JK第9号 給料明細-今日は楽しい給料日-
首が痛い。とても痛い。今日の朝、起きて最初の感想がそれだった。県庁に出勤して、自分の机に向かった今の段階でも、その感想は変わることがない。
「筋肉痛?」
私が首筋を手で揉んでいると、船橋班長が声をかけてきた。
「特に首に来るのよね、あれ」
「……首の痛みを感じるのは、首と胴体を真二つに分けられたシーバくんの呪い」
船橋班長と横芝先輩の言葉を聞いて、私は首の痛みの原因を理解する。やはり、シーバくんになったのが原因なのだろう。30分程度しかあの格好はしていなかったはずだが、それだけ重労働だったと言うことだ。特に首が。
「さて、佐倉さん。今日は何の日か知っている?」
突然船橋班長がそう尋ねてきた。私は少し考えてみるが、思い当たる節はない。
「毎月21日はとっても嬉しい給料日です」
「ああ……はい、そうでした」
答えを聞き、私はその事を思い出す。以前、船橋班長から給料日がいつか教えてもらったことはあったが、その記憶を咄嗟には思い出せなかった。
「給料に関する事務手続きをするのも庶務担当者の仕事……でしたか?」
私は以前船橋班長から聞いた言葉を改めて復唱する。すると船橋班長は満足そうに頷いた。
「給料を支払う仕事をしている部署は別にある。でも、その部署だけで県職員全員の給料を管理することはできないから、私たちも簡単な仕事はすることになる」
「簡単な仕事……ですか」
私はどんな仕事をするのか全く想像がつかず、首を捻る。
「まあまずは、給料の基礎知識を教えましょうか。パソコンを開いて、自分の給料明細を印刷してくれる?」
「はい」
私は指示通りにパソコンを立ち上げる。給料明細は紙では配られず、県庁のホームページからデータをダウンロードして自分で印刷する仕組みになっていた。
私は自分のIDとパスワードを入れ、自分の給料明細をダウンロードする。そしてそれを印刷した。
「できました」
「OK。それじゃ一番上から説明していきましょう」
船橋班長は私が印刷した給料明細を浮け取ると、それを机の上に置く。給料明細と題されたその紙は、何十個もの枠がありそれぞれによく分からない単語と数値が記載されていた。
「まず給料月額。これが基本的な給料の額になる。佐倉さんの給料月額は141200円で、同じ一年生の柏さんと茂原さんも同じ額。私はその額より一万円くらい高い」
141200円と聞いて、私はその金額が高いのか安いのか実感がわかなかった。少なくとも3ヶ月前にもらった私のお年玉の3倍の額だ。そう考えるととても高い。
しかし週5日8時間働いて、その対価が14万円だと考えると高いとも言えない気がした。時給にすると900円くらい。アルバイトとあまり代わりがない。
「この給料月額はどうやって決まっているんですか?」
「人事委員会という専門の組織が、この地位でこの程度の経験がある人はこの額にするって一覧表を作ってるの。この1級1号給って表現がそれを示してる」
給料明細の一番上に書いてある1級1号給という表現に私は見覚えがあった。確か、採用された時にもらった辞令の紙に書いてあった気がする。
「級って言うのが地位。一番下の私たちは1級。副課長は6級で、課長は7級。そして号給が経験。これは1年ごとに大体4つずつ上がる。優秀な成績だった人は5以上上がることもあるし、逆に大きな失敗をしてしまった人は3以下しか上がらないこともある」
船橋班長がそう説明してくれるが、用語が特殊でどうにもすぐには飲み込めない。
「つまり、私が働き続けたら1年後に1級5号給、2年後に1級9号給になる。それとは別に、私が課長になったりしたら級が7級になる」
「よくできました」
私のその返答は正しかったようで、船橋班長は満足そうに言葉を返す。
「次が地域手当。手当と言うのは給料月額にプラスしてもらえるお金のこと。地域手当は職場が都会になるほど多くもらえる手当よ」
「え?」
次の説明に私は思わず声をあげた。職場が都会だとなぜ給料が高くなるのか、全く分からなかったからだ。
「アルバイト情報とかを見てみると分かるけど、一般的に都会に行くほど時給は高くなる。それに、物価も高くなる。だから私たちの給料も都会に行くほど高くしようって趣旨なのよ」
「ははあ……」
私はその説明を聞いて、その手当の必要性は理解できた。ただ社会経験のない私は、都会ほど時給が高いとか物価が高いと言われてもピンと来ない。
