JK第3号 文書受付-42件の未読メールがあります-
JK課の入口から一番遠い場所に、総務班の席はあった。3個並んだ机のうち手前の席と奥の席は空いていて、中央の席にはパソコンで作業をしている女子の姿があった。
「あなたの席は一番手前のここ。隣の席の彼女は二年生の横芝さん。ほら横芝さん、かわいい後輩がやってきたよ」
船橋班長が声をかけると、横芝さんと呼ばれた女子はパソコンから手を放し私に視線を向ける。その表情に笑顔はなかった。
「……横芝です。よろしく」
横芝はそれだけ呟くと、私の反応を待たずにまたパソコンに向かった。挨拶を返すタイミングを失ってしまった私は、うろたえて船橋班長の顔を見てしまう。
「今の彼女は死ぬほど忙しいから、許してやって。この時期の予算担当はしんどいのよ」
「予算担当……?」
「一般的な表現をすれば『経理』。お金の動きを管理する仕事よ。ちなみにあなたは調整担当。一般的な表現をすれば『庶務』。つまり雑用が仕事」
「県庁では経理を予算担当、庶務を調整担当と呼ぶんですか?」
佐倉がまとめると、船橋班長は頷いた。よく分からない言葉の置き換えに、私は首を捻る。略称ならまだしも、文字数が増えてしまっては呼びにくいだけだ。
「ちなみに私は議会担当。これは県や市、国にしか存在しない業務だから一般的な表現はないかな。佐倉さんは国会中継を見たことはある?」
「総理大臣が質問に答えたりする……あれのことですか?」
「そう。総理大臣の立場が知事。難しい質問を知事の代わりに答えるのが各課の課長。そして偉い人の後ろに座って、カンニングペーパーを渡したりするのが私の仕事」
その船橋班長の説明で、私も彼女の仕事を何となく理解する。国会中継の風景を思い返すと、確かに偉い人の後ろには無言で紙を渡す若い人の姿があった気がした。
「さて、佐倉さんに最初に任せる仕事は、連絡係です」
「連絡係……」
いかにも学校にありそうな係名を示されて、私はどう反応すべきか迷った。そんな私の様子を見て、船橋班長は笑みをこぼす。
「県庁の連絡係を無難にこなせるようになるには、最低でも1年はかかります。私は、2年が経過した今でも、連絡係をミスなく行える自信はない」
「そ、そんなに……大変なんですか」
連絡係というかわいい表現とは裏腹の説明を受けて、私は少しうろたえる。
「百聞は一見にしかず。実際にやってみましょう。席に座って、パソコンを開いてみて」
船橋班長は目の前の椅子を手前に引くと、私に腰かけるよう促した。私は指示どおり席につき、机の中央に鎮座していたノートパソコンの蓋を開ける。
「これは県職員全員に支給されているパソコン。このICカードでログインするの」
船橋班長は私に名刺サイズのカードを手渡す。そのカードをパソコンにセットすると、パスワード入力画面が表示された。
「パスワードは……」
「この紙に書いてある初期パスワードを入力して」
渡された紙に記載されたパスワードを入力すると、パスワード設定画面が表示される。
「そうしたら、佐倉さんが好きなパスワードを設定して。何でもいいから」
「は、はい」
私は少し考えたあとに、思いついた文字列を入力する。すると、ほどなくデスクトップ画面が表示された。
「そこのメールソフトを開いてみて」
「こ、これですか?」
私は矢継ぎ早に繰り出される指示に慌てつつ、デスクトップ上を探して、メールソフトのアイコンをクリックする。
「初期設定のマニュアルがここにあるから、このとおりに操作してくれる?」
「はい」
私は手渡された数枚のマニュアルに目を通すと、それに従ってパソコンを操作した。マニュアルの薄さが示すようにたいした作業ではなく、5分ほどであっさりと作業は終わる。
「……!?」
設定が終わった瞬間に、いくつもの新着メールが表示される。受信メール画面は次々に更新され、最後にポップアップウインドウが開いた。
『42件の未読メールがあります』
画面に表示されたその文字に、私は思わず息を呑む。こんなに大量のメールを受信したことは、私の短い人生経験の中では、もちろん一回もなかった。
「一日平均50通はメールが来る。この時期だと一日100件は越える。もちろん迷惑メールや宣伝メールではなく、全てが仕事のメールだからね」
船橋班長の言葉どおり、そのメールの宛先や件名には難しい単語が並んでいた。何通かメールを開いてみると、本文にはさらに難しい単語が並んでいる。そして大量の文書ファイルが添付されていた。
「慣れない内は、軽く目を通すだけでも一日が終わるはず。ましてメールの内容を全て読もうとしたら、徹夜をしても終わらない。だって、ほら」
船橋班長は画面の右端に視線を動かす。そこには新しく『新着メールが届きました』と通知が表示されていた。
『43件の未読メールがあります』
ポップアップウインドウの数値が遠慮なく更新される。確かにこれでは、メールを一通読み終えた頃には、次のメールが届いていそうだった。
「佐倉さんにはとりあえず一番単純なメールの仕分け方を教えます」
船橋班長はそう言うと指を一本立てた。
