*episode.35 2人だけの場所
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「えー、――――、――――――……」
先生の言ってる事が、まるで頭に入ってこない。
いや、決して聞こえない訳じゃないんだよ。内容が、片耳から入って、片耳からすり抜けていくの。もしくは、最初っから入ってきてなんかない。
とにかく、何が言いたいのかと言うとね。私は、授業を全く聞いていないんだ。
こんな成績の私が、何を調子に乗ってるのかって? この間のテスト、全教科半分も取れなかったくせにって?
いいや、今は何言われても動じないよ。普段なら傷付くような事を言われても、全然平気。
今、私はそれくらい、自己嫌悪に陥っているんだ。
うじうじ悩んでたって仕方ないよ。それは分かってるけど、それでも落ち込むのは仕方ないじゃん。
「はぁあああ……」
だらしなく開いた2枚の唇の隙間から、これまただらしない溜め息が漏れ出す。息どころか、声まで出ちゃってるんだけど。
隣の席の子が私の方を見て「大丈夫?」って声を掛けてくれたけど、私は苦笑いするだけで、何も返せなかった。
あぁ、ダメだ。精神的に参ってる。
色んな気持ちが、頭の中でごちゃ混ぜになる。
変わり果てたしゅーちゃんの事、檸檬ちゃんや蜜柑ちゃんに対して、私が思っていた事、それから黄色と橙色の妖精さんの謎や、私の闇の事、曇ったままのミラクルキー、青葉ちゃん――色々あり過ぎるんだ。
あああ、まだ中学生になったばっかりなんだよ、私。
どうしてこんなに重い重荷を背負わなくちゃいけないんだろう……。
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「桃音、一体どういう事なの?」
帰るなりお母さんが玄関の前で仁王立ちしていた。
「わっ」
私は驚いて飛び退いた。だけど、追い詰めるようにお母さんも1歩ずつ近付いてくる。
ひえええ、何なの? こんなに怒った顔のお母さんを見るのは、何年ぶりだろう。
「どういう事って、どういう事?」
私は聞き返した。
すると、お母さんは無言で手招きをした。私も何も言わずに頷いて、ローファーを脱ぎ捨てて、リビングに入った。
そして、嫌な物が目に入った。
「……げっ」
それは、食卓の上に広げてある、テスト結果だった。
渡してから暫く経ってて、何も言われないから安心してたのに!!
お母さん、忙しくてまだ見てなかったんだ。
「桃音、どうしたの? あんなに一生懸命受験勉強してたのに、どうしていきなりこんな結果になっちゃったのよ?」
お母さんは、責めると言うより心配していると言った方がしっくりくる表情で、訊いてきた。
「何か嫌な事でもあるの? 転校生も来たみたいだし、最近顔色も悪いから心配してるのよ。
また小学生の時みたいな事が起きてないか、心配で――」
「平気だよ。一緒の教室で過ごしてる子ももう中学生なんだよ。あんな幼稚な事する子なんて、居ないよ。」
私は勢いよく息を吐くように、半ば叫びながらそう言った。
嫌な事をされている訳じゃないのは本当だよ。
ただ、小学生の頃の話をしてほしくないだけ。
思い出したくもない。お母さんの口から、その話題が出てくるなんて、堪らなく嫌だ。
「桃音、お母さんは小学生の時に起こった事、ちゃんと知ってるのよ。だから隠す必要なんてないのよ」
お母さんは私の目を真っ直ぐに見て言ってくれた。思わず涙が溢れ出してきそうになったけど、私はそれを何とか飲み込んだ。
「本当だよ、お母さん。本当に本当に大丈夫。
小学生の時にたくさん勉強してたのは、ただ青空学園に憧れてただけだからだったんだ。青空学園に入れれば、それで良かったの」
私は本当の事を話した。
うん、これが本心だよ。私はどうしても青空学園に通いたくて必死に勉強してきていたから、担任の先生に、どう考えてもお前には無理だって言われたこの学校に入学出来たんだ。
入学した後、高レベルな授業に付いていけるかも考えずにね。
「……そう。それなら良かったわ」
お母さんは、安心したように、目を細めて微笑んだ。私も笑い返して、強ばっていた空気は一気に和らいだ。
あぁ、良かった良かった――
「で、入学出来たからもう勉強はしなくて良いと思ったのね?」
今までにこやかだったお母さんの顔が、一気に般若になった。
「へ?」
「中学生になったんだから、しっかり予習復習しないと分からないに決まってるでしょう!!」
お母さんの怒声が耳の奥をガンガンと突き抜けていく。
ひいいいい、和んでる場合じゃなかった。
「だから、桃音」
耳を抑える私の手を、お母さんは乱暴に掴んだ。
「ひいいいいいいいいんっ」
だめだ、もう終わりだ――
「あなたも美雲塾に通いなさい」
「……え?」
私は思わず聞き返した。
メッタメタのギッタギタに怒られるものかと思ってたから、拍子抜けちゃった。昔から勉強の事に関しては結構厳しいんだよね、お母さんは。
だから、塾に通えって言われるのも、納得は出来た。放っておく訳ないもんね。
「だから、美雲塾に通いなさい。しゅうこちゃんも通ってるし、安心でしょ?」
「う、うん」
そっか、しゅーちゃんと同じ塾に通えるんだ。それなら会える回数も増えるよね。