「例えばC市と……南の方の小さな村だと、どれくらい差があるんですか」
「C県内ならどこの市町村でも全く差はない。同じ地域手当額が支給される」
「えっ」
私は予想外の答えが返ってきてまた声をあげてしまう。
「地域によって時給が違うから給料額も変えようって趣旨の手当なのでは……」
私がそう疑問を投げかけると、船橋班長は両手を上げて見せる。
「昔はC市と小さな市町村で差があったんだけど、10年くらい前に差をつけるのは止めたみたい。今は全員に平等に、給料月額の10%の額が支給されている」
「……平等になったのなら、もうこの手当はいらないのでは?」
「そうね。私もそう思う。ただ私は給料の専門家ではないから、この手当を残す理由も何かあるのかもしれない」
船橋班長の説明はなんとも歯切れが悪かった。もっとも、これ以上質問しても船橋班長が困るだけだろう。私自身は納得していないが、とりあえずそれはそう言うものだと受け入れることにした。
「地域手当は全員に時給されるけど、他の手当は対象者にしか支給されない。例えば管理職手当は管理職……課長や副課長に支給される。扶養手当は子どもがいる人に支給される手当。そして、通勤手当は徒歩以外で通勤する人に支給される手当」
船橋班長が上から順番に手当の内容を説明している。そしてその通勤手当の欄には56320と数字が記されていた。
「なんだか、随分多いですけど……こんなにお金がもらえるんですか?」
「そんなにお金がもらえるの。電車通勤の人は6ヶ月定期券の額と同額が支給されるから見た目はたくさん給料がもらえるけど、次の通勤手当の支給は6ヶ月後だから、他のことに使わずちゃんと定期券を買うのよ」
船橋班長はそう説明してくれる。しかし、その話に私は少し違和感があった。私の記憶だと、6ヶ月定期券の代金は5万円以下だった。母から一万円札を5枚もらって、緊張しながら駅に向かったのだから間違いはない。
「6ヶ月定期券よりも多くもらえているような気がするんですけど」
私は気になって、船橋班長にそう尋ねてみた。
「よく気付いたね。そのとおり、最初の一回は1ヶ月定期プラス6ヶ月定期の、合わせて7ヶ月分が支給されるの」
「? なんでですか?」
「私たちのように社会経験なしで就職した人は、最初のお給料日までお金がないじゃない。だから最初の1ヶ月はお金の負担が少なくなるよう、少し割高の1ヶ月定期券を買ってもいいよって制度なの」
「なるほど……」
その考え方は理解できた。理解はできたが、そんな細かい部分まで考えて手当額を支給するというのは、とても大変なことに思えた。
「佐倉さんに支給される手当はさっきの地域手当と通勤手当だけかな。それと、もし家を借りて一人暮らしをするなら住居手当も支給される。大体家賃の半分くらいの額がもらえるの。この課の中だと企画広報班の野田班長は住居手当が支給されている」
船橋班長が続いて住居手当について話してくれた。一人暮らしをすると住居手当が支給される。野田班長が対象者。と言うことは、野田班長は一人暮らしということになる。
「後は……残業したときは時間外手当が支給される。つまり残業代のこと。まあ私たち未成年は時間外労働が制限されているから、残業をすることも、時間外手当が支給されることも滅多にないかな」
「はっ」
突然船橋班長の後ろから声が聞こえた。その声は恐らく横芝先輩の声だった。
「……まあ、仕事が終わった後に『自主的に』残ることはあるかもしれないかな?」
船橋班長がそう言葉を返すが、横芝先輩はパソコンに顔を向けたままこちらを見ようとしない。まあ色々と大変なのだろうことは私にも分かった。
「この給料月額と手当額の合計が給料の総額。でも、この全額が佐倉さんの懐に入るわけではない。……手取り額って表現を聞いたことはある?」
「えっと……なんとなく」
年収何百万円と言っても、その何百万円は実際に自分が貰える額ではないと言う話は聞いたことがあった。実際に貰える額のことを手取りと表現して、それは年収よりもかなり低くなる。その程度の知識は私にもあった。
「まず、税金が引かれる。所得税は国に納める税金。住民税は県や市に納める税金。どちらも計算は複雑だけど……まあ、私たちなら所得税は5%、住民税は10%くらい取られるかな」
「……でも、住民税の欄は空欄になっています」
