会ってもその顔は変わらないんだね」
せっかく久しぶりに再会したというのに、その目は当時と変わらない鋭い目つきだ。もう何年も前の話だというのに、未だに引きずられているらしい。
「なんだよー、ノリ悪いなぁ。だからお前昔っから嫌われてるんじゃん。もしかして今もなの?」
「……あなたには関係ないでしょ」
キッパリと一言、断言されてしまった。そんな彼女の一言に、思わず私もムッとしてしまう。
「は? なにそれ。やっぱりお前昔から変わってないなぁ。あの頃も私、散々言ってたよね? その性格、直したほうがいいよって」
「余計なお世話。あなたなんかに言われなくたって、そんなこと重々自覚してる」
「じゃあなんで直さないの? やっぱりお前バカなんじゃないの。学校もサボってばっかでテストの点も悪かったしさぁ。……生きてる意味ある?」
「その程度の話で生きてる意味があるかどうかなんて、その質問もかなりバカげてると思うけど?」
「いやいや、その通りでしょ。学生は学業に勤しむのが仕事ですよー? 忘れちゃったのかなー?」
「……ふふっ、そうかもね。もしかしたら私、鳥頭になったのかも」
すると突然、彼女がおかしなものを見たかのように笑ってみせた。その態度に、益々私はイラっときてしまう。
「いや、急に笑ってどうしたの? マジキモいんだけど。なに考えてんの?」
「さぁね。あなた達陽キャに、陰キャの気持ちなんて分からないよ」
「そうやって陰キャとか陽キャって括っちゃうところもキモいよ? いつまで勘違いしてんの? あんたと一緒にされる陰キャの子、かわいそー」
「勘違い? そういうあなただって、いつまでも私の上に立っていられると勘違いしてるよね?」
「はぁ?」
私が声を上げると、彼女は一歩こちらに踏み出してきては、ずいっと顔を近付けた。あまりにも急な出来事に、ブルっと寒気が身体中を駆け抜けていく。
「なっ……なに……?」
「……いつまでもセックスばっかりしてないで、いい加減大人になれって言ってるの。体だけ成熟したって、何にも意味は無いんだよ。――ヤリマンクソビッチの篠崎秋那さん?」
まるで聞いただけで凍えてしまうかのような、小さな声で彼女が呟く。
「は、はぁっ……!?」
そう告げると彼女は、私からクルリと背中を向けてしまった。
「それじゃ、もうあなたとは関わりたくはないから。今後一切、見かけても話し掛けてこないで。じゃあね」
喜々とした表情を浮かべ、片手を挙げて彼女はそのまま立ち去ろうとする。
――ちょっと待ってよ……。なんでこんな奴に、私が立場逆転されてんの? 意味分かんない、意味分かんない……!
このままでは、まるで私が言い負けてしまったみたいで胸くそが悪い。なんでもいいから、早く言い返さなくては。
「ちょ、待てよ。それもう昔の話だから。今はほとんどそんなことしてないし、彼氏としかしてないからな?」
私が放った一言に、背を向けたまま彼女はピタリとその場で止まった。
「はぁ、やだなぁ。私って今もそんな風に見えるんだ? まぁそりゃそっかぁ、あんたみたいな奴に彼氏なんてできるわけないもんなぁ……」
ふと、そこまで口にして思う。
――あれ、でも待って。さっき一緒にいた男の人って……。
「……あんた、さっき話してた男の人ってもしかして……彼氏?」
恐る恐る彼女に聞いてみる。
目の前に立つ彼女は、私の質問に対してなんの感情も抱いていないのか、微動だにすることなくしばらくその場に立ち尽くしていた。そして――。
「……さぁね。どうだと思う?」
「は?」
何やら不気味な笑みをこちらに浮かべながら、ポツリと一言呟いた。
「まぁ、どう思うかはあなたに任せるよ。私は否定もしないし、肯定もしないから」
「いやいや、マジで意味不明なんですけど」
こいつは何を言いたいんだ。付き合っていることを否定も肯定もしないだなんて、そんなの誰が得する返答だというんだ。
「分からないなら、分からないままでいいよ。分かるまで考えてもいいし、考えなくてもいいしね」
「……あんた、やっぱりバカ? 自分がなに言ってるか分かってる?」
「私は自分で分かってるつもりだよ。自分がどれほどバカげた返事をしているのかもね」
そんな言葉に、益々私の頭の中はゴチャゴチャになる。理解しようと思っても、あまりにも話がぶっ飛んでいて理解不能だ。
「……で、もういいよね?」
「……はっ?」
口から変な声が出た。
「だから、もういいよね? そろそろ行かないと、講義遅れちゃうんだけど。あなただって、講義あるんでしょ?」
「それは……あるけど」
「ならもうおしまい。じゃあね」
「あっ……」
そう言って彼女は、そのまま背を向けて立ち去ってしまった。その後ろ姿は、まるで勝ち誇っているかのように悠々としていて、見ているだけでイラッとした。
――なんなの、あいつ。久しぶりに会ったと思ったら、キモいくらい調子乗りやがって。
昔はとても面白いリアクションを見せてくれていたのに、いつの間にか反抗的になってしまったようだ。
私があいつに言い負かされるだなんて、そんなことは絶対に許せない。次にまた会ったときは、これ以上調子に乗らないよう、また強く言ってやらなければ。
――あいつはもう関わるなって言ってたけど、そんなこと関係ないよね。っていうか、なんで私があんな奴の言うこと聞かなきゃいけないんだって話。次会ったら、ギャフンと言わせてやる。
もうこれ以上、彼女に調子には乗らせない。もう二度私の前で気持ち悪い笑みを浮かばせてやるものか。そう心に誓った時――突如私の目の前をフラフラと重い足取りで横切っていったのは、まさに交尾の真っ最中である二匹のトンボだった。