彼の残したもの
初回は2話更新します。
残りは仕上がるまで、少し時間をください。
私の部屋に一人の男がいた。
彼は毎日変わらず、私を愛してくれていた。
愛し合った日から変わることなく。
最初はそれが幸せだと思っていた。
それが美しいと、理想であると若い頃の私は、そう思っていた。
シャツのポケットに入るサイズのメモ帳がベッドの下に落ちているのが見えた。
彼はメモ帳を肌身離さず持ち歩かなければならなかったので、いつもシャツ姿だった。
一瞬躊躇したが、ベッドの下の物を拾い上げた。
幾つか付箋が付けてある。
プラスティック製の剥がれにくいもので、私が彼に勧めて買ってあげたものだ。
その中で、一つだけ縦に飛び出した部分に赤いボールペンで塗り潰した丸印が付けられている。
あの人が、記憶が無くなった時に、最初に開くページに付けてあったものだ。
破れたページの後にその付箋が付けてあった。
『北川和美さんのところに、お世話になっている。
彼女は、私を愛してくれている。僕も彼女を愛している。』
他のメモとは違い丁寧に書かれた文字で、そのページの縁には手垢が付いていた。
その言葉の下にはうちの住所と私の携帯電話の番号が書いてある。
付箋の付いていない後半部分は日付が書かれており、その日にあった出来事が書かれている。
読んでみると、こんな風に彼は私のことを感じ、大切に思っていてくれたのかと嬉しくなるとともに、彼を裏切った自分が腹立たしくなる。
これが『やるせない』っていう感情なんだと改めて思う。
彼が居なくなる日、大喧嘩、いや、実際は喧嘩ではなく、私が一方的に彼に当たり散らしただけだが、その日のページが破られていた。
恐らく私に言われた暴言を忘れるために、ページを破ったのだろう。
メモの前半部分に戻ると、横向きの小さな付箋が幾つか付けてある。
一番先頭の付箋の付けてあるページには、私の出勤する時間と、朝食を用意することが書かれている。
お風呂の準備は、帰りが不定期なのでいつでも沸かしなおせる準備をしておくこと、夕食は温めなおせるようにしておくこと、私の好きな食べ物と嫌いな食べ物。
そして、同じ物を何度も作らないよう何を作ったのか、献立が細かく書かれている。
ページをめくる度、彼の優しさと気遣いが現れる。
そんな彼はもう居ない。
彼と出会うまで、私は上司と不倫していた。
彼と一緒に居たいと思ったのも、その破局のすぐ後だったのもあるかも知れない。
大学に入るために上京し、卒業してからは女とバカにされないよう、ガムシャラに働いた。
同僚からは面倒臭い女等と言われてはいるが、容姿には少しばかり自信がある。
しかし、仕事になると、それはデメリットになり、お茶汲みや酌など、マスコット的な役割を強いられることも多かった。
男達に比べて、プラスアルファの雑用もこなした上で、業績をあげているが、それなのに、業績の数字しか評価されない。
子供や家庭の事情なんて理由にしてくれない。
隣の課の主任は、産休明けには復帰し、すぐに残業を始めていた。
彼女の場合は、自分の親と同居しているから出来たのだろうが、ウチで、四大卒の総合職で仕事を続けていくにはそういった犠牲を強いられる。
そんな会社でさだから、出世を諦めない限り普通に恋愛なんてしている暇もない。
上場企業だというのに、お茶汲みとコピーしかさせてもらえなかった友達よりはましだと思い込んでやり過ごしていた。
上場企業だからといっても、まだ昭和なのかと思ってしまうような典型的な男尊女卑の会社もまだ存在する。
そんな彼女は結婚して会社を辞め、今は専業主婦で二児の母だ。
私はもう今年三十になる。
気が付くと周りの結婚ラッシュは終了し、独り者は片手でも余るぐらいになっていた。
そんな時に私に喜連川は言い寄ってきた。
普通、「きれがわ」と読みそうたが、「きつれがわ」と読む。
初対面では、いつも名前の読みをネタにしている。
四十代にしてはオッサン臭くないし、容姿も悪くなく、ジム通いをしているため、身体も締まっている。
たまに無駄に派手なネクタイをしめてくることもあるが、基本的には服装もましな方だと思うが、スーツ姿でしか会ったことがない。
いわゆるバブル世代で、野心と下心が溢れているタイプであった。
最初は明らかに軽薄そうなこの男に良い感情を抱かなかった。
それでも積極的に私を誘い続けられるうち、同僚や同期の男どものように消極的でもなく、かといって必死さもなくてどことなく余裕の見える様子は私には新鮮に見えてきた。
どうせ不倫なのだから、周りにバレそうになったらそこで終わりと割り切って喜連川と関係することにした。
同じ職場で10時からとかそんな時間帯からでも会えるというのも続いた理由だろうか。
しかし、一年も過ぎると、当初のようなトキメキもなくなり、会う頻度も少なくなったが、惰性でダラダラと関係は続いていた。
『嫁にバレた。もう会えない。』のメールで呆気なく終わりが訪れた。
喜連川は嘘を吐くのが上手いと自分では思っているようだが、責めるのもバカバカしくなるぐらいなので、今思えば関係を持った当初から奥さんは気付いていたと思う。
同僚の話では、若ければ若い方が良いという、単純な男で、最近はまた別の若い女に手を出そうもしているようだ。
夫婦の関係は冷えきっていたのだろうが、奥さんには悪いことをしたと思う。
だが、今度は別の若い女を見つけて、まだ不倫を続ける男を許そうという気持ちは理解できなかった。
気持ちなどもう既に無く、収入だけが目当てなのかも知れないが。
特に未練も無く、関係を続けたいだとか、新しい女に対する嫉妬も無かったのだが、悔しいというのが正しいのか、何だか良くわからない感情だけが残った。