クサナギ副所長の人事ファイル① ザワールド博士
「やあ、クサナギ副所長。紅茶を淹れておいたよ」
「お気遣い感謝します、ザワールド博士」
「なに、来客があると分かれば紅茶を準備しておくのが紳士の礼儀というものだからね」
そう言ってザワールド博士は徹夜明けの脳にも優しく薫る熱い紅茶の入ったカップを勧めて下さいました。
客人に喉を潤すものを差し入れるのは言わば学者の癖と言うか憧れの様なものです。
……私は今日この時間に貴方の研究所を訪れるなんてこの世の誰にも公言していませんが。
ザワールド博士は各A級職員に一棟ずつ与えられた研究棟――白銀のオベリスクを中心とする十一の「サイト」と呼ばれる区画の内の一つ――サイト1に居住しています。
彼のみならず彼の元で働く全一般職員がサイト1研究棟内に居住しており、これは他のサイトに於いても同様の事が言えます。
これは当人たちも承知している事ですが、各サイトは担当A級職員にとっては財団によって与えられた居住スペースであり最高の研究施設であり、彼等を監視、収容する為の牢獄でもあります。
御存じの通り、彼等の持つ異常性は我々財団の理念とは大きくかけ離れたものです。
我々が倫理的観点を完全に放棄し世界の恒常性を第一優先としている事は既に御理解いただけている点かと存じ上げます。
ザワールド博士は左手を顔に添えるとそのまま頭部をくるくると回転させ始めました。
これは彼の癖の様なものです。
我々で言うところの口に相当する発声器官を持たない彼は未知の手段で、頭部を回転させながら普段通りの発音で会話します。
「ほう、我々全員のプロファイリングとはまた厄介なものを押し付けられたものだね、クサナギ副所長」
「職務とあれば不満はありません。それに全員が全員厄介という訳ではありませんので」
「私の元を最初に訪れたのはそういう訳だね」
「……お見通しですね。博士は十一人の中で最も常識ある御方だと認識しています」
「女性に優しくするのは紳士の定めさ。私はそれに従っているに過ぎない」
ザワールド博士はイギリス出身の三十歳の男性です。
身元に関してははっきりとしておらず、本人談に寄ればロンドンの郊外にて旅行代理店を営むとある夫婦の元に生まれたそうです。
「博士、資料作成の為に御自身の出生に関してお訊きしたいのですが」
「私のチャイルドフゥドを知りたいという事かい? それはあまり紳士的ではないね。名を名乗るまでは確かに紳士の行いに相応しいと言えるだろうが、それ以上となると話は別だ。一人の人間の生い立ちは恋人達の甘い囁きの中で語られるべきだろう?」
彼の生い立ちについては本人がそれ以上を語る気が無いらしく、両親との連絡も取れないと以前に述べられている所から彼にとって語るに好ましくない事情があったものと推察されます。真相の解明に至るには事実調査の為にロンドンに派遣されている研究員からの報告が待たれる状態です。
ザワールド博士は如何なる時も英国紳士たる事を己の信条としており、表向きには類稀なる良識者です。
ただし、彼が持ち前の好奇心を発揮した際にはその限りではありません。
彼は他の博士と同様に数多くの学問に興味を抱き、またそれらに精通していますが、彼の場合特に地質学に対して並々ならぬ情熱を注いでいる様です。
一度博士がその好奇心を強く惹かれる事象に接触すれば、彼は己の保持するあらゆる特異性を駆使して対象を「閲覧」しようと試みます。
この時、対象の規模に応じて不特定多数の座標的プライバシーが無制限に侵害されます。
ザワールド博士の持つ主要な特異性の内の一つが
「地形構造及び付属物体の立体構造及び地球上に置ける座標の完全把握」です。
博士はこの能力を使用する事により、研究棟の自室で薫高い紅茶を楽しみながらアメリカ大陸の地形構造を砂粒の一つ一つに至るまで完全に分析し、人間や他の生物、自動車といった動的物体の座標をリアルタイムで把握することが可能です。
色彩や音声、匂い等の情報は取得出来ずあくまで形状と座標の把握に留まる様ですが、一度その目で直に見て形状情報を記憶した人物であれば世界の何処に居ようと二十四時間体制での監視が可能となります。
この特異性の原理の解明は今日まで一切なされておらず、特殊な音波や電磁波に寄るものではないことが判明している為、現在の科学技術でこの能力を妨害する事は決定的に不可能です。
「何も私はこの能力で誰かを困らせてやろうなどとは考えていない。私の飽くなき探究の結果被害を被る者が居るにせよね。それは弱肉強食を基本原理とするこの世界に於いては当然の権利の行使に過ぎない。君達が牛や豚の喉を裂いてその肉を食らうのと何ら変わりない行為と言えるだろう」
ザワールド博士は我々の口に相当する摂食器官を持っておらず、また通常の人間と同様に成長、老化といった外見の変化が現れるにも関わらず一切の代謝活動を行っていません。
「その証拠に私はアメリカが地下で行っている如何なる計画についてもイギリスの貴族が密かに実施している陰謀についても口外してはいないだろう。そういった行為は紳士的でなく、また非常に野蛮であるからね」
「財団としては博士の様な人格がその特異性を手に入れて下さった事に感謝しなくてはなりませんね」
もう一つの特異性は「自身以外の生命体を任意の場所に座標転移させる」というものです。
これは対象がザワールド博士の頭部の特定の位置に触れた際に発動します。
博士の頭部は――――年にイギリスのグノーシス社が発売した学習用地球儀です。
まるで断頭された身体の断面に地球儀を乗せた様な状態になっており、また如何なる方法で地球儀と人間の肉体とが接着されているのかは不明です。
検査によって博士の体内構造を調べる事には全て失敗しています。
博士の第二の特異性はこの地球儀状の頭部――その特定の場所に転移したいという意思を持って触れる事で発動します。
転移は未知の方法によって瞬間的に行われ、また転移させられた生命体そのものにはあらゆる物理的影響を及ぼしません。
転移前と転移後に行われた正気度指数及びエントロピーグラフ実験により転移前の対象と転移後に特定の位置に再出現した対象は同一の存在であることが明らかになっています。
時折、地球儀の表面に本来存在する筈の無い地名の表記が出現したり未知の大陸が出現することがあります。
いずれも同時刻に置ける現実世界での変化が確認されておらず、転移対象の回収が非常に困難であると予想される為にその調査は見送られています。
この件を考慮して現在財団では緊急時以外に於けるこの能力の使用を許可していません。
「如何して私は何処にも行けないのだろうねぇ」
博士は頭の中にある「世界」をくるくると回してそうおっしゃいました。
NAME:ルーベンス・ザワールド(ザワールドという性は存在しない為偽名であると思われる)
CLASS:A級職員(博士)
SEX:男性
AGE:30(自称)
BIRTH DAY:D.27 M.06 Y.――――(自称)
ADDRESS:NDP財団本部研究所サイト1ルーム3000
文責 クサナギ副所長
D.―― M.―― Y.――――
国際機関NDP財団本部付属研究所✓
「世界」はその手の平の内にある。
では、その手の外に「世界」はあるのだろうか――――