それに、会えるのはしゅーちゃんだけじゃない。くーちゃんも、美雲塾に通ってるんだ。会った事はないけど、雪帆ちゃんのお姉さんも通ってるんだよね。
あ、何か楽しみになってきたぞ。
「お母さん、あのね、同じクラスの赤羽紅ちゃんって子も、美雲塾に通ってるんだよ!」
私は嬉しくなって、今まで話した事のなかった中学校の友達の話を、お母さんに話した。
そうだ、よく考えてみたら、中学生になってから、学校の話をお母さんに言ってなかった。それどころか、学校以外の会話だってほとんどしてなかったかもしれない。
おはよう、行ってきます、ただいま、おかえり、おやすみ――日常会話以外、全然してないよ。
光の事で疲れてたし、お母さんが帰ってくるのが遅かったりで、なかなか顔を合わせられてなかった。
もしかしたら、お母さんはこの事を気に掛けて、わざわざ美雲塾に通わせようとしてくれてるのかな。
塾代って結構するよね。小学生の時は個別指導だったからかもしれないけど、結構な値段だった。
お母さん、私の事、こんなに大切にしてくれてる。
「へえ。それで、どんな子なの?」
お母さんは嬉しそうに尋ねてきた。
「あのね、くーちゃんはね、――」
私は、今までの分も全部、お母さんに話した。
……話せる範囲内だけどね。
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その日の6時頃、くーちゃんから電話が掛かってきた。内容は、明日の時間割を聞きそびれた、とのこと。
あのしっかり者のくーちゃんが聞き忘れだなんてね。でもちょっと抜けてる所があると、あ、同じ人間なんだなって安心出来るな。
私はそのついでに、美雲塾に通う事になったとくーちゃんに伝えた。
『へえ、それじゃあ桃音も一緒に通えるのね』
くーちゃんはいつもの調子でそう言った。あんまり喜んではないみたい。
そっか、塾の中ではレベルに合わせていくつかにクラスが分けられてるんだっけ。それか、私が高レベルな授業に付いていけるか心配してくれてるのかな。
「うん。くーちゃんと同じ日だよ、火曜日と金曜日!」
『火曜と、金曜……』
くーちゃんはぼそっと呟いてから、
『桃音、平気なの? 私前に、美雲塾にあなたの闇が居るって言ったわよね? まあ、誰かまでは言ってないけど……それでもやっぱり嫌じゃない、何食わぬ顔で同じ空間に、自分を殺そうとしてる人が居るなんて……』
そう言った。
あ、そっか。その事を心配してくれてたのか。
「確かに嫌だよ。でも、会えばその子が誰なのか、きっと分かるから大丈夫。また戦う事になっても、私なら平気だよ。
だって、くーちゃんだって居るもん。」
言い終わってから照れ臭くなったけど、くーちゃんが居れば、きっと大丈夫だ。また頼る事になっちゃうけど。
『……そう』
くーちゃんは小さな声で言った。
『それじゃあ、また明日学校でね。時間割、ありがとう』
「うん、またね」
私は受話器をそっと、元の場所に戻した。
「……そういう問題じゃないのよ、桃音……。」
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3日後、私は初めて美雲塾に通った。
最初に実力がどのくらいなのかを調べるためのテストを受けた時は、くーちゃんと別のクラスになっちゃうんだろうなって絶望したけど、受験コースと一般コースが分かれてるだけで、私とくーちゃんは一般コースだったから、別けられる事はなかった。
集団での塾は初めてだから緊張したけど、くーちゃんと同じクラスになれたから、全然苦じゃなかったよ。
私が受ける科目は、特に苦手な数学と英語。
塾での授業は学校よりも進んでるから、結構苦戦した。やっぱり個別の方が私には合ってるかもしれないなぁ、なんて。
だけど、授業が終わった後に分からない所を先生に訊きに行ったら、分からないところを分かるまで教えてくれたんだ。しかもしかも、私が苦手なところをまとめたプリントまで渡してくれたんだ。
先生も暇な訳じゃないのに、何だかとっても嬉しかった。
だから私、勉強をガンバろうって思った。
「……頑張ってるのね、桃音」
最後まで居残りで復習をしていた私を、くーちゃんはずっと待っていてくれた。そんな事にも気付かないくらい熱中してたから、話し掛けられた時は心臓が飛び出しそうになった。
「えへへ。まあ、お母さんが毎日働いて稼いでくれた塾代、無駄にするよりかは良いかなって。」
私はたははと笑いながらプリントをファイルに押し込む。
「……そう。」
あれ。何でお父さんじゃないの、って訊かれると思ったんだけどな。
――あ、そっか。くーちゃんの家も、片親なんだっけ。確かお母さんが行方不明だって……。
「帰ろっか、くーちゃん」
私は勢いよく立ち上がって、くーちゃんの手を引っ張った。
「……ええ」
くーちゃんは戸惑いながらも、優しい顔で笑ってくれた。
そう言えば、考えた事もなかったな。
くーちゃんの家庭環境が、どんなものかなんて。
お母さんも、妹も行方不明で。まあ、妹は行方不明って事になってるだけで、実際は生きてるんだけど。
お父さんは、一緒に暮らしてるのかな。それともお祖父ちゃんお祖母ちゃんと?
