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名を忘れた男  作者: まさきち
2/16

出会い

 彼が家に来た時、行きずりの男を連れ込んだ、というよりは、最初は捨て犬か捨て猫を拾ってきた感覚に近かったと思う。

 その日は、接待でストレスを貯めた。

 本音で話のできる友人がこっちにはいなかったから、一人でバーで飲んでいた。

 そうして、したたかに酔っていた。

 本当は水道料金の支払いをするために家の近くのコンビニでタクシーを降りたのだが、それも忘れて傘だけを買って店を出てしまった。

 せっかく傘を買ったがすぐに傘を差すか迷うぐらいの空模様になっており、せっかく買ったのだからと私は傘を差しながら、ゆっくりと自宅に向かっていた。

 道すがら、雨に濡れて呆然と立ち尽くす男を見つけた。

 何かに耐えているような雰囲気を纏わせて、その男は路上に立っていた。

 釘付けになり、目を逸らすことができなくなって、思わず声を掛けていた。

 酔っていたから、何と言ったか詳しくは覚えていないが、恥ずかしながら、街中の不良のような事を言っていた気がする。

 どこに帰れば良いか分からない。

 彼はそんな事を言っていた気がする。

 強引に彼の腕を取る。

 寂しさからか、どうだったのか、今では分からない。



 目が覚めたら、見知らぬ男と寝ていた。

 正確には彼は私のベッドの横の床で寝ていたのだが。

 目が覚めて男がいるなんて、そんな事は漫画かドラマの中だけだと思っており、まさか自分がするとは夢にも思っていなかった。

「おはようございます。」

 起きた私と目が合った彼は、控え目に声を掛けてきた。

「誰。」

 彼は既に起きて、上半身裸でベッドの下に座っていた。

 私はショーツだけを身に着け、ベッドに横になっていた。

 何も答えない彼にもう一度訊く。

「貴方は誰なの。何処で会ったの?」

「すみません。分かりません。」

 年齢は、20代後半から30代前半ぐらいで、無精髭が浮いている。

 体毛が濃くないのか、青々とはしていない。

 喜連川は体毛も濃く、深夜には青々としており、比べると全然違う。

 よく見ると、頬がこけてはいるが、顔が整っているため、髭を剃り、髪を整えればそれなりに見えるだろう。

 必死で思い出そうとする努力が実り、徐々に昨晩の記憶が戻ってくる。

 自分の体の状態を確認するが、身体を重ねた形跡はないようであった。

 何もされなかったのが少し腹立たしい。

「思い出したわ。ごめんなさい。貴方が家まで送ってくれたんだったわね。」

 昨晩、帰り道で出会った彼を無理やり居酒屋へ連れて行き、そこで更に飲んだ私は、酔い潰れたのだ。

 彼に肩を借りて店を出た後、気分が悪くなった。

 それ以降は思い出せない。

「僕は何も覚えていないんです。」

 二人とも酔って覚えていないのか。

「昨日のことはどこまで覚えてる。」

「全く覚えてません。記憶が無いんです。」

「名前は。」

「思い出せないんです。」



 最初は馬鹿にされているのかと思い、怒ってしまったが、本物の記憶喪失だった。

 よく、記憶喪失の男が実は記憶喪失を装っていたなんて、よくある話だが、彼の場合は疑うべくもなかった。

 時間が経つと直前の記憶が無くなることが分かった。

 私がシャワーを浴び、戻ってくると、さっきその前に交わした会話も忘れている。

 彼には何の記憶も残らないのだ。

 仕方無く昨晩の状況を整理すると、私が酔って立てなくなっていたところを、どうやら抱えて家まで送ってきたらしい。

 二人とも服が汚れており、私の服の方が酷く汚れていたからだ。

 もし平日だったら、何とかして追い出そう考えたかもしれないが、今日は土曜日で、出勤の予定も無く時間があったし、助けてもらった恩もあるので、取りあえず話を聞きながら考える。

 どうすれば良いのか分からないが、彼の服も汚れているので、洗濯している間にシャワーを浴びてもらうことにした。

 着の身着のままのため、乾燥機を回している間、タオルだけを腰に巻いていた。



 昼を過ぎ、軽いものを作り、小さな机に並べる。

 なんて出来れば、もう結婚もできていたのかも知れない。

 私がしたのは、カップラーメンを二つ出して、箸を乗せただけだった。

 そんな事をしたのは、大学生時代はそんな事もしていたと思い出す。

 大学から実家を離れていた私には当時彼氏がおり、同棲同様の生活をしていた。

 ただ、彼の方はは実家暮らしで、何日かごとに実家と私の部屋を行き来していたので、同棲とは少し違うような感じではあったが。

「作ってから聞くのも悪いけど、食べられない物とかある。」

「分からないけど、嫌いなものはないと思う。」

 彼の記憶が無いためか、会話が全く続かない。

「昔のこととか、覚えていることはないの。」

「いえ、名前すら思い出せないんです。昔のことも、最近のことも全く。自分のことが何かも分からない。」

 昨晩、彼を見かけたときの表情になった。

「取りあえず、食べたら、身なりを整えましょうか。」

「あの、また忘れてしまうかも知れないんですけど、お名前をお伺いしても良いですか。」

「私は和美。北川和美。」

 私の名前もずっと覚えられないのだろうか。

 手早く麺を啜り、服も乾いたので近所のコンビニに向かう。

 彼は着の身着のままで、所持品は正真正銘小銭しか入っていない小銭入れだけであった。

 また、身元が分かるようなものは入ってなかった。

 髭剃りや下着などを見ていると、彼がメモ帳を見ていたので、ボールペンと合わせて買っておく。

 彼がコンビニでトイレを借りると、しばらく出てこなかった。

 どうやら、トイレの中で記憶が無くなったらしい。

 清算を済ませ、彼の腕を引き、足早に店を出た。

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