JK第5号 物品購入-負担行為ってなんですか-
私がJK課に配属されて一週間が過ぎた。私は新しい仕事を教えられることもなく、ただ大量に届くメールと、郵送されてきた文書を処理するだけの日常が続いていた。
単調な仕事ではあるが、それでも私は日々神経をすり減らしていた。今日も私は出勤後、すぐに前日夜に送られたメールを確認する。
まずは新着メールの内、急ぎの用件のものを探しだす。規格広報班の野田班長宛に明日の会議の連絡メールが届いていたので、私はあわててそのメールを印刷する。
「野田班長。あの、会議の連絡が来ていました。今日の15時から南庁舎2階の会議室で行うそうです」
私は印刷したメールを渡しつつ、そのメールの内容を野田班長に説明する。すると野田班長の顔色が変わった。
「……今日!? と、突然すぎない。まだなんにも準備してないのに」
「す、すいません」
私は慌てて頭を下げる。
当日や翌日が期限のメールをどうするかが、私の今一番の悩みだった。期限の直前になっていきなり連絡があったら、誰でも困るだろうし不快にもなる。
それは分かるのだが、私自身にメールが届くのも期限直前なのだ。自分がいくら努力しても、どうにもならない。
「なんでもっと早くメールを送ってくれないんだろう」
私の口から思わずそんな愚痴がこぼれている。
「あ、佐倉さん」
「は、はい!?」
愚痴を聞かれたかと思い、私は声が上ずる。
「そこの作業机に置いてある電動パンチの刃が曲がっちゃってるの。直しておいてくれない?」
「は、はい」
愚痴を聞かれた様子ではなさそうで、私は安心する。そして野田班長が指で示した、作業机の上の小型の機械に近寄った。
私は電動パンチと呼ばれたその機械を見るのは初めてだった。しかしその名称と形状から、いわゆる紙に穴を開けるパンチが電動になったものだとは理解できた。
私は手に持っていた不要な紙をセットし、スタートボタンらしきスイッチを押してみる。すると電動パンチはウイインと音を上げ、中央の金属の棒を紙に打ちつけた。
「うわあ」
私は思わず感嘆の声を上げる。
少し間をおいて、金属の棒は紙から引き抜かれる。そして紙には綺麗な丸い穴が開いていた。しかし、二個の穴は直線上に並んでいない。
金属の棒部分に目を近づけると、心なしか片方の棒が斜めになっているように見えた。おそらくはそれが原因で、本来とは少しずれた場所に穴が開いてしまうのだろう。
私は改めて電動パンチを眺め、自問した。この機械の用途は分かったし、修理が必要な場所も分かった。しかし、修理方法がわからない。
とりあえず斜めになっている金属の棒をつまみ、力を加えてみたが動く気配はない。
「電動パンチのことなら私に任せろ!」
手間取っている私の向かいで仕事をしていた柏さんが、突然声を上げる。そして有無を言わせず私の場所を奪った。
「私さあ、中学校では生徒会長だったんだ。生徒会で冊子を作る時にこれをよく使ってた」
柏さんは電動パンチの表面を触りつつ、そう告げる。
「そ、そうなんだ」
私は生徒会長の仕事に興味を覚えたが、仕事とは直接関係ないことだったため、発言を控えた。
「ほら、外れるんだよ、ここだけ」
柏さんは電動パンチから手を離すと、金属の棒が乗った手のひらを見せる。その刃は機械から外してみると、明らかに根本が折れ曲がっていた。
「消耗品だからメーカーのサイトで買えるはず。千円もしないんじゃないかな?」
柏さんはパンチの刃を私の手に乗せると、満足気な表情でその場を離れる。
「あ、ありがとうございました」
助言をくれた柏さんに感謝しつつ、私は企画広報班を離れた。
柏さんの助言どおり、電動パンチの型番を検索サイトに入力すると、あっさりと替刃の販売ページは見つかった。4本入りで600円と、値段も高くない。
私は購入ボタンを押そうとして、ふと支払方法が気になった。JK課のお金で商品を買うときは、どうすればいいのだろうか。
「……」
私は無言で隣の席の横芝先輩の様子を伺った。彼女が予算担当、JK課のお金を管理していることは私もすでに知っていた。
