コミュニケーション論
小学校の低学年(小学二、三年生ごろ)の時のことを思い出す。全く以て、私は無邪気で、自分の言いたい放題な言動のことなど、一ミリも考えないくらい純粋の真っただ中であった。私はある友人といろんなことをしてよく遊んだ。私は友人と心底、無意識の状態で会話をした。時に僕が言いたいことをそのまま責め立てて言うように言い、時にその友人が私をおちょくるように逆上して文句を言ってきたり、はたまた私は彼に謝罪をうながしたり、はたまた彼は私との関係を「心の友」だと明かしてくれたりもした。そして、私は彼を信用していたし、彼も私を裏切るようなことはなかった。その、何の気遣いもしない無意識どうしで行われるコミュニケーションはある意味、真のコミュニケーションだったかもしれないし、ただ難点なのはそれ以降、そういう調子で会話が行われることは二度となくなってしまったことだった。無意識で喋ることは本当に難しい。大人には到底、真似できない。
だから、ある意味「考える」ことがコミュニケーションに対しての一般的な方法論であることが分かった。これはコミュニケーション障害を悩みに持っていない健常者も同じことであろう。例えば、ここでどう自分を魅せようとか、どう表現しようとかは当然であるけれども、「うまく喋りたい」とか「うまく喋ろう」として意識したりすることも、健常者にもあるということだ。その場合、「考える」ということが一つの方法論というか、解決策への道のりであるだろうと思われる。しかし、コミュニケーションに障害をきたしている者に、解決策などやはりないであろうとも思われる。そういう人はコミュニケーションの方法論の解決策を出すことが重要ではなく、その答えまでの行程を楽しむということが大事なのではないか。
ここで、そもそもコミュニケーション障害とはどのようにして起きるものなのか。批評家の柄谷行人が対談でこう言っている。
『精神病というのは、基本的にはコミュニケーションの病気だと思うんです』。
その発言に対して、日本の医学者であり精神科医でもある木村敏という人が『そう思います』と返答している。
私もこの柄谷氏の意見には同感で、私はある精神病を患ってから、極端にコミュニケーションが不出来になった気がしていて、つまり、精神病を患っている人にコミュ障が多いということがあると思う。しかし、精神病というものは、たったこれだけ、コミュ障による苦痛だけしかないのである。精神病がもたらす症状の苦しみは実はなんてことはない。それはただ単にしんどいだけだ。「少し」苦しみがあるとすれば、それはコミュニケーションの病気による苦しみなんだと柄谷行人氏は言っているのである。だからコミュニケーションの病気と言ったって、ことさら深刻でもないし、リラックスして安心して捉えてくれていいと思うのだ。
コミュニケーションが苦手な人はコミュニケーションをどう捉え、考え得るだろう。やはり、まず「考えることは正しいか」であろうし(それは先に述べた)、たぶんコミュニケーションの解決法みたいなものを考えると、さらに問題は困難な方向に向かうかもしれない。それはあるとして、ただし自分を「蛇」のように性格を作り上げて、他人に威嚇するタッチで、喋る人もいるかもしれない。「スネーク」と呼ばれる作戦であるが、私はこの作戦は人に心底、恐怖を与えるので、芳しいものだとは思えない。
では、私が提案しよう。「笑う」というのはどうだろうか? 人の発言や会話に対して、アハハと「笑う」しぐさを見せること、だ。これは案外、好意的にみられるのではないだろうか。暗いより明るい方がコミュニケーションは取りやすいはずである。しかし、度を越えるくらい笑いすぎてはだめだ。それでは引かれる。ちょうど良い按配で、さりげなく大笑いして魅せるのだ。好感度が上がるかもしれない。
コミュにとっての「真」の問題とは何だろうか? やはり、「コミュニケーションの問題など、取るに足らない問題だ」と結論付けれるかどうかだろう。他に深刻な問題があるだろう。例えば、今なら政治で言うと「北朝鮮の弾道ミサイルが日本に飛んできた場合の問題」であろうし、そもそも「コミュニケーションにまつわるいじめの問題」なら分かる気がするが。では、その問題について何か言及しようか。「いじめの問題」という枠内で考えるならば、何もコミュニケーションのいじめの問題だけが重要ではない。それを考えようとしているならば、「学校のいじめ」の問題について、過去を振り返って思い出して考えてみるといい。クラスの中には必ず誰かが自分のことを不快に思っている奴がいる。自分を敵視している奴がいるかもしれないということだ。そういう場合はまず一番にすることは「そういうやつらとは関わらないこと」だ。そういうやつらと関わって何かメリットがあるわけがない。どんどん離れていけばいい。自分は暴力は反対だし、あなたほど人気もないなどと、おべんちゃら、ゴマすりをして、さっさと離れるべきなのだ。そういう汚い心の奴は必ずクラスには一人はいる。いるけど、関わらないようにすることもまた十分に可能であるのだ。
まあ、そういうふうな「学校のいじめの問題」を足掛かりに、コミュのいじめの問題も考えると、まず、薄汚れた心の人間とは付き合わないこと。これが鉄則であるのだ。しかし、本当にコミュニケーションのいじめの問題は深刻な問題の一つであろうか。やはり、「学校のいじめ」の問題が結局は一番、重要な問題であって、それはあまり深刻には考えないことだ。それだけは考えてはならない。ノイローゼになるからである。しかし、コミュニケーションの問題が取るに足らない問題というのはやはり、救いですよ。確かに仕事場での会話をざっくばらんに喋りたい欲求は起こる。でも、仕事場での会話はあくまで「仕事」の会話以外は必要ないのである。その「仕事」の会話をうまく話したいというのが一般的なコミュニケーションの悩みではあるとは思うのだけど。ところで、ある人が「私はコミュニケーションの問題は考えない方針だ」と言うのであれば、私もそれは否定しない。しかし、それも「考え」た上での結論なのだ。そのことだけは分かっていてほしい。考えることで何かを切り開くことは確かに容易なことではないけれども、でも本当はそれは素晴らしいことなんだ。特にこの文章を読んで下さった「文学ユーザ」の方々はほんとうに思考は好きだと思う。思考に幸あれ。
夜雨直樹。