私は自分の明細を見て疑問に思った。所得税の欄には数千円の数字が記されているが、住民税の欄には何も記されていない。
「住民税は昨年の収入に対してかかる税金なの。だから佐倉さんは今年一年間住民税を納める必要はないし、私や光は住民税を納める必要がある」
「……なんだかややこしいですね」
税金を国に納める時期と県に納める時期が一年ずれると言うのはとても違和感があった。
「突然大金を手にいれた人が、所得税だけを税金だと思い込んで、翌年の住民税を払えなくなってしまうって話はよくある。あまり良い制度ではないんでしょうね」
船橋班長も私の考えに同意してくれる。
「次の共済掛金も税金の一種。一般的には社会保険料と呼ばれているもの。医療費や年金のために使われる税金なの。これがまあ……15%くらいは取られるかな」
「え……税金より高いんですか?」
意外に思えて、私はそう尋ねる。
「学校で、高齢者が増えてその負担が私たちに重くのしかかるなんて教えられなかった?」
「あ……はい。あります」
中学校の教科書に、二人の若者が三人の老人を必死に支えている絵が乗っていたことを私は思い出した。
「まさにその負担がこれのこと。昔とは比較にならないくらい、この社会保険料の負担はこの十数年で増大したみたい」
「なるほど……」
こうして自分の給料から二万円近くの額が取られているのを見ると、そのことの大変さが自分の身でも理解できた。
「ここまでが法定控除って言うもの。公務員、いや公務員に限らず大抵の社会人は所得税、住民税、社会保険料は払っている」
「その3つだけで30%ですか……」
私は税金の負担の重さを実感する。これで実際に買い物するときに消費税まで取られることを考えると、自分の給料の内自分が使えるお金は半分残れば良い方なのではないだろうか。
「でも佐倉さん。私たちは税金を徴収してそれを使っている立場だと言うことも、忘れないようにね」
「それは……はい。もちろんです」
私はしっかりとそう答えた。自分の給料の半分が取られると聞いたら、嫌な気分になる人が殆どだろう。その取ったお金が自分の給料にもなっていると言うことは、とても重く感じた。
「そして最後に法定外控除。これは税金とは違って本人の意思で給料から差し引くもののこと。前に説明したけど、お茶代&おやつ代として毎月千円を給料から差し引くからよろしくね」
給料明細の最後には、親睦会費という名目で千円が引かれていた。おそらくはこれのことだろう。そこで給料明細は終わっていた。
「私の説明は以上。それでは今の話をふまえて、JK課の皆の今月の給料が正しく支給されているかどうか確認してみて」
「えっ……」
突然の指示に、私はうろたえる。船橋班長の説明で給料についておぼろげには理解したが、給料が正しいかどうかを判断できる自信は全くない。
「みんなの給料はどのくらいか、どこから通勤しているのかって興味本意で眺めるだけで良いの。人の個人情報を覗いて悪いことをしている気分になるかもしれないけど、その人個人を意識して給料を見るってことはとても大事なこと」
「……そうなんですか?」
私は半信半疑で船橋班長に尋ねる。
「例えば私の給料月額が30万円だったら変だと思うでしょう?」
「それは……まあ」
先程船橋班長は、自分の給料は私より一万円くらい高いと言っていた。それにそもそも私の給料が15万円以下なのに、私の2年後の立場である人の給料が30万円ということはないだろう。
「ただ、私個人を知らない人がそれを見ても、30万円という普通の給料月額に何の違和感も持てない。私たちは給料の専門家ではないけど、JK課の皆のことについては給料の専門家の人より詳しいでしょう?」
「身近な視点で素人が見るからこそ分かるものもある……と言うことでしょうか」
私が自分なりの表現で言い直すと、船橋班長は頷いてくれた。
「給料の専門家……人事委員会が給料の基礎知識をまとめた冊子を出しているの。後ろのロッカーに入っているから後で読んでみて。それと、税金の話は国民全員に関係する話だから、インターネットで調べた方が分かりやすいかもしれない」
「はい。それじゃ、とりあえず皆の給料明細を確認してみます」
自分が給料明細を眺めて何の役に立つのかまだ実感は沸かなかったが、ともかく私は船橋班長の指示に従い給料明細を眺めることにした。