「その1。個人宛のメールはその人に投げろ」
「投げろ……?」
「内容を見ないで、来たものをそのまま担当者に渡すことを俗に投げると言うの。あまり良い処理方法ではないけど、不馴れな内はこれをやらないと仕事が回らない」
「それは、駄目な方法なんですか?」
個人宛のメールをその人に渡すことがなぜ悪いのか、私は分からず首を捻った。
「担当者以外の人も内容を知っておいた方が良いメールもあるし、宛先とは別の人が担当者となる場合もある。課内全員の仕事を理解して『このメールを必要としているのは誰なのか』を考えるのが連絡係の本来のお仕事」
「はあ……」
「でも、先程も言ったとおりその領域に到達するまでには最低でも一年はかかります。しばらくは『投げる』だけでいいから」
船橋班長のその言葉に、私は戸惑いつつも頷いた。
「それでその、どうやって『投げれば』いいんでしょうか」
「そのメールを転送するだけでOK。紙で渡したり、口頭で連絡した方がいいこともあるけど……それもしばらくは考える必要はない」
「わ、分かりました。やってみます」
私はとりあえず、先に来たメールから順番に宛名を確認し、その宛名に該当する人物のアドレスにメールを転送していく。その作業自体は単純で、難しくはない。
「調整担当様宛のメールは……どうすれば」
「それはあなた宛のメールだから、連絡係としてではなく担当者として、後でじっくり読んでみてね。他のメールに紛れないように、目印を付けておきなさい」
私は船橋班長の指示に従い、メールを右クリックしてフラグを設定した。
『28件の未読メールがあります』
最新のメールまで転送を行うと、それなりに未読メールの件数は減った。とは言えまだまだ先は長いように思える。
「その2。以前に似た内容のメールが届いていないか調べる」
船橋班長は指をピースサインの形にして、メール仕分けの心得その2を告げた。
「このメモリの中に過去三年間の、連絡係が受信したメールと送信したメールが入っています」
船橋班長は小型のUSBメモリをパソコンに差し込むと、私からマウスを奪ってデータのインポート作業を始めた。
「これがあれば、過去三年間に連絡係が受信したメールが、誰に転送されたか、あるいは誰にも転送されなかったかを調べることができる」
「つまり、似たメールが見つかれば、後はそれを真似て転送すればいい。そう言うことですか?」
私の言葉に船橋班長は頷いた。
「ご名答。でも、当時と今で状況が変わっていることもあるし、当時の連絡係が間違った判断をしていることもある。この方法が最善ではないことは、忘れないでね」
私は船橋班長の話を聞きつつ、残った未読メールの件名から印象的な単語を拾い、過去メールの検索をかけてみる。そして似たメールが見つかった時は、当時と同じようにメールを転送した。
『6件の未読メールがあります』
「だいぶ減ってきました」
未読メールの数が減り、私は少し安心する。
「それでは最後、その3。分からなかったら全供覧」
「ぜんきょうらん?」
聞き慣れない単語が登場したので、私はその単語について聞き返す。
「他の人に文書を見てもらうことを供覧と言います。全員に供覧するのが、全供覧。つまり、分からないなら全員にメールを見てもらおうってこと」
私は船橋班長の説明になるほどと頷こうとしたが、その時素朴な疑問が頭に浮かんだ。
「全てのメールを全供覧するのは駄目なんですか?」
私の疑問に、船橋班長は笑いつつ首を振る。
「40通の新着メールを全員が読んでいたら、誰も仕事ができないでしょう? だからこそ、必要な人にだけメールを渡すの。それが連絡係の仕事よ」
「……はい」
自分の疑問が的外れだったと分かり、私は頬をかく。ただ、その話で私は少し連絡係の仕事を理解した。この大量の情報を正しい人に届ける、要はインターネットでいう検索サイトの役割をするのが、私なんだ。
「残ったメールは全て印刷して、このバインダーに挟みましょう。印刷が終わったらそれを課内の全員に見せればOK」
「はい」
私は指示に従い、メールを印刷していった。大抵のメールは添付ファイルがついていて、単に印刷するだけでも手間がかかる。
『未読メールはありません』
作業開始から2時間後、ついにメールソフトは敗北宣言を行った。
「終わりましたー……」
私がそう声を上げると、自分の席に戻っていた船橋班長は仕事の手を止めた。そして自席から私に声をかける。
「少しは連絡係の苦労がわかった?」
「……はい。想像よりもはるかに大変でした」
私は素直な感想を告げる。その感想を聞いて、船橋班長は薄く笑った。
「もうお昼休みよ。一年生の二人と一緒に県庁内を見て回ってきたらどう?」
船橋班長にそう言われて、私はJK課の入口上部にある時計を見上げた。時刻は既に12時を少し過ぎている。
そして、JK課の入口には柏と茂原の姿があった。柏は私の視線に気付くと、元気よく手を振ってみせる。
「は、はい。行ってきます」
私は自分が他の一年生を待たせていたことを理解して、慌てて席を立った。