中編
メイズファとふたりで、谷の下を眺め回した。鬱蒼と黒ずんだ緑が繁る中、切り開かれたその平地には何軒かの建物がたっているようだ。黒衣のからす衆の姿も見られた。
メイズファは髪をかきあげた。話しかけるのも憚られるほどの鬼気迫った表情にぼくは少したじろいだが、すぐに気を取り直して言った。
「もう気は済んだかい」
メイズファは答えなかった。ワンピィスの裾が土で汚れるのも構わず、地べたに座り込んで一心に下を凝視している。ぼくは途方に暮れ、町のある方向に目をやった。ここに来るまでに越えた尾根が、天を突くように聳え立っていた。
「そうか」彼女がふいに言った。「悲しいな。カサドラは興味がないのか」
「人が死ぬところなんて、見たくもないよ。反吐が出る」
メイズファの白い綺麗な手が、ぼくの足首を掴み、太ももに伸びた。産毛を撫でられる恍惚とした感触。そしてぼくはいつもの如く、彼女を振り払う。
「君は君のおかあさんから産まれ、子供を残していつかは老いて死ぬ。そうやって、命は脈々と受け継がれていく。当たり前の、ことだ」
「百歩譲って」ぼくは続けた。「メイズファ一人がそれを見るのはいいとしても、何でぼくが同行する必要がある?」
メイズファが何か反駁しようと口を開きかけた時、谷下から物を引きずるようなずりりっ、という音がした。ぼくらは顔を見合わせ、恐る恐る下に目をやる。この時ばかりはぼくもむせかえるような好奇心に我を忘れていた。
からす衆が数人がかりで、布に包まれた何かを引きずっている。
からす衆はそれを持ち上げると、木で組み上げられた簡素な祭壇の上にそっと乗せた。固唾を飲んで見守っていたが、それっきり動きは見られなかった。からす衆たちはそこらをせっせと出入りし、忙しげに走り回っている。
「きっと、あれを燃やすんだよ」
あれ―メイズファの指すものが何なのか、ぼくにもうっすらと分かってはいたが、口には出さなかった。生まれて初めて見る、死体。イメージを膨らませてみたが、昨日まで元気だった人間が物言わず朽ち果てている光景など想像もできなかった。
やがて、空は夕暮れの赤に染まり始めた。母は今頃心配しているだろうか、どうしよう。取り留めのない思いが心の内を過ぎていった時、ふいにぼくの肩にずっしりと重い手の感触が伝わってきた。メイズファだろうか、そう思い振り返ると、黒いフードで顔を隠したからす衆の若者の姿がそこにあった。
「うわぁ」
ぼくは仰天し、尻餅をついて転がった。ふわり、という浮遊感。気付けば、ぼくの体は谷下、宙に投げ出されていた。
「あ、気がついたみたい」
細い少女の声が途切れ途切れに聞こえた。体中がだるい。再び泥のような眠りの底に落ちかけた時、そこからともなく伸びてきた白い腕が、ぼくの肩をつかんで揺さぶった。
「おーーーーーーいッ、カサドラ!」
聞き慣れた、透明感を含んだ声。紛れもなくメイズファのものだった。ぼくは固く閉じられた瞼をこじ開け、目をぱちくりとさせた。
「よかった、生きてたんだ」
「ああ」
気のない返事。ぼくは体を起こし、周囲を伺った。藁を敷き詰めて作られた粗末な寝床に、ぼくは横たえられていた。
「ここはどこだ」
「谷の下。カサドラが頭を打って気を失っていたから、皆で運んで行ったの」メイズファはこともなげに言った。流石に、申し訳なさそうな表情を浮かべている。
「皆って……」
「それより、来なよ。綺麗だよ」
朝と同じだった。ぼくは手を引かれるままに、戸外に出た。
闇を切り開く紅い炎が、ゆらゆらと形を変えながら揺らめいていた。ぱちぱちと弾ける火の粉がそこらを飛び交っている。そして、魚が腐ったような鼻をつく臭い。
祭壇に焚かれた炎の周りをからす衆がぐるりと取り囲んで、何やら呪文のようなものをぶつぶつと呟いていた。
ひとりのからす衆が、体を揺らしながら近づいてくる。大柄な男だった。
ぼくは咄嗟に身構えたが、男は危害を加える気はなさそうだった。顎をしゃくり、ついてくるように言うと、すたすたと歩き出した。メイズファも神妙な顔で後に続く。
「あ、ちょっと」
戸惑ったが、結局ついていくことにした。男はわきたつ炎の横を通り、黒い屋根の小屋に入っていった。メイズファの淀みのない動きにどこか気味の悪さを感じつつ、ぼくも板張りの室内にはいる。
痩せ細ったイグリの婆様が中央に寝かされていた。目は半分閉じられており、肌はかさかさに乾燥して干からびている。時折びくりと肩が動くので、辛うじて生きているということはわかった。
「君たちが来たことを伝えたら、ぜひ会いたいとのことだった」
男はそれだけ言うと、さっさと出て行ってしまった。ぼくはしばらく呆然としていたが、気を取り直すとすぐにメイズファに説明を求めた。
「別に。見つかったけど何もされなかった。ただ、町に戻ってもここに来たことは言わないことと、夜が開けるまでは留まることを約束させられた」
幾分ほっとしながらも、ぼくはさっき抱いた不穏な感情を抑えきれずにいた。ここにいるメイズファは本物なのか?もしかしてぼくは騙されているんじゃないか?そんな疑問が浮かびかけた時、婆様が口を開いた。