「あの、横芝先輩。そこの……電動パンチの刃が曲がってしまったので、替刃を購入したいです」
「……ああ」
私が現在の状況を簡単に説明すると、横芝先輩は机の上を探り、一枚の紙を佐倉に渡した。その紙には、よく分からない数字がずらりと並んでいる。
「これと、これと、これ……マーカーを引いてある予算は、調整担当のあなたに管理を任せる。消耗品はこの需用費からお金を出して買う。予算額は70万円。一年間で70万円までしか使えないから、注意」
横芝先輩はそれだけ説明すると、私から視線を外し仕事に戻る。しかし私は、今の説明を半分も理解できていなかった。
とりあえず、一年間で70万円まで使っていいことは分かった。それならば600円程度の物を買っても問題はないだろう。しかしどうやってJK課のお金を使うのかについては、全く謎が解けていない。
「何かを買ったら横芝先輩に言えば、お金を払ってくれるんですか?」
私が続けて質問すると、横芝先輩は首を振った。
「県のお金は全て中庁舎の二階にある出納局が管理している。お金を払うときはそこにお願いすればいい。ただ、その前に負担行為をする必要がある」
「ふたんこうい?」
聞きなれない言葉を耳にした私は、その単語を復唱した。
「何を何円で買ってもいいか、課長まで了解を取ること。今回なら、電動パンチの替刃を何円で買っていいかを伺えばいい」
その横芝先輩の説明は、素人の私にも分かりやすかった。
「電動パンチの替刃を600円で買っていいか、課長に聞いてくればいいんですか?」
私が確認の意味で再度質問すると、横芝先輩は首を横に振る。
「まずは予定価格を決める必要がある。電動パンチの替刃を買ったら何円になるか考えることを、予定価格を設定するという」
「いや、その……600円になります」
私は自分のパソコンに表示されている替刃の購入画面を見せる。しかし横芝先輩は再び首を振った。
「……何円までなら買ってもいいのか、その上限を示すのが予定価格。価格が何円以内なら買う、何円以上なら買わないと最初に決めるのが公務員の流儀」
「は、はあ」
私はその流儀を面倒だと感じつつも、ひとまず返事を返した。
「その、予定価格は勝手に決めていいんですか?」
「目安として10万円を越えそうな場合は真面目に決めた方がいい。ただ今回のように少額であれば適当でいい」
「じゃあ……1000円以上なら買わないことにします」
「……ん。それでいい」
私の言葉に、横芝先輩は深く頷いた。
「では、600円で買えるので買ってもいいですか?」
「駄目」
「えっ」
想定外の言葉が返ってきて、私は狼狽する。
「予定価格以内ならいくらで買ってもよいわけではない。複数の業者から見積書を取って、一番安い金額を提示した業者から購入しなくてはならない」
横芝先輩はそう言うと、私の前に一枚の紙を差し出した。それは一見して、見積書の記載例に見える。
「日付を必ず入れる、会社の代表者の印を押してもらう、金額は税抜価格にする。他にも色々なルールがあるから、詳しくはこの紙を参考にして」
「は、はい」
私は受け取った紙に目を通す。その他にも題名は必ず『見積書』とする、宛先は知事名にする等、事細かに指示がされていた。
「このような見積書をもらって、その中で一番安い金額だった会社から替刃を購入する。でも、それが1000円以上だったら買えない」
「……完璧」
私が自分の中で今の話を整理すると、横芝先輩は異論はない、といった顔で深く頷いた。しかし私は肯定されても、自分の中ではまだ異論が渦巻いていた。
「もし困ったら、これを使うといい」
横芝先輩はそんな私の様子を見て、一枚の名刺を取り出した。
「これは?」
「県庁出入りの業者の名刺。この会社なら何も指示しなくても、県の規則どおりに見積書を作ってくれる」
「は、はい。ありがとうございます」
私はその名刺を受け取ると、礼を述べた。
4時間後。私の手元には一枚の見積書が届いていた。見積書に記載された価格は890円。その数字を私は凝視する。先程から私の頭の中に残り続けている疑問は、その光景によってさらに膨れ上がった。
