自己紹介
昨夜から降り続いていた雨がやむのを見計らったかのようなタイミングで、病院の(妙にかわいい)ロゴマークをつけたハイエースが僕の家の前に止まった。
僕は、いつもと同じようにスライドドアを開けて後部座席に滑り込む。いつもと同じ老婦人の乗った車椅子の傍らのシートに座ると、馴染みの運転手さんと老婦人に挨拶をする。
「おはようございます。」
「おはようございます。わたくし、河野うた子と申します。どうぞよろしくお願いします。」
河野さんは毎回丁寧に自己紹介をしてくれる。僕がこうして病院の送迎車に乗って透析に通うようになってもうじき三年になるが、週3回毎回毎回僕達は初対面なのだ。こういうのを一期一会と言うのだろうか。
「僕は毛受勇太郎です。こちらこそ、よろしくお願いします。」
「はああ、メンジョウさんなんて珍しい苗字ねえ。」
「はあ、よく言われます。毛を受けるって書くんですけど、なかなか正しく読んでもらえなくて…」
「そうでしょうねえ、本当、初めて聞く苗字だもの。」
正直、僕も最初の頃は毎回毎回自己紹介をすることに戸惑いもあったし、面倒に感じることもあった。しかし、鬱病をきっかけに数年間引きこもり生活をしていた僕には、人とコミュニケーションをとることが本当に難しいことになっていたので、こうして自己紹介と会話の練習ができるということはとても有り難いことだった。それに気付いてからは、河野さんと話すのがむしろ楽しみにすらなっている。河野さんは僕の話を本当に熱心に聞いてくれるし、例え僕がなにかとんでもない失言や言い間違いをしたとしても次に会う時にはもう完全に忘れている。それに、どことなく田舎のおばあちゃんににていることもあって、安心して話すことができた。
いくつかの信号機を過ぎ、集団登校している黄色い帽子の小学生の群れを追い抜き、学生服の自転車が吸い込まれていく高校を通り越して、淡いピンク色の紫陽花が咲いている家の前に車は止まった。2分程して、玄関が力一杯開き、色白の痩せた女性が大慌てで長い黒髪を後ろで束ねながら走ってきた。
「ごめんなさいー!遅くなっちゃって。」
大きなトートバッグを二つもぶら下げた女性は本当に大急ぎといった動きで僕の前の座席に座った。ポニーテールが揺れている。
「千坂さん、おはようございます。」
僕が声を掛けると、彼女は振り返って笑顔で答えてくれる。
「毛受くん、おはようー!」
が、次の瞬間、彼女は絶叫した。
「ああああああー!!!!」
「ど、ど、どうしたんですか、千坂さん」
「ペンレス忘れたああああ!!!貼ってないいいい!!!!」
千坂さんは左腕の袖を捲って俺に見せた。白い細い腕だ。前腕の真ん中辺りを鉛筆程太さの血管が真っ直ぐに走っている。透析用に手術したシャントと呼ばれる太い血管だ。俺のグニャグニャボコボコの血管とは大違いで、やっぱり可愛い子は血管も綺麗なんだななんて思ってしまう。
「今から貼って効くかなあ。」
千坂さんは大きなカバンから小さな花柄のポーチを出し、そこからペンレスを出した。ペンレスというのは、シールタイプの麻酔薬だ。このシールを皮膚に貼って2、3時間すると麻酔が効いて針を刺してもあまり痛くないので、透析の日の朝は早起きして針を刺す予定の場所に貼っておくのだが、たまにこうしてうっかり忘れてしまうこともあるのだ。
「うーん、それより刺すのが上手い人を指名して頼んだ方がよくないですかね?」
「だよねー。ペンレス貼ってても痛いときは痛いしねー。」
僕は、この千坂さんの眉を八の字にした困ったような笑顔がすごく可愛くて好きなんだけれど、最近になって千坂さんが実は僕より年上で、しかも成人した息子が二人もいると知ってしまって、なんだかどうしていいか判らないでいる。千坂さんにとって僕は、たまたま同じ病院で透析をしている単なる患者同士なんだろうな。まあ当然なんだけど。
僕がそんな非生産的なことをぐちゃぐちゃ考えて俯いていると、河野さんが話しかけてくる。
「あのう、すみません。このバスはどこまで行くんですかねえ。」
「ひまわり病院ですよ。もうじき着きますよ。」
「はああ、お兄さん、随分お若いのにどこか病気があるの?」
「ええ、まあ、腎臓が悪くて…」
「あらあ、まあ、そうなの。たいへんだねえ。若いのにねええ。」
この何十回(もしかしたら百回以上)繰り返された会話が僕の思考を日常に連れ戻してくれる。
「あなたもどこかお悪いの?」
「はいー。私も腎臓が悪いんですよー。」
「まああ、大変ねええ。みんなたいへんねええ。あ、そういえば…わたし、お金持ってたかしら?」
「大丈夫ですよー。このバス病院のサービスですからー。」
河野さんの毎回の心配に千坂さんが優しく答えている。これも毎回のやりとりだ。
週三回同じ時間に同じ車で同じ会話をして同じ病院に通う。なんだか昔見た映画か何かの時間がループし続けるストーリーみたいだな、なんて考えていると、田圃を越え工場を越え乗客がもう二人増え、坂道を登ったり降りたりして、僕達は何十回目かの河野さんが戦時中に不発弾を拾って近所の金物屋で中華鍋にしてもらった話を聞いているうちに病院の看板が見えてきた。ああ、今日もまた透析が始まるんだなあ、なんてなんとなく左腕をみたら、今朝貼ってきたペンレスが汗で剥がれていた。はああああ、と腹の奥から溜息をついたら、千坂さんがいたずらっぽく笑って言った。
「わー、毛受くんも仲間だねー!」
僕はあははと曖昧に笑った。
また、細かい雨が静かに降り出した。