ズカズカ踏み込むつもりはないけど、やっぱりちょっと気になった。
「ちょっと桃音、教室の電気消してないわよ?」
「あっ」
廊下の真ん中辺りまで来た所で、くーちゃんがドアが開きっぱなしの教室を指差した。
「そんなに急いでどうしたの? お腹でも空いたの?」
くーちゃんはおかしそうに訊いてきた。
「あははは、そうかもしれない」
私はへらへら笑いながら、教室の電気を消して、ドアを閉めた。
そうだ、考えた事もなかったんだ。
くーちゃんの事も、檸檬ちゃんや蜜柑ちゃんの事も、私、全部知ったつもりになってた。みんな、全部私に話してくれてるんだって思い込んでた。
だけど違う。みんなが隠し事してる事が問題なんかじゃない。
私自身が、みんなに自分の事を話してなかった。
やっぱり話すべき? でもどんな反応をされるんだろう。
実は私もずっと気になってた。とか?
うーん、うーん……。
私は立ち止まって頭を抱えた。
「ちょっと、どうしたのよ」
前を歩いていたくーちゃんが、角を曲がり掛けた所で、そう訊ねてきた。
無意識に唸り声を上げていたみたいだ。
「あ、ううん、何でもな――」
私が言い掛けたその時だった。
「やっほ、紅ちゃん」
曲がり角の向こう側から、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
このちょっと低めの声は、しゅーちゃんだ。
「しゅーちゃん!」
私は思わず、曲がり角まで全速力で走っていった。
しゅーちゃんも同じ曜日だったんだ!
「え、桃音ちゃん?」
私が曲がり角を曲がると、目を見開いたまま口を半開きにしたしゅーちゃんが立っていた。いきなり私に遭遇してびっくりしたのか、ぴくりとも動かない。
「何で、桃音ちゃんが、ここに?」
しゅーちゃんは消え入りそうな声で、私を指差した。
「あれ、お母さんに聞いてなかった? 私、中間テストがあまりにもやばかったから、ここに通う事になったんだ。」
「……へ、へぇ」
しゅーちゃんはぎこちなく笑いながら、首だけ曲げて、今度はくーちゃんの方を見た。
そう言えばさっき、「紅ちゃん」って読んでたよね。あれ、もしかして2人って、既に知り合いだったの?
「これってどういう――」
「あなた誰? 何で私の名前知ってるの?」
しゅーちゃんが口を開いた途端、それを掻き消すようにくーちゃんが叫んだ。眉間に皺が寄って、見るからに不愉快そう。
「行きましょ、桃音」
くーちゃんは呆然と立ち尽くすしゅーちゃんの横をすり抜けて、振り返らずにそう言った。
「う、うん」
私も慌ててそれに着いていく。
「またね、しゅーちゃん」
私は棒立ちのしゅーちゃんの後ろ姿に手を振って、塾を後にした。
くーちゃんはしゅーちゃんの事を知らないみたいだったけど、しゅーちゃんはくーちゃんの名前を知っていた。
これって、どういう事なんだろう。
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「何で、何で桃音ちゃんが……」
私は親指の爪を噛みながら、夜中の街をずんずんと進んでいった。
何で桃音ちゃんが塾に居るの? 紅ちゃんと私が桃音ちゃんにバレずに会える場所はあそこだけだったのに!
きっと紅ちゃんは、私が桃音ちゃんの闇である事を桃音ちゃんに知られて、彼女が深く傷付くのを防ぐ為に他人のフリをしたのよね。まあ、私にとっても好都合だけど、あの時思いっ切り「紅ちゃん」って馴れ馴れしく呼んじゃったし。
完全に怪しまれたわよね、私も紅ちゃんも。桃音ちゃん、昔から結構人を信用出来ない所あったし。
今度紅ちゃんと2人で会った時は、言い訳を一緒に考えてもらおう。
でも、問題はどこで会うかだよね。普通に呼び出したって、紅ちゃんはひょこひょこ来るような子じゃないのはもう分かってる。来ないと桃音ちゃんを殺すって脅したって、私が桃音ちゃんに酷い事をする訳ないって絶対バレてるし。
何なのよ。本当に何なのよ。
あぁ、本気で桃音ちゃんを嫌いになりそう。
「もう嫌だ……助けて、――ちゃん」
星も何も見えない紺色の夜空に、――ちゃんの顔が浮かんだ。