「……横芝先輩。直接的な質問ではありませんが、少しの間私の話を聞いてもらってもいいですか」
「……ん」
横芝先輩は仕事の手を止め、私の方を向いた。
「電動パンチのメーカーに連絡して、替刃を買うときに見積書を発行できるか聞いてみました。その会社では見積書の発行は行っていないとのことでした」
「……メーカー直販だとその手のサポートはしていないことが多い」
横芝先輩は淡々とした口調で説明を加える。
「もう少し調べてみたら、文具専門店のサイトでも680円で販売していました。問い合わせてみたら、見積書は発行できるが税抜価格にしたり代表者印を押したりすることはできないとのことでした」
「……大抵の会社では、見積書の様式は決まっている。数十万円のものを買うならともかく、数百円の買い物に対して個別に対応しても労力に見合わない」
「……はい。見合わないでしょう」
私は横芝先輩のその発言に少し苛立ちを覚える。その方法がうまくいかないことを横芝先輩は最初から知っていて、それでもあえてその方法を私にやらせたように感じられたからだ。
「最後に、横芝先輩にいただいた名刺の業者に連絡してみました。替刃の商品名を告げると、折り返し連絡しますとだけ答えがあって電話は切れました。そして2時間後、この見積りが届きました」
私は890円の替刃の見積書を横芝先輩の前に出した。横芝先輩はその見積書を一瞥する。
「馬鹿馬鹿しくありませんか?」
私は少し間を置いて、しっかりとした口調で告げた。
「600円で簡単に買えるものを、数時間かけて890円で買うことに、意味があるんでしょうか。電話代だって、電気代だって無駄にかかるはずです」
私は自分のその意見は、当然万人に肯定されるものだと思っていた。しかし横芝先輩はゆっくりと首を横に振る。
「……悪魔と契約するときに、なぜ生贄が必要なのか、なぜ儀式が必要なのか、考えても仕方ない」
「は、はあ」
私は自分の意見が茶化されたように感じたが、横芝先輩は真面目な表情をしており、言葉に詰まってしまった。
「悪魔が望むのだからその通りにするしかない。それだけのこと」
横芝先輩は最後にため息を吐いて、話は終わりとばかりに私から目を背けた。
「でも……」
話を続けようとする私の肩を、背後から伸びた手が押さえつけた。
「そんな風に疑問を持つのはいいことよ」
「班長……」
いつの間にか、私の後ろには船橋班長が立っていた。船橋班長は私の肩に手を置いたまま、優しい口調で語りかける。
「この『負担行為』は公務員の基本なの。辞令交付式の時にたくさんの新規採用職員に会ったと思うけど、今頃はみんなが同じように負担行為をしている。……そしてきっと、多くの人が疑問を持ったことでしょう」
船橋班長はそこまで話すと私から手を離した。
「ちょうど一年前は、横芝さんもそれを疑問に思った。二年前は、私も疑問に思った。公務員として働いている人の大半は、今の佐倉さんの疑問と、同じことで悩んだ経験がある」
「……そうなんですか」
「そう。……それなのに、今も『負担行為』は存在している。何故だか分かる?」
船橋班長のその問いについて、私はしばらく考えを巡らせたが、何も答えることはできなかった。
「それが、県民の総意だからよ」
「……え?」
私は自分の想像とはあまりにもかけ離れたその答えに、目を丸くした。
「県民がこのやり方を望んでいるのだから、県民のために働く私たちはそれを否定することはできない」
「そんなこと……」
私は反論しようとしたが、次の言葉が出てこない。船橋班長はそんな私の気持ちを代弁するかのように呟いた。
「県民はそんなことを望んでいない……そう言いたくなる気持ちは分かる。でも、あなたや私に県民の意見を代弁する権限はない。代弁できるのは……県民の代表者、だけよ」
船橋班長はそこまで言うと、私に背を向けた。
「…………」
取り残された私は、頭の中で今の話を整理する。しかし、いくら時間をかけても、こびりついた違和感は拭いきれなかった。
「……悪魔に惑わされるな」
隣の席の横芝先輩が、ぽつりと呟いた。悪魔。先程までは突拍子もなかったその単語が、なぜか今はしっくりときた。