*episode.33 弱い人間
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「桃音! ほんっっとうにごめんなさい!!」
受話器の前で土下座をしながら、私はお腹の底から叫んだ。
「いいよいいよ、気にしないでよ、くーちゃん」
桃音が慌てて返してくれた。だけど気にしない訳にもいかないのよ。私は自分がされて嫌な事を、桃音にしてしまったんだから。
約30秒前。
「ええっ、塾の講習!?」
「そうなの、だから今日は行けなくなったわ……」
私と桃音は、ゴールデンウィーク初日に、檸檬と蜜柑を誘って、大きなショッピングモールに行こうと計画していた。ショッピングモールって人混みの象徴みたいなものだけど、休憩出来る場所もたくさんあるし、色々なお店があるから、誰も退屈しないで遊べるだろうって。
だけど、檸檬も蜜柑も、何日も部屋から出てこなくて、電話にも出られない状態なんですって。桃音が電話を掛けたら母親が出たからびっくりしたって言ってたわ。だから、桃音と私、2人で行く事になったの。
……なったんだけど、ゴールデンウィークは塾の講習がある事を、私はすっかり忘れていたの。
早起きして、「このお洋服どうかな!? くーちゃんとお出掛けするの初めてだから、楽しみだよ〜♡」なんて記号と画像付きのメールを送ってきた桃音に申し訳なくて。檸檬と蜜柑が来られなくて落ち込んでるはずなのに、私との外出をこんなに楽しみにしてくれてるのに。
なのに私は、自分が1番されたくない事の1つ――ドタキャンをしてしまったの!!
「桃音、ゴールデンウィーク明けに私を殴ってちょうだい。」
「えっ、いいよいいよ、全然気にしないでよ!
それよりも塾の時間、まだ大丈夫なの?」
腕時計を見ると、もう家を出ないとマズイ時刻になっていた。
「……ごめんなさい、切らせてもらうわ。」
「うん、また今度遊ぼうね! 私もテスト勉強する事にするね!
じゃあね!」
見えない桃音に2回頭を下げてから、私は受話器をそっと親機に置いた。
ちゃんとしないといけないわ。いくら寝不足でも、最近はケアレスミスが多過ぎるわ。
だけど、あの人を放ったらかしにして眠る訳にもいかないし。
朱もあれ以来姿を表さないし。高本しゅうこの事も気になるし。緑森さんの事も心配だし。桃音には頼りっぱなしで悪い事しちゃったし。
ダメだわ。頼れる人が出来たから、少し調子に乗っているのかもしれない。
自分の問題は、自分で解決しないと。
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「えーと、今から出席を取りまーす。呼ばれたらはっきりと返事をしてくださーい」
数学の先生が、怠そうに教室を見回した。
「――えー、赤羽紅」
「はい」
「赤羽紅出席っと……。
えー、緑森翡翠。……緑森翡翠ー?
……えー、緑森欠席っと……。
はーい、それじゃあ始めるぞー」
え、今日も緑森さんは休みなの? 余程体調が良くないのかしら。
誰よりも勉強熱心だったのに――人ってこんなにも熱中出来るのかってくらいだったわ、彼女が勉強してる時の表情。楽しんで学んでるって言うよりは、何かに追い込まれて必死にしているって感じだったし。
まあ、勉強って一般的な中学生に取っては楽しい事じゃないものね。私も好きだからやってるって訳じゃないし。
今度来た時は、ノートのコピー渡そう。
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「えーっと、それじゃあ明日も遅刻しないようにね。午後も受ける人は、20分までに片付けまで済ませておくこと。じゃあね」
国語の先生が教室から出ていくと、今まで静まり返っていた生徒達は、一気に騒ぎ出す。塾も学校もそうそう変わらないわね。
「ねーねー、帰りマック寄らない?」
「いーね。その後どっか寄る?」
「ごめん、私お母さんが午後も入れちゃったから無理〜」
「私帰ったら宿題やらなきゃいけないんだけど……」
「ったく、ゴールデンウィークだってのに勉強しなきゃいけないなんて拷問だよね。学校も宿題多過ぎだしさぁ」
「遊び盛りなのにね!」
「ほんと、頭良いって言ったって才能なんだから、眼鏡掛けたガリ勉じゃないんだしさぁ」
「ちょっと、それ赤羽さんの事言ってる?」
「聞こえるって、バカ!」
楽しそうに談笑していた女子グループの中から、私の名前が聞こえてきた。
思いっ切り聞こえてるわよ、と心の中でツッコんでおいた。
ま、私に才能がなくて必死に勉強してるガリ勉メガネなのは事実なんだけどね。
でも、努力をしてない天才なんて居ないんじゃないかしら。緑森さんを見てると、つくづくそう思う。
さて、私も早く昼食を済ませちゃいましょ。
「……え?」
学生鞄を全開にしてコンビニで買ったサンドイッチを取り出すと、その下に白い紙切れが入っていた。よく見るとそれは方眼紙だった。ノートを破ったのかしら。
それにしても、どうしてこんな物が私の鞄の中に? ノートなんか破らないし。学校で入れられたのか、それとも塾で入れられたのか。
それにいつ? どのタイミングで? 誰が?
