ヤギの心臓
宙はかくもヤギの心臓のように紅く、視界も又それに彩られている。
そこに刺し込むように突き出された鈍色は美しくも醜い白魚に添えられていて。
僕は、言う。
「あなたが好きだ」
彼女は、言う。
「死んでもいいわ」
ちゃちなナイフはもうその穢れなき喉元を食い破れと囁いているというのに。
愛しい僕の人形は口元を鎌のように歪め僕の鼓動を軋ませる。
何故、なんて問いはとうに枯れ果て、地に転がる彼女の携帯とともに亡骸のように朽ち果てている。
だのに、彼女への好意は消えることもなくいつかに夢見た孤島の熾火のように燃えて。
何もわからず、何も口にできない。
まるで生まれたての赤ん坊のようで、いやそれでも今の僕はそれにも劣る畜生だ。
だから例えるなら、そう。
「迷い児。可哀そうに道順を間違えた愚かな子。途切れた道を体液で穢して足元もおぼつかずそれでも歩くのね」
迷った、のだろうか。
嗚呼、それでもナイフを片手に愛を囁くのは、性器をつぶしながら絶頂するのと同じようなことなのだろう。
それ等の行為が似たようなものであっても等価であるかはともかくとしても。
頭はとうに僕の制御を離れてウジ虫のごとき有様。
ごそがさと騒ぎ立てるそれは何故だか体をも這いずり回り脳を、腕を、足を、手を、ナイフを。
震わせる。
死体をあさるハイエナよりも荒い吐息を繰り返し、暗示のように僕は言う。
「僕はあなたが好きだ。好きで、好きだからこそ、好きであればこそ、なればこそこのような行動をしているのだ」
このようなことを言えた自信はない。
頭をはいずるそれを引きずり出しせめてもの飾りつけをして相手の口元に押し付けたようなありさまが言葉。
そんなものは伝わりようがなく、だから、彼女の言葉は
「だから、死んでもいいわ」
何も形を結ばない。
「私」
何も。
「死んでもいいわ」
なに、も。
何も聞こえないはずの言葉はウジ虫を押しのけ勝手にそれの意味するところを突きつけようとする。
いよいよわからなくなって僕は優しい痛みを彼女に押し付けた。
だから、死んだ。
形はいともたやすく結ばれて、彼女の悲哀に満ちた瞳は僕の舌がなめとった。
「 」
やまぬ吐き気とおぞましい絶頂に体を震わせながら口から出た言葉は何の意味も持ってはいなかった。
代わりにドロドロにかき混ぜられたウジ虫の死体の山が彼女の言葉を語りだす。
「私、死んでもいいわ」
「死んでもいいと」
「言っている」
「のは、なぜ」
「意図は虚像」
「意味は実像」
「愛している」
「の言葉の英語」
「を曲解」
「好きだ」
「な満月」
「だから」
「それ」
「は?」
それはもはや彼女の言葉ではなく僕の口からあふれ出るものだった。
意図は明確でだからこそ彼女は悲哀を僕に向けた。
僕は、駆けた。
気づけば僕は宙にいた。
ヤギの心臓は賢しき人の腸の中に飲み込まれ、そこに白々しい球体がぽかりと浮かんでいた。
言葉は疾うに枯れ、罪悪感というプレス機はたやすく僕の体を押しつぶした。
肌に触れる風も、恐怖におびえる本能も感じず。
彼女の真意を遅すぎる手紙のような後悔とともに知った。
――今日は月がきれいですね。
柘榴は散った。
だからおしまい。