直接口で言ってくる訳でもなくて、陰でこそこそ言うんでもなくて、手渡しで渡される訳でもなくて。これって、余程自分が書いた事を知られたくないって事よね。
知られたくない事って、多分……良い事じゃないっていう自覚があるのよね。それを分かっておいてわざわざ伝えようとするのも、自分がやった事をバレないようにするのも、陰湿だし卑怯ね。
下らないけど、やっぱりそんなに良い気分じゃないわ。
そう思いながらも、紙切れを鞄の底から取り出してみる。
半分に折り畳まれた紙を開くと、シャーペンで書かれた小さな文字がずらりと並んでいた。
「何これ、暗号?」
読む気が失せるくらい、細かく詰め込まれている。授業中にメモでも回してたのが私の鞄に入っちゃったのかしら? だったらあんまり深く読まない方が良いわよね。でも返す訳にもいかないし……。
いっか、捨てちゃいましょ。こんなにミッチリ書かれてるんだから、もう書くスペースだってないだろうし。
私はそれを何回か折ってから、ゴミ箱に入れた。
さぁて、早く食べ終えて予習しましょ。
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「……あれって……! どうして赤羽さんが?」
楽しそうに談笑していた中の1人が、誰にも聞こえない声でそう呟いた。
握られた拳が、ぶるぶると大きく震えている。
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ゴールデンウィーク最終日が来た。緑森さんは、1日も姿を現さなかった。
ゴールデンウィークが終わって、テスト期間に入った。桃音は本当にゴールデンウィーク中に猛勉強していたみたいで、案外苦労はしていないみたい。
テスト期間中も、それが終わっても、緑森さんは塾に来なかった。
……おかしい。もう1ヶ月近く経ってるのに。インフルエンザなんかが流行るような季節でもないし。
あ、確か身体が弱いって言ってたかしら。それでも今まで――たったの1ヶ月だったけど――休んだ日なんてなかったのに。
まあ、4月がたまたま調子が良かったってだけかもしれないし、これが当たり前だったのかもしれないわ。
どっちにしろ、心配だけど……。
「ん? あぁ、緑森さんね。
何か最近、学校にもちゃんと行ってないみたいなのよ。この前までは、よく近くのスーパーで見掛けたりしたのに、最近は全く見ないし。塾にも全然来てないし、最近は無断欠席してるし。
何かあったのかもしれないけど、きっと大丈夫よ。」
思わず国語の先生に訊いてみたら、そんな返事が返ってきた。
学校にも行ってないし、外にもろくに出てないのかしら。
まあ、具合が悪いのならそれは仕方ないけど――無断欠席って所が引っ掛かるわ。
……よし。
「あの、緑森さんなんですけど……」
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……何やってるの、私! そこまで親しくない私が、教えてもない自宅に来られたりしたら迷惑でしょ!?
もう、桃音のお節介癖が移ったのかしら?
でも、ここまで来ちゃったんだから、帰る訳にもいかないし。
そう、私は先生に、緑森さんの住所を教えてもらったの。
そうだ、ついでに宿題のプリントも渡してくれって頼まれてたんだわ。これを言い訳にすれば良いのよ。
「……それにしても、大きな家ね」
思わず声に出てしまった。だけど、本当に大きいのよ、緑森さんの家。うちの3倍くらいあるんじゃないかしら。
私は2回深呼吸して、インターホンを鳴らした。
『はい』
インターホンから、女性の声がした。
……緑森さんじゃない。
「こんにちは、美雲塾でみど――翡翠さんと同じクラスに通ってる者で、プリントを届けに来ました。」
『あぁ、わざわざ来てくれたのね。今開けるから待っててちょうだい』
ガチャ、と音がしたと思ったら、すぐさまドアが開いた。
中からは、30代くらいの女性が出てきた。
この人が緑森さんの母親? 何だかイメージ通りだわ、童話に出てくる妖精みたい。
「こんにちは。遠慮なく入ってちょうだい。」
私はその人に家の中に招き入れられた。モダンな雰囲気の玄関は、とても広い。
まるでどこかのお城みたいね。
「突然でごめんなさい。翡翠さんが心配で、つい……」
私は緑森さんの部屋まで案内すると言う彼女の母親に着いていきながら、言い訳を零した。
「良いのよ。寧ろこんなに親切なお友達が翡翠に居るなんて知らなかったわ。あの子内気だから、お友達が居ないんじゃないかってちょっと心配なのよね。」
「あ……私以外にも、たくさん友達居ますよ。寧ろ私があんまり周りと馴染めないから、緑森さんには本当に感謝してるんです……」
なんて、ちょっとした嘘まで零れ落ちた。
……だって、緑森さんが塾で誰かと話している姿なんて、見た事がないんだもの。だけどきっと、私が知らないだけで、友達くらいたくさん居るわよね。
「そうなの? なら良かったわ。あの子ったら、なかなか学校や塾の事、話さないんだもの」
緑森さんの母親の安心したような声で、心がちくりと痛んだ。
階段を2回上がると、1番奥の部屋の前で、緑森さんの母親は立ち止まった。
「翡翠ちゃん、お友達が来てくれたわよ! 宿題のプリントを届けに来てくれたんですって!」
コンコン、とノックしながら、緑森さんの母親は声を張り上げる。
すると、ドアの向こう側から、小さくて弱々しい、緑森さんの声が聞こえてきた。
「誰? 学校の子?」
学校の子って事は――学校には家まで来てくれるって思えるような友達が居るって事かしら。それなら良かった、さっき言った嘘が嘘じゃなくなるわ!
「ううん、塾の子だって。良いから開けなさい、迷惑よ?」
「じ、塾……?」
緑森さんは、塾、という単語に過剰に反応した。
「い、今具合悪いから、帰ってもらって……」
「何言ってるの、せっかく来てくれたのよ? そんな風な言い方はないんじゃないの?」
「だってお腹痛いんだもん、しょうがないじゃない!」
「学校に行って疲れてるのに来てくれたのよ!?」
……マズいわ、私のせいで親子喧嘩になってしまう。
「あの、気にしなくて良いですよ。プリント届けられれば良かったし、緑森さんがどんな調子なのか知りたかっただけなので。」
私はそう言って、プリントが入ったファイルを、緑森さんの母親に手渡した。
「ごめんなさいね。こんな娘だけど、これからも仲良くしてやってちょうだいね。」
泣きそうな表情で何度も頭を下げられる。私は両手をブンブンと振った。
「それじゃ、帰りますね。」
玄関で、ローファーに足を入れる。
「お邪魔しました。」
「良かったらまた来て、翡翠と話してやってね。今日は機嫌が悪かっただけだから。じゃあね。」
「さようなら。」
私は緑森さんの母親に見送られながら、そっと純白の門をしめた。
……びっくりしたわ。普段はお淑やかで大声を出したりしない緑森さんが、あんなに大きな声を出すんだもの。
それにしても、仮病――アレ完全に仮病よね――を使ってまで追い返される私って、そんなに緑森さんに嫌われてたのかしら? ちょっと、いやかなりショックだったわよ。
塾の人って聞いた途端にあんなに攻撃的になって――きっとわざわざこんな事をするのは私だって察したんだわ。
もう来ないようにしよう。緑森さんにも、なるべく話し掛けないようにしないと。
「……そうよね。」
緑森さんが塾に来なくなったのも、学校に行けなくなったのも、外にも出られなくなったのも、もしかしたら私が嫌だったからなのかもしれない。私が嫌過ぎて、無理に親しくして、疲れてしまって、何の気力も湧かなくなってしまったんだ。
人に迷惑掛けてばっかりだし、無責任だわ、私。
桃音にも、檸檬や蜜柑にも、緑森さんにも。
やっぱり私、人と関わろうとしちゃいけないんだ。人と親しくなろうとしちゃいけないんだわ。こんなに弱い人間なんだから。
小学生の時、そう学んだはずじゃない。どうして今まで忘れてたんだろう。
……桃音が、私の事を本気で好きだって言ってくれたから? 桃音に甘えていたの?
駄目よ、こんなんじゃ。こんな中途半端なままだったら、いつかまた独りになってしまう。
『私はあんた達の前では怯えて大人しくしてただけで、元からこういう性格だった……私がこんな風になったのは全部あんたのせいじゃない!』
あの日の朱の言葉が、頭の中で再生された。
何度も何度も、リピートしながら。時たま、逆再生になりながら。
あ。
私って、だめな人間なんだわ。
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「……翡翠、いい加減にしなさい。」
薄暗い部屋に、怯える子供と、それを部屋の隅に追い詰めていく大人。
「ごめんなさい、ママ、ごめんなさい……!!」
子供は必死に謝りながら、部屋から転げるように逃げ出した。